#197 耳は痛くなるもの
飛行機に乗るのは初めてだったがまさかこんな風に初めてを体験するとは思いもよらなかった。だが、翠の心の中には変な平穏があった。これまでユエスレオネの地で行われていた紛争を思えば、あの銃撃戦はどうということもない。レトラでの襲撃でどれだけの被害が出たか。数えるのも恐ろしいほどである。
そんな翠の気疲れをよそに隣に座るシャリヤは目を輝かせてじっと窓の外を見ていた。翠達は何処までも続くような海も空も長い間見ては居なかった。いつもそれは町の灰色に邪魔されてばかりだった。過去の記憶は無いが、翠自身海を見るのが本当に久しぶりな気がしていた。
そんな景色も時間が経てば変わって、緑に包まれた島々の中に建物がぽつぽつと建っているのが見えるようになってきた。
"Wioll etixon furdzvok mol ly."
レシェールがコックピットの方から調子悪そうに歩いてきた。車よりは良いにしろ、やはり狭い場所は苦手なのかもしれない。シャリヤと翠は顔を見合わせてから、レシェールの方を仰ぎ見た。
"Fentesopiton aiares melx cene miss netimal?"
"Niv qune. Pa, jol niss keples ly."
シャリヤは納得したようにレシェールの答えに頷いていた。何を質問したのかは良く分からないが、懸案事項ならいくらでもある。そんなことを考えていると航空機は下降を始めた。段々と耳に違和感が感じられた。気圧が変化しているのであろう。銃撃戦の緊張感でアドレナリンが出て、離陸時に感じられなかった耳の痛みもリラックスしてしまった今になってははっきりと感じることが出来た。隣に座るシャリヤも耳を押さえて痛そうに顔を歪ませていた。
"Xalijasti, ers vynut?"
こくこくと頷きだけで返答する。言葉が出ないあたり、痛みと格闘しているのがはっきりと分かる。
インド先輩も海外によく行くことから幼い頃は飛行機に乗る度に耳が痛んだという話をしていたが、耳の痛みや違和感は地上に戻れば数十分から数時間で元に戻るという話もしていた。ただ、それでも痛がっているシャリヤは見るに耐えない。どうにかしてあげたかった。そんな思いで翠は席に戻ろうとしていたレシェールを捕まえた。
"Fqa io ietost ol fhasfa'd knloanerl mol niv?"
"knloan"は「食べる」と「飲む」のどちらも表す動詞だったから、派生名詞を言うと同時に飲むジェスチャーをする。これもまたインド先輩の話になるが何かを嚥下すると耳管が開いてこういった症状は改善されやすくなるという。だからこそ、飴や水のボトルがあると便利だと言っていたのを思い出したからだった。
レシェールは翠の要望を聞くと"firlex, melfert."と言って奥の方へと行ってしまった。がさごそと物を漁る音が聞こえた数分後、レシェールは水の入ったボトルを持ってきてくれた。受け取ってシャリヤに渡す。
"Knloan, xalijasti. Wioll ekce is vynut."
シャリヤは疑い半分といった様子でボトルを受け取って一口、二口飲むと驚いた時のように頭を揺らした。そして、耳をさすりながらボトルのキャップを閉めて前の席のネットにボトルを入れた。嚥下したり、耳抜きで治す瞬間は痛い場合があるという。少し痛がっているものの、シャリヤの表情から痛みが緩和したことが伝わる。
じっと見られていることに気づいたのかシャリヤは翠の方を向いて微笑んだ。
"Xace, cenesti. "
"Als niv mol!"
彼女の笑顔のために生きていると言っても過言ではないのかもしれない――そう思うほどにその瞬間が嬉しかった。
航空機はどんどん降下していく。島々の中に点々と建物が立っているような辺鄙な状況もいつの間にか、都市圏と言っても差し支えないほどの賑わいになっていた。木や野原の緑や、オレンジ色が大半にしろユエスレオネで見たよりかは色とりどりの屋根、それらの間を縫うように走る車道が何だか人間らしい温かさを感じさせる。よく見ると車道ではせわしなく車が行き来している。自分たちがユエスレオネから命からがら逃げてきたことなどこの空の下で暮らしている大半の人達にとっては関係ないことなのだろうと思うと急に寂しい気もしてきた。
"Tlarkija listerditlerding. Wioll netimal."
レシェールが座席に垂れる金具を指差していた。シートベルトを閉めろということなのだろう。まるでフライトアテンダントのような足取りで後ろに座っているフェリーサやらエレーナの座席も見ていく。そんな彼の様子を特に理由もなく見ていると左手に温もりを感じた。そちらを見るとシャリヤが翠の左手を掴んでいた。彼女も飛行機に乗る機会などあまり無かったのだろう。だが、視線は窓の外を見たままだった。
きちんと着陸できるのかという彼女の心配に翠は手を握り返しながら、大丈夫だと願ってその時を待つほか無かった。




