#157 夜爪の儀式
学校から帰ってきて早々に昼寝をしていた。一気に大量の単語を頭の中に入れたことは自分の頭脳に強い負荷をかけていたのだろう。昼夜逆転生活もかくや、夕食までずっと寝ていたらしい。それでも、この国の国歌とそれに対する人々の姿勢をほぼ理解出来たということは一つの成果だろう。外国に行って国歌が歌われているうちで無礼なことを知らず知らずのうちにしていたら、それはそれで怖いことだから知っておくに越したことはない。
シャリヤはといえば、家に帰ってきてからリビングで椅子に座って昼寝をしていた翠をずっと眺めていたらしい。
起きた後は二人でレトラの食堂へと向かった。食堂はいつもと変わらず健康的な喧騒に満ちていた。エレーナやフェリーサの姿が見えて四人で楽しく歓談しながら昼食を食べていたが、いつもは居るはずのレシェールやヒンゲンファールという知り合いの大人たちが居なかった。そういえば、ガルタやカリアホが未だに家に帰ってきていない。また彼らはユミリアに呼ばれて何処かへ行っているのだろうか――インド先輩もインドに居た頃はよく色々な会合などに顔を出してその都度美味しいものを食べていたらしいし、彼らに関しても多分心配はないだろう。なんせこの国の政治の中枢を司る教会の主――ユミリアのことだから、きっと豪勢な食事が振る舞われているに違いない。
そんなこんなで食堂から帰ってきたわけだが、ここで気になっていることに気づいた。爪が伸びてしまったので、切らなくてはならないということだ。ただ、リパライン語で「爪切り」をなんと言うのか、そもそも「爪」も「切る」も分らない。
食堂から帰ってきてから、リビングで黙々と学校から出された宿題をやっているシャリヤに話しかけて邪魔をするわけにもいかない。どこらへんにありそうなのかと、手当たり次第に戸棚を探していた。
"Harmie co melfert, cenesti?"
シャリヤはこちらに振り向いて、頭を傾げて言った。
うん、そうだよね。気になるよね……。
"Ar, melferterl es fqa."
「爪切り」という単語を言えないがために自分の指の爪を指差す。シャリヤはその意図に気づいたかのように、手を合わせた。
"Selene co ycax lefhil?"
"..... Ja."
シャリヤは少し悩んでから、近くの棚から爪切りを取り出してくる。多分、"ycax lefhil"が「爪を切る」という意味なのだろう。多分"ycax"が「切る」で、"lefhil"が「爪」なのだろう。
翠が受け取ろうとして手を出したが、彼女は爪切りを渡してくれなかった。ダメだとばかり、爪切りを両手で包む。
"Pa, deliu miss eserl elx mol fal alefis. Klie, cenesti."
シャリヤはテーブルに爪切りを置いて、マッチの小箱を持って外に出た。彼女がコンロに火をつける時はいつもマッチを使っていたのでそれは分かったが、マッチを持って外に出ようとしていたのはよく分からなかった。アレフィスといえば彼女たちが信仰している神だが、なにか関係があるんだろうか。
言われた通り、彼女についていって、外に出る。ドアを開けると夜風が彼女の銀の髪を撫でていった。シャリヤはその風が吹いている間、心地よさそうに目を瞑っていた。しばらくして、近くにある木を一つづつ見定めるように見ながら、そのうちの一つから短い枝を手折って彼女は"Wenlenpex"と何回か唱えながら枝を撫でた。
その後にシャリヤはいきなり翠の右手を掴んだ。いきなり掴まれて、ドキッとしたがシャリヤ自身の顔は真面目なものであった。
"Femmes arfes dolumen pliurmen shrlo do kaxto dorne tirne kux dur."
右手に持った枝で掴んだ手を叩きながら、何か呪文のようなものを唱えていた。韻が踏まれている呪文、アレフィスへの言及、そういえば今は夜で、翠は爪を切ろうとした。なんだかだんだん今やっている事が分かってきた気がしなくもない。
両手をその呪文を唱えながら手を叩くと、シャリヤは枝を翠に渡した。
"Soscest ja."
シャリヤは枝を翠に渡すとそれを折るようにジェスチャーした。それが普通のことかのようにこちらを優しく見つめながら指示してくる。翠は黙って渡された細い枝を折った。するとシャリヤが両手を伸ばして、それを渡してと示す。ハグ待ちのようなその仕草はとても可愛いかった。外じゃなかったら、抱きついていたかもしれない。
枝を渡すと、シャリヤはそれにマッチで火を付けて地面に落とした。
確信した。これは、儀式だ。
"Xalijasti, fqa es ycaxo lefhil'it?"
"Niv, Wioll liaxa co xel fqa melx lecu miss ycax lefhil."
そういってからシャリヤは家の方に戻ってしまった。
外に残されたのは、翠と火を付けられてパチパチと音を立てて燃える枝だけだった。




