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#190 お人形さん


 食事の後で使用人が翠とシャリヤを一室に案内した。中にユニットバスが設置されている水回りも清潔だった。さすが多くの使用人を雇っているだけある。シャリヤはもう疲れてしまったのかすっかり、部屋の中にあるベッドの上ですやすやと眠り込んでしまっていた。レトラでぬくぬくと暮らしていたときと比べて、今はストレスに満ちた環境だ。彼女が疲れてしまうのもしょうがない事だろう。


(ちょっとここを散策してみるか)


 翠はちょっとした興味で豪邸の中を見て回ろうと思った。シャリヤを起こさないように部屋から出て、周囲を見渡す。

 豪邸の主、ビェールノイの趣味にあってそうなシックな建築だった。廊下にはワインレッドのカーペットが敷かれている。柱は石造りのようだったが、豪邸の大部分は高級そうな材木で形作られていた。


"Lu Jazgasaki.cenesti, co styxud fhasfa lu?"


 いきなり話しかけてきたのは使用人の一人であった。黒いタキシードとパンタロン、真っ白な手袋に銀髪がそれぞれのモノクロでシックな印象を感じさせる。顔立ちと声から見るにシャリヤと同じくらいの年の女の子であろう。見る分には使用人らしく礼儀正しい、そして年相応の可愛らしい少女だ。だか、何かはっきりと言い表せない違和感を感じていた。


"Mer, lecu mi xel fqa."


 "fqa"と言いながら左から弧を描くようにして、この建物を見て回ろうとしていることを表した。だが、使用人の少女は全くそれに表情を変えず、感情が死んだような表情のままこちらから目を逸らさなかった。


"Fudiur niv farmesenerfej plax lu. Jol co g'is celdiner fon cysilarta, snusnij el snutokastan plax lu."

"Ar, mer."


 使用人の少女の声には抑揚が無く、流暢なリパライン語でも分らない単語が多すぎて適当な相槌を打つしかなかった。少女はそんな翠に目もくれず、真っ直ぐどこか奥の方へと静かに去っていった。

 結局、何を言いたかったのだろうか。"celdiner"は動詞"celdin"に行為者名詞を作る語尾"-er"が付いた動詞派生名詞だろう。"cysilarta"がビェールノイのことを指しているのであれば、彼女ら使用人たちは翠とシャリヤも使用人として加わると思っているのだろう。

 安定して暮らせるのであれば、それは良いことだ。かといって一つの場所に留まることは自らを危険に晒すことになる。だから、ここの使用人になることは翠たちに選べる選択肢では無かった。


「……もう少し進んでみるか。」


 ワインレッドの床を進んでゆく。薄暗く狭い廊下の両脇には多くの部屋があり、どうやらここに使用人たちは個室を持っているようだった。真鍮製のネームプレートらしきものがそれぞれの戸に固定されていて、名前らしき文字列が彫り込まれていた。この世界に来てから何度でも見たリパーシェ文字の活字体が彫り込まれている溝をなんとなく指でなぞると何故か罪悪感を感じて頭を振った。

 更に進んだところにある突き当りのドアにはネームプレートが付いていなかった。物置場か何かなのだろうと思い、じっと見つめながら考えていたがよく見るとそのドアは少し開いているようだった。好奇心が煽られるが、耳をすませるとその部屋の中から声が聞こえた。


"Ej, mili! Es e'i niv ti!"


 静寂な豪邸に似合わないような悲鳴に何事かとドアの開いている隙間から中の様子を見た。そこには病衣のような服に身を包んた黒髪の少女が椅子に固定されていた。その顔に見覚えはないが、表情は恐怖にまみれていた。その前に立っていたのはビェールノイだった。先程のシックな服装とは打って変わって白衣に身を包んだ医者のようだった。少女と向き合うようにしているので、その表情は伺えなかった。その片手には注射器を持っていた。嫌がる黒髪の少女の首元に注射を打つと、暴れる手足も次第に震えを伴って止まった。

 直感的に危険なものを感じた。部屋の奥を見やるとそこには手足を鎖に繋がれた少女たちが何人も居た。まるでフランス人形のような服を着せられているが、全員が目から光を失い、抵抗する気力も何も無いように見える。ビェールノイの周りには彼女らと大して変わらないような表情をしている使用人の少女たちが数人居た。


"Jol xeler mol."


 そうビェールノイが言った声が彼の背中越しに聞こえた。その瞬間、使用人の少女たちの光のない目がこちらに集まった。その不気味さ、恐怖に打ち勝てず音を立ててしまった。ビェールノイが振り返り、こちらを確信の鋭い眼差しで凝視する。


「……っ!」


 ここに居続けてはならないという本能の警笛が翠の頭の中に強烈に響き渡った。その後の部屋の中での人の動きなど確認する暇もなくシャリヤの眠っている部屋へと走り出そうとするが体が中々動かなかった。異常な眠気と麻酔にかかったかのように足がゆっくりでしか動かなかった。


(食事に睡眠薬を混ぜたな……)


 シャリヤがすぐにぐったりと眠ってしまったのも睡眠薬の影響だろう。彼女のほうが小柄で、年も低いから作用する時間にずれが生じたのだろう。

 しかし、そんな事を考えている場合ではなかった。彼らはすぐに翠を捉えに来るだろう。だが、シャリヤの元に戻ったとしても逃げ切れる保障はない。共に捉えられれば脱出のチャンスは無くなる。

 無理矢理足を動かしながら、ネームプレートの付いたドアのノブを開けようとした。一つ、二つ、と開かない度に焦りが募っていく。これでは埒が明かない。


"Mili plax, lu jazgasakisti."


 機械的な声が背後から聞こえる。目から光を失った使用人たちがこちらへ向かってぞろぞろと近づく。丁寧な言葉遣いながらも、今はそれが不気味さと恐怖を引き立てることにしかならなかった。


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