(9)
ぶ厚い雲が街を闇におとしいれている。ヴェネツィアの夜は、絶好の暗殺日和だった。
貴族屋敷から漏れる灯火が、運河沿いの道を窓枠の形に照らす。買い物かごを片手に、クリスは宿への帰り道をとぼとぼと歩んだ。石畳に一歩を刻むたび、足どりは重くなるばかりだ。
――彼女は本物の魔女になってしまう。君はそれでもいいのかい?
――勇気を出せ、クリス。
モーロとドメニコ、二人の言葉が、頭の中で鐘のように繰り返している。
迷いはある。だがたった一つだけ、やらなければならないことがある。
それは真実を確かめることだ。神様はもう何も言ってくれない。今、この体を動かすのは自分の心だけ――。
人気のないカナレッジョ区に入ると、明かりを漏らす家はなくなった。一層あやしくなった足元に、ふと水を踏む感触が伝わった。
アクア・アルタだ。運河の水がかさを増して、道にあふれ出してきていた。これだと忍び足で近づくのが難しいな――とっさにそう考える自分が悲しい。
やがて、クリスは宿の前へと帰り着いた。運河沿いの道は水浸しになっているが、中庭まで水は届いていないらしい。土の地面は乾いた感触がした。
庭に踏み入ったところで、クリスはぎくりと足を止めた。
闇が垂れ込めた庭の片隅に、プルチーニがしゃがみこんでいる。こちらに背を向け、何をするでもなくじっと座っているだけだ。
――まだ起きてたのか。
一瞬そう考えた後、なんだかおかしくなった。そうだった。眠らないんだ。こいつは人間じゃないから。
「くりすサン」
と、いきなりプルチーニが振り返った。クリスは慌てた。
「おかえりなサイ。ずいぶん遅かったデスね」
「う、うん……ちょっと道に迷って。心配かけてごめん」
「ディニエンテ。気にしないでくだサイ」
プルチーニは疑う様子すらない。よどみないガラスの瞳から逃れるように、クリスは目をそらした。
「と、ところで、今、何やって……」
言いかけてプルチーニの後ろを見た途端、喉が凍えついた。
庭の隅に、小さく土が盛られている。まるで墓のような……いや。ような、じゃない。
「イル・ヴェッキオデス」
「死んだ……の?」
プルチーニはこくりと頷き、盛り土の頂をそっとなでた。
「くりすサンが出かけてからすぐ、うずくまって動かなくなりマシた。だんだん呼吸が小さくなって、そのまま眠るように。もう年デシたから」
「そっ……か……」
盛り土の上には、花も何もない。ただ埋めて隠しただけの墓とも言えない墓が、クリスにはひどく寂しく感じられた。
「何か飾ってあげないの?」
「ノ。このままでいいデス」
「どうして」
「この子にお墓なんて、必要ないデスから」
プルチーニの淡々とした口調は変わらない。鶏に墓など作らなくてもいい、ということなのだろうか。なら、壊れた人形にも墓を作る必要はないだろうなとクリスは思った。
背中に隠したナイフをぎゅっと握り締める。
すると、プルチーニは突然、不思議なことを聞いてきた。
「くりすサン。どうして人にはお墓が必要なんデショう」
「それは……生きてる人が、死んだ人を忘れないためだろ」
「そんなに簡単に、人は人の死を忘れるものなんデショうか。悲しいことなのに。おとうサンやおかあサン、おにいサンやおねえサン、お友達や恋人、大切な人が死んでしまったことは、すごく悲しいことなのに」
言葉に詰まるクリスの代わりに、プルチーニは自答した。
「お墓は、死んだことではなく、生きたことの証だと思いマス。人が死んで、その人を知っている全ての人間もまた死んで、それでも一人の人間がこの世にいたことを、未来の人たちに伝えるためのお手紙デス。人間はみな死にマス。どんな悲しみを背負っても、死ねば全てが無に還りマス。だけどワタシは人形デスから……イル・ヴェッキオが生きていことを忘れマセんから。この子のお墓はいりマセん。ワタシが、この子のお墓になりマス」
「プルチーニ……」
そこでふと、思いついたことがあった。
「そういえば、もう片方の目は?」
イル・ヴェッキオの腹の中には、プルチーニの右目があった。結局生前は取り出すことができなかったが、死んだとなれば話は別だ。
まさか――と思うクリスに、しかし、プルチーニはふるふると首を振った。
「いいデス。この子にあげマス。お腹に抱いたまま、天国まで持っていってもらいマショう。ワタシには、天国も地獄もありマセんから」
プルチーニは立ち上がると、出しぬけに恐ろしいことを言った。
「もーろサンに、全部聞いてきマシたね」
たちまちクリスの顔が青ざめる。
「な、何のこと……?」
「ナツメグの香りがしマス。インドの香辛料で、甘い匂いがするのでお香としても使われるんデスが、ものすごく高いので一部の貴族にしか買えないんデス。それに、もーろサンとは、昔、少しだけ会ったことがありマス。そのころから、あの人はこの香りが好きデシたから」
刃物を握る手に、さらに力がこもった。
「ナツメグの香りには媚薬の効果もありマス。思考を奪って、人に言うことを聞かせるときにも使われるとか……くりすサン、心当たりは?」
「し、知らないよ、そんなこと。元首がウソをついてる感じもなかったし」
すると、プルチーニはほんのわずか眉をひそめた。
「やっぱり……そうだったんデスか。まさかと思いマシたけど」
クリスは愕然となった。カマをかけられたのだ。
プルチーニが一歩を踏み出してくる。
「くりすサン」
「来るな!」
クリスはナイフを抜き放ち、目の前の相手に突きつけた。暗がりの中で不穏な光がきらめいた。
「おいらに近づくな。この人殺し」
「人殺しはアナタのほうデショう」
「おいらはまだ殺しちゃいない」
「それはワタシが止めたからデス」
「恩を売る気かよ」
「ノ。アナタなんかに恩を売っても仕方ないデショう。何しろワタシは千年生きて」
「千年生きてるのはよく分かった! もういいよ、そういうの! 二言目には千年千年って、長生きしてるのを鼻にかけるなんて、ただのババアじゃないか、お前は!」
悲痛な叫びが冷えた夜風を呼んだ。小箱のような庭が、剣呑な空気で満たされる。
しかし、プルチーニは表情一つ変えず、いつもの口ぶりでこう言うのだ。
「アナタは、本当に分からないのデスか? ワタシが、千年も生きている、と言うその意味を」
「え……?」
「ただ長い時を過ごしたというだけなら、自慢なんてしマセん。いいデスか、ワタシが自慢するのは、いえ、誇りに思うのは、千年の間にたくさんの、本当にたくさんの人たちと出会ったというコトなのデスよ。長生きするだけで偉いなら、そこらの石のほうがワタシよりずっと偉いデス。でも、ワタシは石とは違いマス。いろんな人と顔を合わせて、話をして、いろんなことを考えて、ワタシは今のワタシになりました。こういうのを、成長というんデスよね」
ゆっくりと素足を踏み出して、プルチーニはクリスに近づいた。ナイフを構えたまま、しかし、クリスはもうそれを動かせなかった。
目の前に人殺しの人形がいる。しかし、不思議なことに怖れは感じない。心の内にわきあがったのは恐怖でも悔恨でもなく、ただ一つの願いだった。
クリスはナイフを取り落とすと、プルチーニの肩をつかみ、助けを求めるように声を絞った。
「嘘なんだろ、プルチーニ」
「……」
「全部、嘘なんだろ。卵をあっためるために、人の心臓が必要だっていうのも。そのために、何十人も、何百人も殺したっていうのも。フィレンツェのコジモ・イル・ヴェッキオまで殺したっていうのも、みんなみんな元首のでまかせなんだろ? なあ、嘘だって言ってくれよ。なあ、プルチーニ」
揺すっても引っ張っても、長衣にくるまれた体は人形のように動かなかった。クリスは滲んだ瞳を地面へ向けた。
「プルチーニ……お願いだから」
「本当デスよ」
頭の上から、氷のような声が落ちてきた。乾いた響きに、クリスはびくりと震えた。
「全部本当のことデス。さすがもーろサン、よく調べマシたね。人肌の温度を得るために、人間の心臓が必要。だから、何百人もの人間を殺した。こじも・で・めでぃちサンを殺したのもワタシデス。あの人の言ってることに嘘はありマセん」
一体プルチーニはどういう顔をしているのだろう。顔をうつむかせたまま、クリスは声を張り上げた。
「どうしてだよ。どうしてそんなことするんだ。人を殺してまで……そんなことしてまで卵を守りたかったのかよ」
「言ったデショう、ワタシのおとうサンは狂っていたって。そして、狂った人が作ったのデスから、ワタシもきっと狂っているんデス」
「だから、おいらのことも殺すのか……?」
「だとしたら?」
耳を打つ声は悲しくなるくらいに冷たい。
「だとしたらどうしマスか、くりすサン。そのナイフを拾って、ワタシを刺しマスか。一つだけ言い訳をさせてもらえば、ワタシはワタシが悪人だと思った人間しか、殺したことがありマセん。お金をもらって殺しをするような人間なら、文句なしに合格デスよ」
クリスの目の前で、プルチーニの右手に変化が起こった。指先がみしみしと音を立てて割れ、その内側から鋭く研がれた刃物があらわれたのである。
獣のように先端の曲がった鉄の爪。ドメニコの手をも砕いたあの握力で心臓をえぐられたら、ひとたまりもない。
「痛くなんてしマセんよ。慣れてマスから。さあ、どうしマスか。くりすサン」
もう一度聞いてくるプルチーニは、声も口調もいつもの通りで、ただ言葉の中身だけがひどく鋭かった。ナイフが口をきいたなら、きっとこういう無機質なしゃべり方になるだろう。
どうしてそんなこと言うんだ、プルチーニ。何でそんな突き放した言い方をするんだよ。ただ一言、「みんなでたらめデスよ」と言ってくれれば、それがどんな見え透いたウソでも信じるのに。
それとも、こんなときでさえ、自分にウソをついちゃいけないって言うのか。
考えあぐねて顔を上げ、見下ろしてくるプルチーニと目が合ったとき――確かにこいつは人形だとクリスは思った。
人間に、こんな悲しい目ができるはずはない。
「プルチーニ……」
そのとき、黒雲を割って銀の光が中庭に差し入った。
目を細めて仰ぎ見れば、四角く切り取られた夜空の上に、絵のような満月がたたずんでいた。
白く冴えた冷たい月明かりが、天蓋からほどけ落ちて庭を満たす。闇夜の中、白銀の輪郭をまとったプルチーニは、海の底で誇り高く光る珊瑚そのものだった。
――綺麗だ。
そう思ったとき、クリスは体はすっと銀の衣から離れていた。
「……分からない。おいらには分からないよ。どうしたらいいのか、誰を信じたらいいのか……おいら、操り人形だったから。ずっと神様に頼ってばっかりだったから。せっかく自分の信じることをできるようになったのに、その途端何を信じたらいいのか、分からなくなっちまったんだ」
プルチーニは身じろぎの一つもしない。クリスは勇気を振り絞って声を出した。
「でも、迷う前にやらなきゃならないことがある。イル・ヴェッキオを弔ってやらなくちゃ」
右手を差し出せば、月光の冷たさが湿った掌を癒してくれた。
「だから踊ろう、プルチーニ。おいらと踊ろうよ」
少年の勇気は、人形の心に届いた。
プルチーニは爪を指の奥にしまいこむと、右目を隠すバンダナに手をかけた。
そのまま一息に引っ張った途端、解き放たれた髪が月夜の暗幕に鮮やかな銀の花を残し、ふわりとクリスの目の前に舞い降りた。
たおやかな仕草でクリスの手を取る。引き結んでいた小さな唇が、月下の花のようにほころんだ。
「フォルトゥーナ・アミーコース・コンキリアット・イノピア・アミーコース・プロバット。順境は友を与え、欠乏は友を試す」
繋いだ手から温もりが伝わってくる。それはまぎれもなく、人の血の温かさだ。
ふと、足元に感じる冷えた感触。月光の冷気が形になったのかと思ったが、そうではない。アクア・アルタの水が中庭をくるぶしの高さに浸していた。
夜の静けさが染み入ったように、波の一つも立っていない。鏡のような水面から、もう一つの月が二人を見上げていた。
手を結んだまま、足を踏み出す。さやかな水音が箱庭の中に静かに響く。ぎこちなく、しかし確かなステップで少年と人形は踊る。
クリスもプルチーニも、互いの顔を見つめながら笑った。足元に立つ波の間で、イル・ヴェッキオが一緒に踊っているような気がした。
月を揺らして、二人は踊り続ける。




