#202 タムツイを信じて
照明を付けると何回かガラス瓶を爪で叩くような音が聞こえて、頭上の電球に明かりが付いた。シャリヤが"Or"と称賛するように小さく声を上げる。彼女はそのまま興味半分恐れ半分といった様子でたんすを開けていた。背後から覗き込むとその中にはタオルやらジャージ、制服が綺麗に折り畳まれて入っていた。
(そういえば、俺達には外行きの服は今来ているのくらいしか無いのか)
シャリヤはタオルとジャージを一着、たんすから取り出して部屋の中にあるドアを指差した。あれはトイレやシャワーがある区画だろう。確かに個々数日は風呂に入った覚えがない。思い出すと肌がベタつくような感覚がしてきた。
"Mi lus netins ja."
"Ar, ja."
シャリヤは遠慮せずシャワーの方へと入っていった。"netins"は恐らくシャワーを指しているのであろう。
男子であれば同じ部屋で女子がシャワーに入っているなどという状況では興奮せずには居られないだろう。だが、何日も同室で隣り合って暮らしてきた翠とシャリヤともあれば何も気にするものはない。
「……なんか、デリカシーの無さを自慢しているような気がするな」
ただ一人で呟いた日本語は部屋の静寂に飲み込まれて消えていった。日本語で何かを言っても、帰ってくる言葉が無いという事実だけでなんだか寂しい気持ちになるものがある。生活が落ち着いてきたらシャリヤに日本語を教えるのを再開することにしよう。
シャワーの水が浴槽に落ちていく音が微かに聞こえる。手持ち無沙汰なこの間に寮長に貰った学校説明の紙のような物を読むことにしたほうが良さそうだと感じた。テーブルの上に紙を置くと、その手書きの文字の汚さがはっきりと感じられた。
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○ Irxergal ad la lexe'd niukirna :
・Irxergal lusvenil es 40'd liestu'd 0'd rukest. Cene niv co en irxergala'c fasta la lex.
・Irxergal letix qa'd desal. Shrlo ircalart lot des fal qa'd desal plax.
○ Knloano :
・Lersseer elx cene knloan fal elx lerssergal'd knloanal.
・Knloanal fasripietil ad lusvenil es 30:00-35:00, 50:00-55:00, 80:00-85:00.
○ Arte celdino :
・Duxieno'it lexif letix coss veles icveo arte celdino fai PMCF'd korxli'a'd sopit.
・Wioll coss icve 25000'd sur a stujesn.
・Co karx le loler celdino felx shrlo inarxt plax."
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良く分からないところはいくつかある。だが、我ながらレトラに居た時に比べれば何倍も文章が読めるようになった気がしなくもない。もっともそんな喜びも奇妙な表記に目がついたことで消え去った。
(40時0分って何のことだ?)
確かレトラにあった時計は1地球秒よりも短い1異世界秒が存在し、125秒が一分で、一時間は36分の24時間制だったはずだ。つまり、》。このPMCFにはタカン人が使う時間体系が存在していて、それに沿った時計が使われているということなのだろう。
頭上を見上げると都合のいいことに時計が置かれていた。漢字のような文字が文字盤に書かれているが、どれがどのリパーシェ数字に対応するのか良く分からなかった。まあ、これは明日呼び出してくれる寮長に訊いてみることにしよう。
他に分からない所といえば、リパライン語の単語であった。"lexif", "a", "stujesn", "karx", "arte", "sopit", "le", "loler", "inarxt, "ircalart", "lot"、考えてみれば分らない単語が多い。見当が付くのは"ircalart lot"くらいだった。恐らく、動詞の前に来て「静かに」というような意味を表すのだろう。ユミリアに連れて行かれた学校にあった図書室の立て付けの悪い戸を思い出す。
前言撤回になるが、文章は読めても単語は分らない。そしてこの状態は"fenxe baneart"の二の舞を引き起こす危険な状態だ。
「はぁ……」
リパライン語の辞書を求めて本棚に目を向けてもその背表紙に良く分からない言語が書かれた本しか存在しなかった。一冊取り出してぱらぱらとめくってみる。そこにはラテン文字の筆記体のような文字が延々と印刷されていた。ため息を付きながら戻して、もう一冊本棚から引き出す。今度はリパーシェが印刷されているようだった。
"ail panit leti set...ai... leti ...ulante ail mo leti sep ...antel......?"
読めない字が混ざっている上に分かる単語が"set"しか無い。翠はついに床に身を投げた。その瞬間目の前にジャージ姿のポニーテール少女が見えた。いつの間にか後ろに立っていたらしい。
"Jusnu――"
「その手にはもう乗らないぞ、フェリーサ」
いきなりの日本語にフェリーサは翠を驚かせるのも忘れてぽかーんとした顔になっていた。埒が明かないと思って、頭の中をリパライン語モードに切り替える。
"Selene harmie co icve."
"Niv, selene mi famialys xij co'tj. mi klie fua lkurfo la lex! Viojeffesti!"
"Mer, harmie famialyso es?"
"Ers la lex le loler esal e'it ja!"
フェリーサはシャリヤの居る方を指差して言った。まさかとは思うが一緒に風呂に入りたいということを言っているのだろうか?仰向けから起き上がってフェリーサの顔を見る。
様子のおかしいことを言うと思えば、フェリーサの顔は赤くなっていた。それも部屋に入る前のシャリヤとはまた違った赤さだ。
"Felircasti...... co firlex lkurfo co'st?"
"Lirs, miss g'es vioj, fhasfa's falcins mels la lex?"
「あのなあ……」
"Anonar, anonar! Lecu miss tydiest, viojeffesti!!"
ついつい出てしまった日本語を繰り返しながらフェリーサは上機嫌に翠の袖を引っ張ってくる。その瞬間、彼女の肩に誰かの手が触れているのが見えた。
"FELIRCA ?"
フェリーサの肩を掴みながら、微笑しているのはバスタオルを体に巻いたシャリヤだった。そういえばそうだ、同室なのだから話が聞こえていないはずがない。シャリヤの顔は微笑んでいるが何かダークなオーラが後ろに巻き起こっていた。空気が静電気を帯びたように痛い。
"Kikitamo amuaga letixerl i aimar ja!"
あろうことかフェリーサは更にテンションが上った様子で翠の左腕に抱きついてきた。シャリヤはそれを見て口元をひくつかせながら、右腕を対抗するように掴んできた。理解できるリパライン語混じりのアイル語はシャリヤを完全に挑発しているようだった。
"Lern si ler. Lirs, cene niv mi firlex lkurferl co'st."
恐らく、"lern"が「離れる」という意味の動詞であることは理解できたが、冷静に言語解析をしている場合などではない。シャリヤとフェリーサに両腕を掴まれて、両方から引っ張られてちぎれそうになっているのだ。普通の異世界転生者の主人公は女の子に両側から引っ張られてもちぎれないように出来ているのだろうか?
"Lern!"
"Niv lern!"
フェリーサとシャリヤはいがみ合いながらも引っ張ることを止めなかった。女の子に両側から引っ張られて体がちぎれて死ぬのは幸せだという新たな性癖を自分の中で開発するべきなのか――などというどうでもいいことを考えながら、この面倒がいつ終わるのかとため息を付いていると部屋の出入り口のドアが開いた。
"Felircasti! Dosnud mi'tj! Fenten niv xalija's at!"
乱入してきたのはエレーナであった。怒っているような困っているような微妙な表情で慣れない手付きでフェリーサを翠から引き剥がした。フェリーサはよろよろとその場にへたりこんでしまった。シャリヤはといえばエレーナの一喝で正気を取り戻したのか、するすると手がほどけていった。
フェリーサの様子がおかしいのは何故なのか。エレーナが事情を知っているのかもしれない。フェリーサを立たせようとしているエレーナに翠は見やった。
"Harmie felirca is?"
エレーナは翠の声を背に聞いて、振り返って呆れたような顔をした。
"Edixa ci xast."
"E xast!?"
"xast"という単語にいち早く反応したのはシャリヤだった。驚いた様子で目をぱちくりさせている。さっきのようなダークなオーラはいつの間にか無くなって、本当に心配そうな表情でフェリーサを見ていた。"xast"がどういう行為なのか、良く分からないがそれを訊くという状態でもなかった。フェリーサはエレーナに肩を貸され、高いテンションが収まらないまま部屋の外へと連れ出されてしまった。
騒がしいポニーテール少女とその連れ添いが出ていくと、部屋は静寂に包まれた。
くしゅん――と誰かのくしゃみが聞こえた。自分ではなくシャリヤがしたものらしかった。今までずっとバスタオル一枚だったのだから、それもそうだろう。シャリヤは部屋に入る前と同じように顔を真っ赤にして脱衣場に戻っていった。
(本当にお騒がせなやつだな……)
翠は自分の着れそうな服をたんすの中から見繕って、テーブルの上に置くと、また床に寝転がってシャリヤが出てくるのを待った。




