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ギャロがその話を切り出したのは朝食のときだった。
卓の上には、果物を入れた温かい麦の粥があった。美也子がそれを一さじ掬い、ふうふうと唇を尖らせていた、そんなタイミングだ。
「なあ、美也子、俺は王都にいる弟に会いに行こうと思っている」
「ああ、いいんじゃない?」
ちょうど、一座はそこを目指している。三年に一度の大きな祭りがあるのだ。
「一日ぐらい私が店番するから、行ってきなさいよ」
「いや、お前も一緒に行くんだ」
「ふうん。じゃあ、ネルに店番を頼まなくちゃね」
話がかみ合わない。ギャロは、ますます深いため息に沈んだ。
「俺の弟は王立の研究施設に勤めている。空間転移の研究者ぐらい、紹介してもらえるだろうさ。だから、お前をあっちの世界に帰してやろうと思ってな」
「そんな、おとぎ話みたいなものが……」
言いかけて、美也子は黙った。子供のことだってそうだ。この世界で物語と現実の区別がついていないのは、自分のほうではないのか。
その無言をどう見たか、ことさら長いため息をついてから、ギャロは語りだした。
「おとぎ話には真実が隠されているって、良く言うだろ? 俺みたいな学の無いものには、原理までは良くわからねえが、こっちに落っこちてきた人間を元の世界に返してやる術ってのは、確かにあるんだとよ。」
「ギャロは」
「俺は……こっちの人間がそっちに行く方法は、まだ見つかってないんでな」
「そうじゃなくて、ギャロはそれで良いの?」
「良し悪しの話じゃないだろう」
ギャロには、自分の言葉がひどく苦いもののように感じられた。明るい表情を作ってやりたいのに、口の端がうまく上がらない。
「俺がお前よりだいぶ年上なのは知っているだろう。どうしたって先に死ぬのは俺のほうだろうよ。そうしたらお前は、一人ぼっちになっちまう」
最近になってやっと気がついた。美也子を元の世界に返すことにこだわっている、本当の理由はこれだ。ギャロは、自分の死を何よりも恐れている。
父の死は、彼の人生にそれほどの大きな傷を遺した。母に売られたことが彼の不幸の始まりではないのだ。炭鉱夫だった父が落盤事故で死んだとの報せが入った瞬間に、それは始まった。
身重だった母に手を引かれて炭鉱につくと、父の死体は何とか掘り出された後であった。だが、それは頭と四肢を岩盤にすりつぶされ、胴の一部は土中に失われ、生前の姿の名残など何も無い。それでも母は肉片に取りすがり、夫の名前を喚きながら泣き狂った。あれを見た瞬間、ギャロは思った。
……愛するものを失うことはこの世でもっとも哀しい。だから悲しみが母を壊してしまうだろう。
果たして、母は彼を売った。恥ずかしげも無く、金の無心にさえ訪れた。そのすべてを許したのは我慢強い性質だけが理由ではない。壊れてしまった母の心を支えてやりたかったのだ。
(美也子も壊れるだろうか)
そこまで愛されたいと願う反面、そんな思いを愛する女にさせたくは無い、とも思う。矛盾だ。だから相反する答えのどちらも選べずに、逃げを打っているだけだと言われれば、「そうだ」と答えるほか無い。
もっともそれは美也子に限ったことではなく、彼が真摯な恋を遠ざけ続けていた理由の全てである。だからこそ、それをやすやすと乗り越えて自分の心の全てを奪った彼女が、余計に愛しい。
「それに、あっちの世界にゃおふくろさんがいる。親子は、一緒にいるのが一番の幸せだよ」
この女だけは幸せにしなくちゃならん、とギャロは肝に刻んだ。その幸せの勘定に自分が入っていないとしても、美也子にとって最良の道を選んでやらねばならんのだ。
「だから、お前はおふくろさんのところに帰れ」
ふと見やれば、美也子は泣いていた。
「だったら、何で結婚したの、どうせ別れるのに」
「それは、すまなかったと思っている。こんなに早くあっちに帰るあてが見つかるとは思わなかったんだ」
「なんであんなに優しく抱いたの、子供だってできやしないのに」
「本当にお前を愛しているからだ」
ギャロの声はいささかも揺らがない。
「お前の世界では、男女って言うのは生殖以外で交わらないのか?」
そんなことは無いのだから、美也子は首を横に振る。
「だろう。こっちでもいっしょだ。まあ、いつでもきれいな理由ばっかりってわけじゃないけど、少なくとも俺は、お前を愛しているから、抱いた」
卓上の粥はすでに湯気も無く、さじの表面は乾いている。
それでも美也子は、ひざの上で硬く握りしめた手をほどこうとはしなかった。




