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#204 私がユエスレオネを放棄した時


 翠たちは先行する寮長の背中を追いながら、校舎の中を歩いていた。ユエスレオネで通っていた学校と比べて建築の質が落ちたような気がしなくもなかった。というのは堅実な作りのように見えて、ところどころ塗装が剥げていたり、ささくれが放置されていたからで、そういったものを見ているとなんだか心配になってきた。

 廊下で雑談している生徒たちの視線が張り付くように感じられて心地良いものでは無かった。せっかくユエスレオネでの喧騒から抜け出せても、どこへ行っても物珍しく扱われるのは変わりないらしい。エレーナもシャリヤも移動中に一言二言の言葉を交わすも居心地悪そうな雰囲気が拭えなかった。

 もっとも、本物の異世界人にその視線を向けるのは正しいのだろうが。


"Fqa io coss icve lersse."

"Firlex, pa miss letix niv kanteluesco adit et. Harmoe miss icve la lex xale mors?"


 エレーナが教室の中の様子を横目に寮長の言葉に被せるように質問をしていた。両手の人差し指で胸の前に四角を描くジェスチャーは書類か教科書か、そういったものを指しているように見えた。ただ、この世界のジェスチャーが必ずしも地球のそれと同じとは限らないのが理解の難点だった。

 寮長はエレーナの質問を聞いて、少しも悩まずに教室の中でたそがれていた青色シャツの男性を指差した。


"Nun kynte'c plax! Deliu mi tydiest mi'd lersse mag jujol. Salarua!"

"Ej, mil......"


 寮長は言いたいことだけ言い残して翠たちの目の前から去っていってしまっていた。エレーナは制止することに意味が無いと気づいて、ため息を付いていた。一方のシャリヤは心配そうな面持ちで教室の中を覗いている。フェリーサはそんな慎重そうな二人を置いて一人で教室の中へと進んでいっていた。青色シャツの男性、恐らく教師と何かを話しているようだった。


"Cene miss lersse fal fqa filx firlexo ai'r'd lkurftless?"


 シャリヤがフェリーサを遠い目で見ながら口元から言葉がこぼれるように言った。彼女らにとっては当然の質問で、翠にとっては死活問題だった。


"Lirs, deliu miss lersse fal fqa ja."


 エレーナもフェリーサを見ながら呟く。フェリーサが話を追えて、翠たちを手招きした瞬間音質の悪い電子ブザーのような音が構内に鳴り響いた。シャリヤは怯えたような表情で両手で耳を塞いでいた。

 どうやら授業が始まるチャイムだったようで、廊下に居た生徒たちは次々と教室の中へと入っていく。フェリーサの手招きに付いて教室に入ると教師は無言で空いている席を指差し、座るように指示した。教室の一角に2×2の四つの空いている席が存在した。いそいそと座るとそれを確認した教師は椅子から立ち上がった。


"Iwa, h^ut^eer."


 教師が喋り始めたのは恐らくアイル語だったのだろう。翠の右に座ったシャリヤの不安げな表情が諦めに転じる。翠も寮長や空港の職員がリパライン語を話していたから、授業もリパライン語で行われるのだろうかと思っていたがそんな希望もすぐに潰えた。


"Lebi akianu atamuja tunuga zunaiige werlfurp canaim noyaiir. Lebi kagamo......"


 教壇に立って教師が話し始めた言葉は相変わらず意味が分からなかった。黒板になすりつけるようにして書かれた文字はラテン文字の筆記体のような全く読めないものだった。

 ビニールの雨靴で乾いた石の床を歩いているような感覚の言葉のリズムが理解出来ない自分を苛つかせる。溜まっていくストレスの中で、背中の後ろから囁くような小声が聞こえた。


"Fqa'd snenik io miss lersse tarmzi'd firlexo werlfurp."


 何か生きた感じがしない言葉遣いが聞こえると思って背後へと視線を反らすとフェリーサが必死に先生の言葉をリパライン語へと紡ぎ直しているようだった。彼女の表情は同時通訳の難しさがにじみ出ているかのようであった。

 通訳、といえばインド先輩にいくらか聞いた面白い話がある。

 1977年に当時アメリカのカーター大統領がポーランドを訪問した。この時のポーランド語通訳者の誤訳は有名で、「私がアメリカを出発した時」を「私がアメリカを放棄した時」と訳し、「ポーランド人民に性的欲望を感じる」などという珍妙な訳も飛び出ることになった。挙句の果てにポーランド人には「田舎臭くて教養のない人間のような酷いポーランド語だった」などとまで言われてしまった。

 ただ、英語やフランス語のような所謂メジャー言語に比べて需要の少ない言語の有能な通訳者が育つのは難しいものだ。インド先輩自身も父親のタミル語の知識は日本人の誰よりも卓越しているというのにその価値が正しく評価されていないと憤っていた。世間は多様な言語の世界に無関心だし、エンターテイメントの彩り程度にしか考えていない。それだけでは食いつなぐのも難しいマイナー言語の知識を持つ人間を世間は冷遇しがちだという世界の悲しい現実に気付かされたのであった。


"atamuja tunuga zunaiine chaba-chabbama werlfurp puatum tunuga ngeipu baibae canaiseta. Iwa, skyli'orti'e kaganu chaba-chabbama werlfurp puatu-puatum kaisa i hiyar."

"Tarmzi io siss tisod eso werlfurpu'st tonir'd celdino'ct. Mag, skyli'orti'e'd liestu io siss...... Ar! kolita!"


 フェリーサは翠の視線に気づいて訳そうと努力していたがついに集中が切れたのか机に突っ伏してしまった。隣に座るエレーナは目にも当てられないという様子でため息を付いた。シャリヤはといえば教師の方を見たまま、起きているんだか寝ているんだか分からないような顔をしていた。


"Anaa aimasvia."


 教師の怪訝そうな目がフェリーサの方を向いていた。指摘するような事を言ったのだろうが彼女は全く応じなかった。教師は黒板に向き直り、謎の文字を書き続け、理解できないアイル語を話しながら内容を進めていく。授業はまだ始まったばかりであった。


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