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王都、メイビスについたころには、茜の空も半分ほど闇に沈んでいた。
「祭りが終わるまではこの街にいるんだ。本気で弟子入りしようって言うんなら、いつでも訪ねてくりゃぁいい」
そういい残して、レウたちは街中の金持ちの屋敷の庭に宿借りしに行った。飴細工や玉すだれ芸など、いわゆる屋台の伝統を守る彼らの一座は小さいが、あちこちの街にパトロンがいるのだという。
「ああいうのも、安定した生活っていうのかもね」
座長はぼそりと呟いたが、それも仕方の無い事。祭り日より早く到着してしまった一座は、あちこちで仕入れた小間物など販いで数日を過ごす事となる。だが、ここは物流の集中する大都会であり、十分な売り上げは見込めないであろう。
「まあ、そういうわけで暇は腐るほどある。あんたは明日にでも、弟に会いに行ってきな」
座長はギャロの方を気安く叩いた。だが、蛙頭はどこかぼんやりした様子で、短く「ああ」と呟いたきりであった。
実のところ、彼は悩み始めている。自分の本心になど、とっくの昔に気づいているのだ。美也子にみっともなく取りすがって、泣き口説いてしまいたい、すなわち、「異界での生活など捨てて、ずっとそばにいて欲しい」と。
(そりゃあ、ただのわがままってもんだろう)
床に入るまでずっと、彼は黙りがちであった。薄い上掛けをかぶり、美也子と背中を合わせる。外では秋の風が強く吹く音がしていた。
醜怪種である彼女の体温は高く、夜の肌寒さの中に存在する『美也子』を、確かに感じる。ギャロはそのぬくもりに強く身を寄せる。
(こいつの代わりなんて、居ない)
これから冬が来る。この小さな背中を失って眠る夜は、どれほど寒いだろう。
この温もりは代用がきかない。この温もりを失ったら生きている意味が無い。この温もりを失うことなど……考えたくも無い。
(ばかばかしいほどちっぽけだけど、これが俺の本気なんだ)
だから、言えない。本気の言葉を愛する女に拒絶される、それがどれほど恐ろしいかを彼は知っている。
ギャロはかつて一度だけ、女にわがままを言った。母親にではない、若いころに付き合った年上の女に。それはほんの一時だけ、この王都で暮らした時の事だ。
彼の道化としての人気を聞きつけた固定劇団に引き抜かれてそこに在籍していた。彼女は同じ劇団の人気女優だったのだが……
(アレはひどい女だった)
大人になった今なら解る。若いのに羽振りのいい人気役者を、カラダでたらしこんだのだ。それでも、ギャロも若造だった。そんな分別もなく本気で女に惚れ込み、欲しがるものは何でも与えた。
(だが、いい女だった)
だから、本気だった。もっと大きな財布の男を見つけたか、その女に別れを切り出されたときにはみっともなく取りすがったものだ。
ありったけの愛を耳元で囁いた。花に、菓子に、宝石に……手が届く限りの全てを贈った。ついには肉の情に訴えようと、レイプまがいの抱き方までした。
(俺も阿呆だったんだな)
それら全てに返された答えは『拒絶』であった。彼女はギャロを狼藉者として訴え、彼は、彼女のファンによって罰せられたのだ。
……二度と舞台には立たぬこと。
それは死刑にも等しかった。ギャロは道化の仕事に誇りを持っており、舞台に立つことが何よりも好きだったのだ。天職だとさえ思っていた。彼女と等しいぐらい、舞台を愛していたのである。わがままを言ったのはたった一度だ。だが、大切な二つの愛を失った。
この出来事は彼を深く傷つけた。
「なあ、美也子」
ぽそり、と呟く。浅い眠りを感じさせる鼻声が、「ふうん?」と答えてくれた。
「もうちょっとだけ待ってくれ。この祭りが終わるまでには、覚悟を決めるから」
声はもう答えない。ただ、背中に感じる寝息がひどく安らかで、暖かい。
この傷は二度と癒えないものだと思っていた。寂しさによって引き裂かれた心は歪んだ形で癒着し、醜いケロイドを刻まれてしまったのだと。
だが、美也子が弟と引き合わせてくれたあの日、母に刻まれた傷は回復の兆しを見せ始めた。もちろん、完全に癒える日など来ないだろう。体にできた傷と同じで、一度痕になってしまった傷は、薄く、気づかぬほど薄くなる事はあっても、消える事はないのだ。それでも、以前のように母への思慕と憎しみの間に漂うことがなくなった。傷は薄くなりつつある。
ならば、もう一つのこの傷も、癒されるのではなかろうか。
(だけど、お前の言葉一つで俺は……)
深く傷つくかも知れない。傷跡だけではなく、心が死んでしまうほど深く。だから、覚悟する時間が必要だ。
それでも、美也子相手にならもう一度だけ、みっともなく泣き狂って心の内を明かしたい。その上で妻が自分ではなく、異界へ帰る事を選んだとしても受け入れよう。
(この祭りが終わるまでには、覚悟を決めるから、よ)
背中に感じる体温が少し上がった。彼女は深い眠りへと落ちたのだろう。それを妨げないように……ギャロは喉を静かに膨らませて、寝入りばなの深いため息をついた。




