(10)
――千年。
ゲルマン人たちが攻めてきたあの日から、もうそんなに月日が流れたのデスね。
長かったのか、短かったのか。思い返してみてもワタシには判断ができマセん。
ネズミは自分の人生を短いと思うデショうか。木は自分を長生きだと思うデショうか。生き物は皆自分がいつ死ぬかを知らないまま、それでも一生懸命前を向いて生きていマス。ワタシもそうデシたから――長いも短いも分からないんデス。
血の相性。もーろサンはそんなことを言っていマシたか。
さすがデスね。スィ、相性の悪い血同士を混ぜると、固まってしまうんデス。もちろん、そんなことが体の中で起こったら、体温は生み出せなくなりマス。
私は舐めることで、血の種類を知ることができマス。この体の中に流れている血は、そうめったにない種類なので、見つけるのにはいつも苦労しマス。
ノ。違いマスね。そんなことよりずっと、人を選ぶことのほうがずっと辛かったデス。悪人ばかりを選んできたつもりデスが、自信なんてありマセん。殺してもいいほどの悪人なんて、この世にいるはずがないんデスから。
もーろサンはよく調べマシたけど、一つ調べ足りないことがありマス。
ワタシが心臓を奪うのは、体温を作るためばかりじゃないんデス。
一つの心臓が動き続けられる期間には、限界がありマス。それを過ぎれば血の流れは止まりマス。
そしてもし血がとどこおれば、ワタシの体は内側から腐ってしまうのデス。ちょうど澱んだ川が腐敗するように。人形である私に与えられた、それがただ一つの死デス。
くりすサン、アナタは聞きマシたね。どうして心臓を奪い続けたのか。どうして人を殺し続けたのか。
死にたくなかったんデス。
ワタシは死ぬのが怖かった。
そんなの……当たり前じゃないデスか。生きているんデスから。
ワタシはこの世の誰よりも生きるということを知っていマスけど、死ぬということはこの世の誰よりも知りマセん。人間が百年もたてば知ることを、ワタシは千年たっても手に入れられないのデス。だから、怖いんデス。
ワタシが生まれたとき、ワタシの体の中には血が入っていマセんデシた。それでも動くことができたんデス。
でも、おとうサンは卵を温めるため、ワタシの体に自分の心臓と血を注ぎ込みマシた。その瞬間から、ワタシは血の呪いに縛られることになったのデス。
おとうサンが卵をワタシにたくして死んだとき、ワタシは生まれて二ヶ月デシた。本当はもっと時間がたっていたのかもしれマセんが、少なくとも物心がついてからはそれだけデス。文字も読めず、言葉もろくに分からず、善悪の区別もつかなかったワタシは、おとうサンの言うことをただ聞くしかない文字通りの人形デシた。卵を守れと言われればそうすることしか考えられマセんデシたし、千年生きろと言われれば生きるしかないのだと思っていマシた。
ひょっとしたらおとうサンは、自分の心臓だけで千年もつと思ったのかもしれマセん。だけどやっぱり、血で体温を生むなんて、普通の考えじゃないデスよね。
おとうサンは狂っていたのだと思いマス。憎しみに身を焼かれ、卵の魔力に見入られたんだと思いマス。
私は世界中を旅しマシた。
ヨーロッパを回り、アフリカに渡り、アジアをさまよい歩いて、血の呪縛を解く方法を探し求めマシた。
それが叶わないと知った後は、見さかいなく人を憎み、世界に絶望し、破壊を選ぼうとすら思いマシた。
それでも心臓を奪うことにはためらいがありマシた。そうこうするうちに、体のちょっとした部分が腐ってしまったこともありマス。ワタシの発音、ちょっと変デショう。舌の付け根がうまく動かないんデス。
右目の周りの筋肉が弱って、目が落ちてしまったこともありマシた。ちょうど市場の中で、売り物のヒヨコがそれを拾って飲み込んでしまいマシた。取り出すこともできないので、その子を買って連れて歩くことにしたんデスが――これはもうお話しマシたよね。
ああ……あれからもう十三年もたつんデスね。
こじも・で・めでぃちサンと出会ったのも、ちょうどその頃デシた。
旅の道中というのは退屈なものデスから、ワタシはいろんな本を読みマス。あのとき読んでいたのはたしか、明の国から持って帰ってきた読み物デシた。フィレンツェに立ち寄ったところでちょうど読み終わったので、ワタシはそれをサンマルコ図書館に寄贈しマシた。もう読んでしまった本だから捨てるくらいなら、という気持ちだったんデスが、図書館の館長サンはひどく驚いて、ワタシをめでぃち家の邸宅に連れていきマシた。そして、そこで出会ったのが、こじもサンだったのデス。
フィレンツェのめでぃち家といえば、ヨーロッパ中に名前を知られた大銀行家デス。もともとお医者サンだったようデスが、こじもサンのおとうサンの、じょばんにサンが銀行を作って、教皇庁のお金を管理したりするうちに大きくなりマシた。ヨーロッパ一の富豪にまでのし上がったのは、後を継いだこじもサンの力によるものデシたけど、そんなやり手とは思えないくらい、優しい顔をしてマシたね。
あのときはたしか、六十をちょっと過ぎたころデシたか。縁なしの赤い帽子をかぶった、ひなたぼっこの好きそうなおじいサン、というのがワタシの印象デシた。
冗談の好きな人デシた。
初めて出会ったとき、ヒヨコを連れていマシたから、こじもサンはワタシに『プルチーニ』という仇名をつけたんデス。ワタシは何だか悔しくて、お返しにと、そのヒヨコを『イル・ヴェッキオ』と名付けマシた。そうするとこじもサンは笑って『ならこやつにも帽子をかぶせてやらんとな』と、小さな赤帽子をヒヨコのイル・ヴェッキオに作ってあげたんデス。
芸術を愛する人デシた。
ぶるねれすきサンや、みけろっつぃサンという、すごい建築家の人たちにたくさん教会を建てさせたり、りっぴサン、どなてっろサンら芸術家の人たちを集めて絵や彫刻を作らせたりしマシた。さっきのサンマルコ図書館も、本好きのこじもサンがお金を出して作ったものなんデス。
ワタシはめでぃち家の邸宅に部屋をもらって、居候をしながら、いろんな国のいろんな美術や本の話をこじもサンに聞かせマシた。普段物静かなあの人は、そのときだけは子供のように目を輝かせて聞いていたものデス。もっといろんな話を聞かせてくれ、もっと、もっと、と。
愛された人デシた。
お金儲けが上手い人は大抵ねたまれるものデスけど、フィレンツェの人はみんなこじもサンを愛していマシた。ワタシがめでぃち家に出入りして、周りに嫌な顔をされなかったのも、こじもサンの人徳があったからだと思いマス。
寂しい人デシた。
一人でいるとき、たまに窓の外を見てため息をつくことがありマシた。声をかけると「何でもない」と笑うのデスが、ワタシにはあの人の心がよく分かったのデス。
こじもサンは銀行を継いですぐのころ、逮捕されたことがあったそうデス。あるびっつぃ、という政敵の家の人たちにハメられたんデス。あやうく死刑になりそうデシたけど、なんとかフィレンツェ追放だけですんで、ここヴェネツィアの修道院で一年間過ごしマシた。ヴェネツィアにはめでぃち銀行の支店がありマスから、政府はあの人にすごく好意的だったんデショうね。
一年のあと、今度はあるいびっつぃ家が市民から追放されて、こじもサンはフィレンツェに戻ることができマシた。
でも、その出来事はあの人の心に大きな傷を残したと思いマス。誰にも話すことはありマセんデシたけど、ワタシには分かりマシた。こじもサンは、フィレンツェの市民を恐れていたのデス。
めでぃち家を陥れようとしたのは、あるびっつぃ家だけではありマセんデシた。反めでぃち派の市民も、こじもサンの追放に力を貸していたのデス。そして、その後あるびっつぃ家を街から追い出したのも、また同じフィレンツェ市民デシた。
人の心はすぐにうつり変わる、いつ裏切られるか分からない。それがこじもサンの消えない傷になったのデショう。だから、いつでも人から好かれよう、好かれようと、身をすり減らすような思いをしていたのだと思いマス。
ヨーロッパ一のお金持ちが寂しいだなんて、おかしいと思いマスか。でも、豊かなら豊かなりのつらさがありマス。喉が渇くことも、心が乾くことも、同じように不幸デス。
あの人が芸術を愛したのは、絵や銅像は自分を裏切らないから――というのは、考えすぎデショうか。でも、それならワタシのことを気に入ってくれたのも、説明がつくと思うのデス。なぜなら、ワタシは人形デスから。
だけど、そのワタシだけがあの人の悲しみを理解してあげられたというのは、皮肉デスね。
静かな夜デスね。
こういう夜に耳をすますと、こじもサンの声が聞こえるような気がするんデス。プルチーニ、プルチーニ、わしのヒヨコ娘、と。
千年前、ワタシの名前は『ニヒル』デシた。
ラテン語でゼロの意味デス。それが、お父サンがワタシにつけた初めての名前デシた。
おとうサンは言いマシた。一年が経ったら『ウーヌス』と名乗りなさい、と。これはラテン語で一デスね。それから一年経てばドゥオ、つまり二、そのまた次の年にはトレース、これは三。それからクァットゥオル、クィーンクェ、セクス、セプテム、オクトー、ノウェム、デケム……。
スィ。一つ年をとるごとに名前を変えていけ、というわけデス。
そんなにひどいことでもないデスよ。長生きしていると自分の年を忘れてしまうので、名前が年齢というのは案外便利なんデス。
それに、ニヒルとはゼロという意味のほかに、『何もない』という意味があるんデス。何もない自分が少しずつ何かを得てゆくのは、ちょっと嬉しいことデシた。
だけど、不思議デスね。こじもサンにプルチーニという仇名をつけられたとき、ワタシはそれまでにない気持ちを覚えたんデス。果てしなく長い階段を一歩ずつ上ってきたのが、不意に空に飛び上がったような、それでいて何かに包まれているような。
あのとき、確かにワタシは空へと羽ばたくヒヨコになったのデス。
ワタシは自分が人形であることを隠しマセんデシた。卵の秘密も、心臓の秘密までも、全部打ち明けマシた。そうしなければこの人のそばにいる資格はないと思いマシたから。
ワタシが何百人もの命を奪ったと知っても、こじもサンは何も言いマセんデシた。
ただ、一度だけ怒られたことがありマス。
いつものように二人で話をしていたとき、ワタシは愚痴っぽいことを言いマシた。おとうサンは狂っていた。卵の魔力に魅入られて、卵を守るためだけにワタシを作ったんだ、と。
すると、こじもサンはあの穏やかな笑顔を真顔に変えて、こう言ったのデス。
「考えてみなさい。お前の父上が、どうしてお前を人形に――人の形に作ったのかを。神は御身に似せて人を造られたという。だが彼がお前を作ったのは、きっと自らの身に似せたわけではないとわしは思う。彼は、お前にこの世界のありさまを知ってほしかったのだろう。ものを見るためには、目がいる。人と話をするためには、耳と口がいる。誰かと触れ合うためには、手がいる。遠く離れた土地に行くためには、足がいる。そうやってあれもこれもと作っていくうちに、いつのまにか人間のようなものができてしまったというわけだ。ひょっとしたら神もこうして人間を造られたのかもしれないな。この世の中で人の体ほど、世界を知るのに適したものはないのだから。父上に感謝しなさい。人間の体と、そして何よりも心を与えてくれたことに」
千年生きたワタシでも分からないことを、なぜこじもサンは簡単に言い当ててしまったんデショう。いえ、こじもサンだけじゃありマセん。ワタシの会う人はみんな、ときどきワタシがはっとするようなことを教えてくれマス。
ニヒル・スブ・ソーレ・ノウム――日のもとに新しきものなし。この世にある物は、全て過去に作られた物のモノマネだという意味デス。
ならどうして、ワタシが行き先々で会う人たちは、みな新しいのデショう。きらきらと輝いているんデショう。
ワタシはいろんな人と会って話をしてきマシた。でも、ワタシがこれから会う人は、みんなワタシの知らない人たちデス。未来から来た人たちデス。
千年生きても、学ぶことだらけデスね。
七十歳を過ぎたころから、こじもサンは急に元気がなくなりマシた。もともと痛風をわずらっていたのがひどくなって、政治にも銀行の仕事にも手をつけられなくなったのデス。ちょうどそのころ、息子サンとお孫サンを続けて亡くしたのも、ショックが大きかったのだと思いマス。サン・ロレンツォ教会の部屋の片隅で、目を閉じて何時間も座っているのをよく見かけマシた。何をしているのかと聞くと、こじもサンはいつも寂しそうに笑って言ったものデス。「慣らしておくためだ」と。
ワタシがその意味を知ったのは、今年のことデス。
夏の暑い日デシた。昼下がりの空には雲の一つもなくて、真っ白な太陽が痛めつけるような熱を落としていマシた。
フィレンツェ郊外のヴィッラ・カレッジの一室に、ワタシは呼び出されマシた。寝たきりになっていたこじもサンは、ワタシの顔を見るなりこう言いマシた。
「プルチーニ。今日のうちにここを去れ。餞別にわしの心臓をくれてやる」
驚くより先に、ワタシは不思議に思いマシた。
ワタシには医術の心得がありマシたから、よくこじもサンの体を診ていマシた。そのときにあの人の血が、ワタシのものと相性がいいことを知りマシた。でも、それは誰にも伝えたことはなかったはずなのデス。
どうして気付かれてしまったのか、今でも分かりマセん。もし態度に出てしまっていたのだとしたら――人形失格デスね。
「後の心配はせんでいい。主治医には話をつけてあるし、金も渡してある。検死なんぞさせはせんし、胸をえぐった跡は家族に見せんようにする。メディチ家当主コジモ・イル・ヴェッキオは、痛風をこじらせ、誰に看取られることなく独りで死んだ。それで良い」
こじもサンは何もかもを決めてしまった口ぶりで続けマシた。
こけた頬をゆがめ、あの人が微笑みながら言った言葉は忘れられマセん。
「わしもお前と変わりはせん。神に造られ、運命という糸に吊られた操り人形よ。だがわしは神のおぼし召しになど従いたくはない。それならプルチーニ、お前の手にかかったほうがマシというものだ」
くりすサン。
どうかアナタだけは分かってくだサイ。ワタシはあの人の心臓を取ろうなんて、一度も思ったことはありマセんデシた。
あんな言葉、強がりに決まっていマシた。なぜならそのとき、こじもサンの体は死にたくなるほどの激痛に蝕まれていたのデスから。
他に方法があったというのなら教えてくだサイ。世界中を旅して、ギリシャ医学もイスラム医学もアーユルヴェーダも漢方も修めたワタシが、必死になって手をつくして、それでも治せなかったあの人を救う方法があったというのなら、どうか教えてくだサイ。
ワタシは何のために千年を生きてきたのデショう。
たとえ世界を産み出せても、人一人も救えないのなら、そんな奇跡には何の価値もありマセん。ワタシは世界と引き換えにしてでも、こじもサンを助けたかった。あの人を、愛していマシたから。
スィ。愛していマシた。千年生きてきた中で、きっと初めて。
七十を越えたおじいサンを好きになるなんて、変だと思いマスか。それとも、九百歳以上も年下の人に恋するなんて、おかしいと思いマスか。人形が人を愛するなんて馬鹿げてると――アナタは笑いマスか。
でも、ワタシは本当にあの人を愛していたんデス。
心の底から愛して、愛して、愛して、あの人のために何ができるだろうと考えて、考えて、考えて、そしてあの人の言うとおりにする他は無いと思ったんデス。
体中の関節が真っ赤に腫れていマシた。夜、ほんの少し身じろぎするだけで痛みに襲われて、うめき声を上げていマシた。歩くこともできず、フォークを取ることもかなわず、日に日にやせ衰えて……それでもあの人は、一言も「痛い」「苦しい」とは言いませんデシた。
それがワタシにとってどれほど辛かったか分かりますか、くりすサン。どれだけそばにいても、ワタシは一度だって弱音を吐いてもらえマセんデシた。脂汗をにじませ歯を食いしばりながら、こじもサンはいつも、ワタシを見ればあの赤帽子をつまんで笑いかけてきたんデス。
一言でよかったんデス。たった一言、「つらい」と言ってくれれば……ワタシはあの人を殺さずにすんだと、今でもそう思いマス。
ワタシはフィレンツェを去りマシた。最後に街を振り返り、サンタマリア・デル・フィオーレ聖堂の赤屋根を目にしたとき――ワタシはもう、卵を守るのはやめようと思いマシた。
生きるというのは残酷なことデスね。一度捨てようと思いながら、ワタシはまだ卵を持ち続けていマス。生まれた理由を、そう簡単には捨てられなかったのデス。
どれだけ自由に生きているつもりでも、ワタシの胸には卵がありマス。それは生まれてからずっと、ワタシの体を締めつけているのデス。千切れることのない、茨の鎖のように。
大聖堂で初めて会ったときのことを覚えていマスか。
あのとき、ワタシはくりすサンに聞きマシたね。スィ。いたみやすくて壊れやすい。ころころころころ転がるばかりで、いつまでたっても立ち上がれない。それは何デショう、と。
アナタは卵と答えマシたけど、実は正解は違いマス。あれは、こじもサンがお友達と話しをしていたときに、言っていたことなんデス。
正解は、人の運命。
分かりマスか。それはまさに卵のようなものデス。ころころころころ転がって、いつまで経っても同じことの繰り返し。そして、決して立ち上がりはしないものデス。
こじもサンは時々そう言って皮肉そうに笑っていマシた。でもそれは、いつか運命をくつがえしたい、転がることなく立ち上がってみたいという裏返しではなかったかとワタシは思うのデス。
ヴェネツィアに来た理由、デスか。
一つは前にも言ったとおり、船を買いに来たこと。そしてもう一つは、あの人が……こじもサンが一時でも身を寄せたこの街を、今一度見たかったからデス。
くりすサン。アナタに近づいたのは、心臓を奪おうとしたからじゃありマセん。
なぜなら、アナタの血とは相性が悪いデスから。そのことは、初めて会ったあのときから、分かっていマシた。
アナタがコジモさんに似ていたからデス。
姿形のことじゃありマセんよ。アナタが聖堂で口にしたこと――『神のおぼし召すままに』という言葉が、コジモさんの最期と重なったんデス。
そのとき、ワタシは思いマシた。この少年を救うことが、千年の最後にワタシがやるべきことだと。人間は神サマの操り人形なんかじゃないということをアナタに、そして天国のこじもサンに教えてあげたかったのデス。それが、誰よりも長く人間を見つめてきたワタシの結論だったのデスから。
どうか勝手な人形だと笑ってくだサイ。
おとうサンがワタシを作ったのは、卵を守り続けるためデシた。なぜなら、人の命には限りがありマスから。親から子へ、子から孫へ受け継ぐうちに、志が弱まってしまうことを怖れたのデショう。
でも今、ワタシはそれが間違いだったのではないかと思いマス。
こじもサンは死にマシた。でも、あの人が結んだ和平は生きていて、家と銀行は息子サンたちに受け継がれていマス。
イル・ヴェッキオは死にマシた。でもあの子の魂はワタシの中で生き続けていマス。
他の誰かの志を引き継ぐ。そしてまた他の誰かに渡してゆく。限りある命を持つものだけができる、そのことをワタシは尊いと思いマス。うらやましいと思いマス。
だからワタシも、こじもサンの夢を受け継ぎたいのデス。
目を閉じれば思い出しマス。いつだったか、地図をながめながらあの人と話をしたときのこと。
「プルチーニ。お前、海を渡ったことはあるか」
「スィ。ドーバーとか、アラビア海とか、バルト海とか、いろいろありマスよ」
「そうじゃない。海の向こうへ行ったことはあるか」
「海の向こう?」
「そうだ。イベリア半島のずっと西。地球は丸いから、西方に航海を続ければ、やがてアジアにたどりつくという。わしはインドの香辛料もチナの絹も目にしたことはあるが、その土地にまで行ったことはない」
「ワタシも東回りでしか行ったことはないデスね。海を渡りたいんデスか?」
「ああ、渡りたい。何よりヨーロッパから外に出てみたい。わしはずっとメディチ銀行の跡取りとして育てられてきたからな、見知らぬ世界へと旅立つことをずっと夢見ながら果たせなんだ。だからお前がうらやましい」
「行けばいいじゃないデスか」
「できんよ。もうこの年だ」
「行けマスよ」
「そうかな」
「そうデスよ。きっと」
「そうか……そうだな……」
――ワタシは何も選びマセん。破壊も創造も、もう一つの何かも。
なぜなら、ワタシは操り人形じゃありマセんから。生まれた理由と、生きる理由は違っててもいい――それは人間も同じデショう。
こじもサンは死ぬ間際、ワタシの知らないうちに銀行にお金を遺してくれていたようデス。もう遣い道などありマセんが、もし許されるのなら――。
船が欲しいデス。
船に乗って、海の向こうへ行きたいデス。誰も知らない世界へ。見知らぬ人々のいるところへ。新しい世界へ。いつだったか、こじもサンがワタシにくれたこの赤いバンダナとともに。そして、宇宙の卵とともに。
それをワタシの――千年を生きたヒヨコの終わりにしようと思いマス。
もし世界中の多くの人と出会っていなかったら、ワタシは憎しみの塊となっていたことデショう。
人は同じことばかりを繰り返すというけれど、ワタシが見てきた千年の中で、人間はもっとずっと前に進んでいると思いマス。傷つけあい、憎しみあうこともまた人間の営みの一つ。そうしながら前に進んでいくんだと思いマス。分かりあうために。
クゥェム・ディー・ディーリグント・アドゥレースケンス・モリトゥル。神々が愛する者は、みな早死にする。
ワタシはこの世で最も、神サマに愛されなかったモノデス。でも、それを悲しんだ事はありマセん。この千年、ワタシは神サマの愛よりずっと素晴らしい、人間の営みに触れてきたのデスから。
ワタシは人間を愛していマス。この世界を愛していマス。
ワタシが千年の最後に言える、それが全てのことデス。