(8)
「あら、目を覚ましたようですよ。閣下」
最初に耳に入ったのは、若い女の声だった。
プルチーニじゃない――閉じたまぶたの奥で、それだけを考えることができた。頭の中はひどくぼんやりしていた。
もぞりと体を動かせば、柔らかな感触が全身を包んだ。天使の羽にくるまれたような、この心地よさは一体何だろう。まどろみに身をまかせたまま、クリスはさっきまでの出来事を思い返した。
そう、確か黒マントの男たちに囲まれていたはずだ。何人かを倒し、囲いを破って外に出ようとした。そこで男の一人に乗っかられて、そのまま地面に倒されて――。
はて、ならここは地面の上だろうか。そのわりには背中に感じる感触はずいぶん優しい。それに何だかいい香りもする。
重いまぶたを上げる。純白の石の天井にシャンデリア。見たこともない豪華な調度。壁を埋めつくす油絵の数々。びっしりと模様をめぐらせた赤色の絨毯。
クリスはがばりと起き上がった。
「ここは……痛っ!」
激しい痛みが頭に走った。先ほど地面に叩きつけられたところだろう、さすった額には小さなたんこぶができていた。
「あらあら。いけませんよ、急に動いては」
脇に立っていた女がたしなめる。エプロンをかけた姿から、女中であるらしい。
体重のかかった尻がふわりと柔らかく沈んでゆく。どうやらベッドの上に寝かされていたようだ。脇に落っこちた濡れタオルは、額を冷やしていたものだろうか。
「立てるかね、クリス君」
名前を呼ばれ、ぎょっとして振り向く。だだっ広い部屋の真ん中、テーブルを囲んだ長椅子の一角に、年かさの男が座っていた。
「水を持ってきたまえ。気付けのワインにはまだ早かろう」
女中に命ずる声は、巌のように硬かった。
年は五十を過ぎているだろうか。男の顔は肉を削り落とされたかと思うほど細く、髪も口ひげも真っ白で、しかし、目だけが鷹のように鋭い。
身につけているのは、おそろしく細かい刺繍をほどこしたトーガと、宝石をちりばめたネックレス。どう考えても平民がこんな服を着られるわけはない。相当高い身分の貴族と見えた。
「かけたまえ」
木の枝のような手を差し向けて、男はクリスを向かいの椅子に誘った。口ごたえを許さない、命令しなれた口ぶりに、クリスはおとしなく従った。
テーブルの上に、女中が水を差し出してくる。落ち着こうと水を飲もうにも、ヴェネツィアングラスの宝石のようなカッティングは、かえってクリスを緊張させた。
窓からは曇りかけた夜空が見え、サンマルコ大聖堂の鐘楼が星を射抜くようにそびえていた。中庭をはさんで見える向こう側は、丸柱とアーチが並ぶ四階層の回廊。闇夜の中でなお白く輝く石造りの壁を見て、クリスの体は震え出した。大聖堂の近くでこれほどの屋敷、いや宮殿は一つしかない。
「ようこそ、ドゥカーレ宮殿へ。私はヴェネツィア共和国元首、クリストファー・モーロ。君と同じ名前のクリストファーだ」
全身からどっと力が抜けた。目の前にいるのは、自分が殺そうとしていた人物だ。
ドゥカーレ宮殿――元首の住居にして執務の場。すなわちヴェネツィアの政治の中心。自分はそこに拉致されたのだ。
ドメニコとプルチーニの顔が思い浮かんだ。宮殿のすぐ隣は牢獄になっており、罪人は朽ち果てるまでそこに閉じ込められるという。聖堂荒らしの罪であるから、牢屋行きどころか火あぶりかもしれないが、どちらにしろ二人にはもう生きて出会えはすまい。
(ごめんよ、兄ぃ、プルチーニ――)
うつむいて固まるクリスを元首はじっと見つめていたが、やがてサッと手を振って女中を下がらせた。
「ああ、待ちたまえ」
「はい?」
「『彼』をここに来させてくれ。一人でな」
「はい、承知しました」
女中が部屋から出て行ってしまえば、広い広い元首の私室は、二人だけになった。元首はクリスの顔を見据えたまま一言もしゃべらない。
沈黙が続くうち、だんだんと腹がすわってきた。こうなったらもうジタバタしてもはじまらない。元首の顔を正面から見返し、
「あの」
「ふあ~~~~あ~~あ~~」
クリスはあっけにとられた。モーロ元首が大口を開けてあくびを放ったのである。
「あー、眠ぅ~。たまらんよねぇ、毎朝毎晩軍議軍議で、気の休まるヒマもありゃしない。やだやだ、戦争なんて」
テーブルに両脚を投げ出し、ネックレスを放り投げ、ソファーに寝そべって首をこきこきと鳴らす。声もないクリスに向かい、
「君もラクにしなよぉ、見張りなんてつけてないから。あーあ、久々に素に戻れてスッキリした。元首っぽく振舞うのもラクじゃないんだよねぇ、肩こるしさ。暗殺なんてされなくたってあと五年もしたらポックリいっちゃうよこれじゃ」
「あ、あの……」
「あーほら、水飲んで、水。悪かったねぇ、手荒なマネして。聞いた話だと君、かなりの腕前らしいからああでもしないと捕まえられないと思ってさぁ。実際ウチの部隊の連中も何人かのされたんだけど、みんな君の事褒めてたよ。ぜひともウチに来て欲しいって。いいよねえ、暗殺者とか、カッコよくて。元首なんかよりよっぽど面白そうじゃない。僕も貴族じゃなかったらなぁー……あ、ところで何か食べる? いろいろあるよー、ナッツにハチミツ、ええと、桃にメロンもあったかな。ジェノヴァはどんな食べ物があるの? 自慢するこっちゃないけどヴェネツィアは自分のとこでとれるのが塩と魚しかないからねぇ、輸入品に頼らなくていいってのはうらやましいというか何というか」
「あのっ!」
元首はハタ、と口を止めた。
「あ、あの……その、元首さん」
「モーロでいいよ」
「じゃ、じゃあモーロさん。おいら、聖マルコ様のお堂を荒らしたことで、つかまったと思ってたんだけど」
「別にいいよ、それくらい」
「そ、それくらい?」
そういえば、元首は護衛の一人もつけていない。クリスが元首の命を狙う暗殺者であることはバレている。その任務はもう放棄したわけだが、向こうはそのことまで知らないはずだ。目の前に自分を殺そうとしている人間がいるのに、この落ち着きようは一体何だ。
「ははは、分かりやすいねぇ、君は。どうして一対一で話をしようとしてるのか、不思議に思ってるんだろう」
「あ……う、はい」
「それはね、君にはもう僕を殺す理由がないから。そして僕が君の味方であることを信じてほしいからさ」
どういうことか分からない。しかし、その疑問をよそにモーロは一方的に話を続けた。
「若いよねぇ。十三だっけ、確か」
「はい……」
「好きな子とかいるの? どんなのが好み?」
「ええ? あの、その……」
「さっきの女中の子とかどう? ちょっとトウがたってるけど、いいよぉ、気立てがよくて。ま、僕のお気に入りだからくれって言われてもあげないけどね、アッハッハ!」
「はあ……」
あいまいに返事をかえすクリスに、モーロはにやりと口の端をゆがめた。
「それとも……もう大事な人はそばにいるのかな」
すっと凍えるような低い声。クリスはぎくりとして元首の顔を見た。
目が鷹の鋭さを取り戻していた。
「いい女でしょ。でもやめといたほうがいいよぉ。ありゃ年季の入った悪女だから」
「プルチーニのことを……?」
「プルチーニ。はは、今はそんな名前になってるんだっけねぇ」
モーロは長椅子に深くかけなおすと、両手をヒザの上を組み、クリスに正対した。
「そろそろ本題に入ろうか。重ね重ね、手荒なマネをしたこと、悪かったね。が、君をつかまえたのは、君の思っているような聖堂荒らしの件でも、暗殺の咎でもない。君と行動をともにしている片目の女のことさ」
クリスはごくりと唾を飲んだ。ぐるぐると色々な考えが頭の中を回っている。
プルチーニとヴェネツィアの元首。
とても結びつきそうにないこの二人に、どんな因縁があるというんだろう。少なくとも、聖堂荒らしのことを横に置いてでもしなければならない話であるのは間違いない。
モーロは懐から中身の詰まった麻の袋を取り出した。中身がばらまかれた途端、鈍い光がテーブルに満ちた。
ドゥカート金貨だ。三百枚はある。
「君を雇いたい。報酬はこの百倍の金貨と、世界の英雄になる資格だ」
続けられた言葉は、とうてい受け入れがたいものだった。
「あの人形を壊してくれ。それができるのは君しかいない」
声もないクリスに、元首が続ける。
「君は、あの女のことをどこまで知ってるんだい」
「ど、どこまで?」
「何年生きている、とか。何のために生きている、とか」
クリスは口を閉ざした。あの卵のことを、プルチーニは『秘密』と言ったのだ。自分にだけ打ち明けてくれた秘密を、簡単に他人にばらすわけにはいかない。それが彼女への礼儀であり、絆だ。
しかし、元首はやすやすと二人の間に入り込んできた。
「あの女は人間じゃあない。古代ローマ時代から千年もの間生きている人形だ」
「! なんでそれを……!」
「あれが作られた理由は一つ。千年温め続ければ奇跡を起こすという卵を守るため」
クリスは言葉もなかった。モーロはなおも続ける。
「宇宙卵に書かれた文字を見たね」
もはやクリスは覚悟を決めた。
「……はい。破壊と創造と……もう一つ、何かは分からないけど、その三つの中から起こす奇跡を選べる、と」
元首の白いあごひげが、不敵に歪んだ。
「ははぁ、知ってるのはそこまでか。半分というところだねぇ」
「どういうことですか、半分って」
「そのまんまの意味。君は真実の半分しか知らされていない。言い換えるなら、あの人形は君に隠し事をしている」
さすがにクリスはむっとなった。プルチーニが自分にそんなことをするわけがない。
しかし、なら――この背中を走るうすら寒いものは何だろう。元首の言葉にはでまかせとは思えない力強さがある。
モーロは今一度クリスに水をすすめ、ゆっくりと口を開いた。
「破壊と創造、それぞれが具体的に何を指すのかは分からない。何かのたとえかもしれないしね。しかし、ただ一つ分かることがある。あの人形が選択しようとしていること、それは――破滅だ」
クリスは立ち上がった。
「ウソだっ! プルチーニは何も選ばないって言ったんだ! いい加減なこと言うなよ!」
「僕は冗談は好きだけど、ウソはつかない。ウソを言っているとすれば、あの人形のほうだ」
「デタラメ言うな! どうしてそんなことがあんたに分かるんだ!」
「それは僕がヴェネツィアの元首だから」
意味が分からず顔をしかめるクリスに、モーロ元首は自分の胸を指で叩いてみせた。
「この国がここまで発展してきた一つの要因は、正確な情報網にある。たとえば、君の雇い主についても把握している。アルベルト・デュナン神父、六十六歳。もともとシチリアの地元貴族お抱えの暗殺者だったが、引退後ジェノヴァの教会に入り込むと同時に、裏で暗殺候補者の選別、教育、および仕事のあっせんを行うようになる――とかね」
クリスは椅子に腰を戻した。元首の話に納得したわけではない。ただ、クリスさえも知らない情報をあまりに正確に言われてしまったため、腰が抜けてしまったのである。
「もう一つ、証拠をあげようか。卵を見たということは、あの人形の胸のポケットも見たはずだね」
「はい……」
「あのポケットの中に入っていたものを見たかい?」
「え? いや、だから……卵が」
「それは右の胸だろう。僕が言ってるのは、左の方のこと」
言われて、クリスはしばし考え込んだ。
あのとき、プルチーニが見せたのは――そう、右の胸ポケットだった。が、たしかに左の胸にも同じようなものはあったはずだ。その中に何があるか、などとは考えもしなかったが。
「……見てない、です」
「だろうねぇ。もし見ていたら、とっくにあの人形のもとを逃げ出してるはずだもの。いやぁ、危ない危ない。実際綱渡りしてるよ、君」
「一体何があるっていうんですか」
遠回りな物言いに耐えかねて声を強めると、モーロ元首は答えるどころか、さらに別の質問を投げかけた。
「君、あの人形と抱き合ったりとかしちゃった? キスとかは?」
「……」
「あらら、怒ってる? ま、いいや。とりあえず手ぇくらいは握ったよね。温かかったでしょ?」
「温かかったよ……それがどうしたっていうんですか」
「不思議に思わなかったのかい? どうして温かいのか。どうして、人形に、体温があるのか」
何を今さら、とクリスは思った。それを言うならそもそも人形に心があること自体、おかしい。
「それこそ卵の、奇跡の力なんじゃないんですか……?」
「違うね。確かにあの卵には超常の力があるが、少なくとも熱を生み出すことはできない。何となれば、そんなことができれば最初から温めてもらう必要などないからだ。あくまで温度は人の手で作り出さなければならない。いいかい、おさらいするよ。卵を温めるには、体温が必要。だが、人形に体温があるわけない。――だから、あの人形は、いや、あの人形を作った人物は、おそろしい方法を考えた。それは――」
とんとん、と自分の左胸を叩き、
「人間の血から体温を生み出すこと。あの左胸には、人の生きた心臓が入っているんだ」
悪い冗談としか思えなかった。
呆然と口を開いたままのクリスに、モーロ元首は畳みかけた。
「人間の体温というのは、血の流れによってもたらされる。体から血が失われると体は冷えるし、逆に血の巡りが良くなれば温まる。それと同じで、あの人形は人の生き血を取り込み、左胸のポケットに入れた心臓より温かい血を流すことで、体温を生み出しているんだ。僕が知っているのはそこまで。一体どういう原理で心臓を動かしているのか、とかそこまで詳しいことは分からない。下手すりゃ人形本人だって知らないかもしれない。だが実は、問題はそこじゃあない。その心臓を手にいれるため、あの人形が歴史上何百人もの人間を殺した、ということさ」
――プルチーニが、人を。
「なぜなら、一個の心臓で体温を供給できる期間は限られているから。長くて数十年、短くて数ヶ月。それが過ぎれば心臓は動かなくなり、血が止まる。もちろん体温は生み出せなくなるから、次々と新品に取り替えていかなくてはならない。生きた人間の胸をえぐり取って、ね」
続いてモーロは今まで殺された人間の一部をそらんじた。
「あの人形がどういう基準で殺す相手を選んでいるのかは、よく分からない。ただ、これはある軍医から聞いた話なんだけど、戦場で血を失った兵に他の人間の血を与えたら、ある者は元気になり、ある者は真っ黒な尿を出して死んでしまったらしい。僕は、これは人と人の血には相性があるためだと思っている。あの人形も、自分の体の中で血の衝突が起こらないように、血や心臓を吟味しているんじゃないかな。君、ひょっとしてあれに血を採られた、とかいう覚えはない?」
クリスは真っ青になった。
大聖堂の屋根で手の傷を舐められたことを思い出したのである。
「思い当たることがあるようだねぇ。あの人形が君と行動を共にしているのは、相性のいい心臓の持ち主として認めたから――っていうのは穿った推測かな」
「う……」
「冗談で言うようだがね、そういう血も涙もないような人形がだよ、間違っても世界を救おうなんてことを考えると思うかい? あれは世界の敵だよ。そして僕と君は、世界の救世主さ」
大仰に両手を広げる元首。対するクリスの声は細くなるばかりだ。
「どうしてそんないろんなことを知ってるんですか……」
「言ったでしょ。情報こそヴェネツィアの力。僕は、いや僕たちはずっと彼女を追ってきた。千年の間ずっとね」
モーロは席を外し、部屋の隅へと歩いた。
絨毯をめくり、タイルをはがす。床をくり抜いて作られた隠し穴の中から、大仰な鉄の箱が取り出される。鍵を差し込んでぶ厚い扉を開くと、その中からさらに古ぼけた木箱があらわれた。
元首はそれをテーブルに持ってくると、赤子に触れるようにそっと蓋を開いた。鼻をつくすえた臭いとともに姿をあらわしたのは、何百枚という紙の束だ。
「千年前、ヴェネツィア人がこの地に来たときから残されている記録さ。街の成り立ちから、外国との裏折衝、教皇庁との隠れたやりとり、海賊との密約……ま、そういう表の歴史書には書けない、後ろ暗~いことがいっぱい載ってある秘密のご本。公開されれば、ヨーロッパ中がひとたまりもなく吹っ飛んでしまうようなシロモノだよ」
筋張った指で、ぱらぱらと書類をめくってゆく。
「あの人形とこの国は、幾度となく歴史を交わらせてきた。あるときは街に攻め入った外国の兵士を殺し、あるときは街を荒らす泥棒を縊り、あるときは街の元首を手にかけた。過去のヴェネツィア人たちはいつまで経っても年をとらない彼女の正体を必死になって探り、そしてついにつきとめた。その目的と合わせてね。以降、この国の元首は代々書物とともに、一つの任務を受け継いできた」
「任務……?」
「そう。すなわち世界を破滅から救うこと……と言ったら大げさかな」
モーロ元首は白い髭をさすり、笑ってみせた。
「この文書を元首以外の人間が目にするのは、ヴェネツィアの歴史上初めてのことだろう。僕はそれだけ君の事を買っているし、事態はそれだけせっぱ詰まっている。そのことを分かってほしい」
「だから、この金でおいらを雇うっていうんですか」
「その通り。受けてくれるよね?」
クリスは席を立った。
「どこへ行くんだい」
「牢屋です。プルチーニに手を出すくらいなら、自分から捕まります」
元首はしかめっ面で頭をかき、
「やれやれ――そうとう入れこんでしまってるみたいだねぇ。あれだけ聞かせたのに、まだあれをかばうのかい」
「そうさ。おいらはプルチーニの味方です。やるんなら自分とこの暗殺部隊を使ってやってください」
「意地が悪いねぇ……それができたらとっくにやってるよ。彼らじゃとうてい手に負えないから、君に頼んでるんじゃないの。なんせあの人形、何が気に入ったのか知らんが随分君に気を許してるみたいだからねぇ」
金貨を一枚取り、手の中でもてあそぶ。表に描かれている図柄は、かつての元首ジョヴァンニ・ダンドロが聖マルコから旗を受け取っている場面だ。
「クリス君。僕だって伊達に一国の長をやっているわけじゃあない。本当は分かってるんだろう? あれが世界の敵だってことを。自分の心を偽るのはやめときなさい」
強烈にこたえた。胸を押さえそうになるのをどうにかこらえながら、クリスは精一杯モーロをにらみ下ろした。
しかしモーロは一向にこたえない。
「ま、壊せというのはできればの話で、できないなら仕方ない。ただせめてあの卵だけは奪ってきてほしい。少なくとも、あの人形が卵に執着していることは間違いない。そうでないなら、捨てればいいだけの話なんだしね」
「それで、どうするんですか」
「うん?」
「卵を手に入れて、モーロさんはどうするつもりなんですか」
「ははぁ、いい質問だね。って実は今のところ何も考えてないんだけど。破壊か、創造かなんて僕みたいな小心者の手にはあまる選択だし」
「トルコとの戦争に使うつもりじゃ……」
モーロは大口を開けて笑った。
「はっはっは! なるほどね、そういう考えもあったなぁ。ああ、ああ、なるほど。卵がうまいことトルコだけを滅ぼしてくれたら、こんな嬉しいことはないな。だがクリス君、勘違いしちゃいけないよ。我が国は確かにトルコと戦をしているけど、断じてかの国を潰そうなんてつもりはない。トルコはヴェネツィアの持つ貿易拠点を奪おうとしている。それらを奪われたらヴェネツィアは滅ぶ。だから、我々は自らの身を守るために戦っている。要は降りかかる火の粉を払えればそれでいいのさ」
どうだか、という顔をするクリスだが、元首は意に介さない。
「ま、とにかく僕には卵をどうこうするつもりはない。神の奇跡というからには、そうそう人間の都合よく使えるはずがないだろうしね。ただ、さんざん言っているように、卵があの人形の手にあることは望ましくない。僕は破壊も創造も望まない。今のままの世界で寝たり食ったり売ったり買ったりしてるのが好きだから」
クリスは立ったまま考え込んだ。
モーロ元首の言っていることにウソはないと思う。聖堂荒らしの犯人にこんなウソをついたところで、元首には何の得もない。
元首の言うとおり、彼女に対する信頼は揺らいでいる。
しかし、だからといって自分にプルチーニを壊すなんてことができるのか。あのプルチーニを――。
元首はクリスの迷いを見て取ると、大きなため息を天井に投げつけた。
「嫌な言い方をするようだけどね――君に選択の余地はない。何しろ君はもう、帰るところがないんだから」
「帰るところ?」
プルチーニの待つ宿のことだろうか。
クリスが疑問に思ったそのとき、部屋のドアがノックされた。
元首が「どうぞ」と返事をする。入ってきた人物の顔を見て、思わず叫び声が出た。
「兄ぃ!」
聖堂で別れて以来、会っていなかったドメニコだ。
上物のチュニックに身を包んだ兄貴分は、後ろ手に扉を閉め、元首をたしなめた。
「閣下、ちょいと声が大きいぜ。部屋の外に漏れちまってる」
「そりゃいけない、ガラにもなく興奮しちゃったかな」
再会の感激に顔をほころばせたクリスは、しかし、彼が元首の隣にどっかりと腰かけるのを見て、表情をくもらせた。
「……さっきの、やっぱり兄ぃだったんだね」
「ああ。悪かったな。ずいぶん腕を上げやがって、ああでもしなけりゃ止められなかった」
微笑みながらそう言う兄貴分の顔は、何も変わっていない。クリスは張りつめていた糸がゆるんだ気分になった。
「帰ろう、兄ぃ。ジェノヴァに帰って、神父さまに謝ろうよ」
だが、返ってきたのは思わぬ答えだった。
「その必要はねぇ」
「どうして? ちゃんと謝れば神父様も分かってくれるよ」
「そうじゃねぇ、俺たちにはもう、帰る場所はねぇんだ」
さっきも元首から聞いた言葉だ。どういう意味だろうとしばらく考えて、クリスは愕然となった。
「まさか、神父様が……」
もう自分の身分は割れている。この元首が暗殺計画を知った上で、黙っているはずはない。
モーロ元首は懐から小さな十字架を取り出した。神父が肌身離さず持っていた、銀のロザリオだ。
「そう、すでにデュナン神父は始末させてもらった。暗殺の依頼者もね。君が僕を殺す理由がないと言ったのはそういうことさ」
クリスはドメニコの顔を見た。顔色一つ変えないところから見て、ドメニコもすでに知っているのだろう。ショックで声も出ないクリスに、モーロは平坦な声で続ける。
「あの神父は戦争や病で親を亡くした子を引き取り、暗殺者候補として育てていた。見込みのない人間は他の教会へ移るという触れ込みになっていたが、実際どうなったか、君とて知らないわけじゃないだろう」
「……」
「そんなことをする悪人を放っておけん――などと正義ぶるつもりはない。謝罪もしない。ただ、君は今帰るところを失くしたとともに、自由でもあるはずだ」
元首の言葉と、部屋にたちこめる香りが、魔術のようにクリスを包み込んだ。
考えがまとまらない。頭の中が真っ白になっている。
救いを求めるように、兄貴分の顔を見る。
「兄ぃ、神父さまが……」
少しの間目を閉じ、ドメニコは「ああ」と呟いた。
「みんなは……? 兄ぃ」
「無事だそうだ。もっとも神父がいなくなったから他の引き取り手を探さねぇといけねぇがな」
「そんなところ、あるの?」
「人の心配をしてる場合じゃねえ。今は自分がどう生きのびるかだ」
元首が満足そうに頷く。
「彼は話の分かる男だね。大聖堂で捕まえた後、まったく話を聞いてくれなかったのだが、ロザリオを見せたらこちらにつくと言ってくれた」
「兄ぃ、本当に、それでいいの?」
「一番大事なことは、今生きるために何をするかだ。俺の判断基準はそこにしかねェ。そして今ヴェネツィアにつくことが、最善だと俺は思う」
兄ぃは何も変わっていないとクリスは思った。どこまでも現実的で、前向きで、でもそのことがなぜか悲しく感じられるところまでも。
「本当はドメニコ君にも戦力になってもらいたかったのだがね。この体では仕方ない」
ちらりとドメニコの腕を見れば、右手に包帯が巻かれていた。プルチーニに砕かれた手である。
「結構複雑に折れてるらしくてな。お前をとっ捕まえるのが精一杯だ。それに俺はあの人形に顔を見られてるから、奇襲するにゃ不利だ。それならお前のほうがまだ油断させられるだけマシってこった」
ドメニコの目に迷いはない。それが決意を固めているときの目だと分かったとき、クリスの中の力は急速に萎えしぼんだ。
おいらはどうしたらいいんだろう――兄貴分も、プルチーニも教えてはくれない。もちろん、神様も。
モーロ元首はシャンデリアを見上げてため息をついた。
「……しょうがないね。次の一手を打っちゃおうかなー」
言いながら、自分の左胸を叩く。
「今、あの人形の左胸にあるのが、誰の心臓か分かる?」
クリスは弱々しく首を振った。
「フィレンツェの支配者にして、イタリア中に支店を持つメディチ銀行の頭。ヨーロッパ一の大富豪、コジモ・デ・メディチ――通称コジモ・イル・ヴェッキオさ」
「メディチ……イル・ヴェッキオ……」
メディチ家の名前はヨーロッパに住むものなら子供でも知っている。
そして、イル・ヴェッキオ――それはまぎれもなくプルチーニが飼っている鶏の名前である。
「十三年前から、あの人形はフィレンツェのメディチ邸に身を寄せていた。その間の行動はよく分かっていない。何せ相手は天下のメディチ家だからね……間者を放つのも簡単じゃないんだ。だからあれがフィレンツェにとどまり続けた理由も分からない。十年以上一つところにとどまるのは、非常に珍しいことなんだ。何せ年をとらないことがバレてしまうからね」
「……」
「金が狙いだったのかもしれないし、何かのコネを作ろうとしたのかもしれない。全ては推測にすぎない。分かっているのは、あの人形は今年の八月にコジモを殺し、心臓を奪ってフィレンツェを逃げるように去ったということだけ」
プルチーニの持っていたフィレンツェの金貨が脳裏に浮かんだ。銀行に金を持っているという言葉も。
彼女は金目当てでコジモ・イル・ヴェッキオに近づき、心臓もろとも財産を奪ったのだろうか。そして自分の殺した相手のあだ名を鶏につけ、連れまわしているのだとしたら――悪趣味に過ぎる。
「コジモ・イル・ヴェッキオはフィレンツェの実質的支配者として和平を締結させ、北イタリアの平和の立役者となった男だ。その人物を殺したというのは、彼女が混沌を望んでいる証拠ではないかな」
「そんな様子はなかった……と思います」
「それは君がそう思いたいだけでは?」
分からない。もう何がなんだか分からなかった。
「僕が推測するにね、あれは焦っているんじゃないかな。たとえば卵が奇跡など起こせるようなものではなかったりしたら? 千年もの間守り続けてきたものがまがいものだとなったら……ああ、僕だったら、きっと狂っちゃうだろうねぇ。それだけじゃない、そのうち見境なく人を殺し出すかもしれない。悪しき神に生贄を捧げる邪宗の徒のように。そうなれば彼女は本物の魔女になってしまう。君はそれでもいいのかい?」
「……そんな言い方、卑怯です」
「かもねぇ。だけどさ――きいたろう?」
あえてそれに反抗する言葉を、クリスは持たなかった。
「お前のだ」
ドメニコは持っていたナイフをクリスに差し出した。
「クリス君、たのむ」
「勇気を出せ、クリス」
今、自分がやろうとしていることは、プルチーニを壊すことなのだろうか。それとも助けることなのだろうか。
使い慣れたナイフを受け取りながら、クリスはこんなに重かったかなと考えた。