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部屋に戻れば、夕食の用意は座卓の上に並んでいる。夫は湯上りの肌にぱりっと洗い晒したシャツを着け、妻が戻るのを待っていた。
部屋に入ってきた美也子は白い簡易着姿だ。それは火照って赤みのさした肌色を艶やかに引き立てる。この美しい醜怪種が、今は、まだ妻なのだと思うと、男の情念は掻きたてられる。だが、今は夕食が先であろう。
妻をねぎらう一献なども注いでやりたいと、ギャロは立ち上がって美也子の手を引いた。
「うまそうだろ。これだけでも、張りこんで良かったと思うよなあ」
卓上に並んだのは、ここが山間であるからだろうか、肉と山菜の料理である。特に山鳥は丸のまま、いかにも甘辛いあめ色に焼きあげられている。それが飾り切りされた色とりどりの野菜と果物で飾られて、卓の中央を陣取っている様は、視覚にも美味を届けた。
「まあ、座れ。まずは乾杯だな」
ギャロはそのために、特別な酒を取り寄せていた。美也子の生まれ年に仕込まれた葡萄の酒だ。自分のためなら、こんな良い酒など用意したりしない。安酒場のコップで出す、怪しげな新酒で十分だ。
だからこれは、美也子のための酒。
「しっかり味わって飲んでくれよ」
ギャロはコルク抜きを手にした。ところがどうしたことか、コルクにしっかりとスクリューをねじ込み、力いっぱいに引いたというのに、それはびくともしない。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
ギャロはさらに息張ってコルクを引いた。喉がぷくっと膨れる。目玉はいつもより飛び出し、くるんくるんと回った。おかしな表情だ。
「やだ、ギャロったら」
美也子がぷふっと笑息をもらせば、ギャロは得意げに「ふふん」と鼻を鳴らす。クポンと音を立てて、コルクはあっさりと抜けた。
ここに至ってやっと、それが演技であったことを美也子は悟る。まったくたいした道化である。彼には気取られないようにしていたつもりだが、落胆が顔色に表れていたのだろう。
「ごめんね、ギャロ」
「何がだよ」
赤い液体をこぽこぽとグラスに注ぎながらも、ギャロの声は気安い。だから美也子は、いくぶんか気楽に、その言葉を告げることができた。
「子供。私と……ギャロでは……できないって……知らなくて……」
「ああ」
その声は低く、ほんの少し落胆したようにも聞こえた。
「そうか、知らなかったのか」
「ごめんね。でも、ギャロとずっと一緒に居たいっていうのは、本当だから」
「うん、それなんだがなあ、美也子」
グラスを美也子に手渡しながら、ギャロは深いため息をつく。この泊りの最後には、かならずや打ち明けようと決めたのだ。もう少しだけ、あと一晩だけを夢見てすごしたい。
だから、明るい言葉を、作る
「別に、異界人であるお前にそこまで求めちゃいないさ。そういう昔話はいくつか読んだからな、異界とこっちじゃ、子供を産むことに対する感覚が違うってことも、心得ている」
少し言葉をとめて、息を吸う。
「俺も、ずっとお前と一緒に居たい」
これは唯一絶対の真実である。しかし、明日の朝には、この真実さえも手放すこととなるのだ。そう思えば、ギャロの唇は重くなる。
「子供だとか、家族だとか、俺には縁の無いもんだって解っている。だから、別にどうってことないさ」
これは嘘だ。美也子のあの言葉を聞いた瞬間、この世の幸福のすべてを与えられた、そんな気がした。
ギャロは、女というものは安定した生活を望むものだと考えている。
がたがたと四六時中を馬車に揺られる暮らしは過酷だ。夫婦で金をため、旅座を引退して小さな家を買うものも少なくは無い。長い旅暮らしの中で、そういう夫婦者を何組も見た。農村などに嫁いで旅座を抜けた女もいる。
確かに子供を育てるのなら、安定した暮らしのほうがやりやすかろう。
だからギャロも、かなえられぬと知っていながら、一瞬の夢想を見た。小さな家に美也子と、彼女に良く似た赤ん坊。その傍らに寄り添う自分の姿を。
それは異界に帰る女に望むには、あまりに甘すぎる幸せだ。我慢しなくてはいけない……。
「なあ、美也子」
彼の声はあくまでも明るさを装ったものであった。
「せっかくの泊まりだ。そんな面倒なことは後回しにして、飲もう」
自分のグラスにも酒を注ぐ。それは赤い酒。
くいっと煽れば渋く、鼻先に残るアルコール臭が、少し悲しかった。