S2第六十四章 道化師
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「固定栓:成立」
「主線回落:受限」
「残留基値:書き換え(リライト)」
サブモニターの右下隅に表示されたその三行のログは、剥き出しの骨から削り取られたばかりのリン光のように白く焼き付いていた。
コントロールパネルの前では、誰も口を開かない。沈黙が鉛のように凍りついている。
希は顔を上げることすらできずにいた。
老高は眉間に深い皺を刻んでいる。その数値の意味を理解してしまったのか、あるいは、いっそ理解などしたくなかったという顔だ。
雨瞳は、ただ淡々と弥生を一瞥しただけだった。その瞳に驚きはない。ただ、こうなることを予期していた者の、そして彼女を助け出すつもりなど毛頭ない者の静謐さがあった。
冷たい白光の中に立つ神代 弥生の横顔は、透けるように白い。
今日の彼女の「冷たさ」は、いつものそれとは違っていた。
普段の神代が鞘に収まった凶刃だとするなら、近づくだけで首筋が凍るような威圧感がある。だが、今は違う。今日の彼女は、体内の奥底から這い上がろうとする「何か」を、一寸ずつ無理やり押し戻しているような違和感があった。
表面を平坦に抑え込めば抑え込むほど、その深層では熱が猛っている。その精密すぎる静寂が、かえって彼女を平時よりも危うく、そして危険に見せていた。
真壁 宗一郎がその三行のログを数秒間凝視した後、ようやく口を開いた。
「希、オリジナルログをチェーンロックしろ。コピー権限はレベル2まで降格。昨夜の自己記録はまだ外部へ送るな」
「あ、はい……」希は即座にキーを叩き始めた。
老高が短く咳き込み、声を殺して尋ねる。
「その『送らない』ってのは、上に報告しないって意味か、それとも――」
「不必要な『ゴミ』に触らせないという意味だ」と、真壁が断じた。
その言葉が落ちた瞬間、メインエリアの外扉が鳴った。
誰も振り返らない。
だが、その急ぎもせず遅れもしない、あえて自分の存在を誇示するような足音を聞いただけで、俺は今日という日が平穏には終わらないことを悟った。
扉が開くと、山口が入ってきた。
仕立ての良いスーツ、計算され尽くしたネクタイのノット。手には薄いファイルが握られている。その硬そうな角を見ただけで分かった。中に入っているのは見舞いの言葉ではなく、単なる「条件」だ。
彼はまずモニターを眺め、次に真壁へ、そして最後にその視線を弥生へと落とした。
そして、彼は笑った。
それは小さく、慇懃無礼なほどに丁寧な笑みだった。
だが、俺には分かっていた。この男は今日、人間として話しに来たわけじゃない。
「昨夜の観測データは、予想以上に『完全』だったようだね」
ファイルを表の上に置きながら、彼はまるで極上品の値踏みをするような口調で続けた。「単なる事故ではない以上、昨日提示した『価格』は、再計算させてもらうよ」
真壁の表情は微動だにしない。
「まず、その『我々』という範囲を明確にしてもらおうか」
山口はその言葉に含まれた刺を無視し、モニター右下のログを指差した。
「固定栓の成立。それは、この状態が一時的な損害補填ではなく、継続的な『観測標的』へと昇格したことを意味する。霊務局の立場はシンプルだ。成立した以上、もはや基地内部の単なる不祥事として隠蔽し続けることは許されない」
タブレットを抱えた希が、呼吸を殺す。
老高は顔を背け、「糞食らえだ」と言わんばかりの態度を隠そうともしない。
山口はファイルをめくり、カウンターで請求書を読み上げるように淡々と条件を並べ立てた。
「第一に、昨夜の完全な自己記録と残留基値のオリジナルデータ。これについては霊務局へ同期コピーの提出を求める。
第二に、周 士達の身分調整だ。もはや単なる協力者ではなく、正式な『連結対象』として暫定登録する。
第三に、神代 弥生。君は今日から七十二時間の特別観測に入る。全ての外部接触と動線は、霊務局が共同で覆核させてもらうよ」
一通り述べ終えると、彼は吐き気がするほど親切にこう付け加えた。
「その代わり、こちらで正式な『列管(管理対象)』としての処理は保留にしておこう。少なくとも今は、この結果を直接上層部へ送ることはしないでおいてあげるよ」
これこそが、山口という男の最も反吐が出る部分だ。
彼は決して脅さない。
ただ、テーブルの上にナイフを置き、「自分で首を差し出せば安く済むよ」と丁寧に問いかけてくるだけなのだ。
俺は何も言わず、ただ視線を弥生の方へと移した。
神代 弥生は終始一貫して沈黙を保ち、ただそこに佇んでいた。
だが、その静寂はあまりにも薄く、危うい。山口が条件を一つ並べるたびに、彼女を覆う「冷気」の層はより一層肌に張り付いていく。それは退行ではなく、強烈な圧縮だ。内側で荒れ狂っていた「何か」を、彼女は力技で平坦な氷原へと押し潰している。
だが、その平坦さは、一度でも爪を立てれば容易に割れてしまいそうなほど、限界まで張り詰めていた。
唐突に、雨瞳が口を開く。
「連結対象とは、どういう意味かしら?」
山口は彼女へ向き直り、相変わらず慇懃な口調で応えた。
「安定条件が明確になるまでは、周 士達を単なる協力要員として扱うことはできない、という意味だよ。彼は既に『結果』の一部として組み込まれた。ならば、その結果に従って処理されるべきだ」
老高がその場で短く、汚い罵倒を吐き捨てた。
俺は特に反応しなかった。
そんな単語、いかにも山口が吐きそうな理屈だ。商売人ってのは、まず相手の「名称」を書き換え、それからゆっくりと、その「存在」を奪っていく。
真壁 宗一郎が、ようやく重い口を開く。
「データも、人間も、さらにはその七十二時間すら恩着せがましく売りつけるつもりか。山口、今回の見積もりは前回にも増して醜悪だな」
山口の笑みは崩れない。
「それは、『貨物』の価値が跳ね上がったからですよ」
その言葉が落ちた瞬間、主控エリアの反対側にある内線が、警告灯のように明滅した。
希は一瞬呆然とし、それから真壁を見た。
真壁は無言のまま、顎で受話器を指し示す。
希が応答し、数秒耳を傾けると、その顔色から一気に血の気が引いた。
「……今、ですか?」
彼女は山口を盗み見、それから真壁へと視線を戻し、声を絞り出す。「……彼ら、既にビル内に入っているそうです」
山口の眉が、今日初めて不快そうに動いた。
「誰が来た?」
その問いへの答えは、すぐさま扉の向こうから現れた。
入ってきたのは霊務局の人間ではない。
神楽本部の出向員たちだ。
濃紺のコートを纏った二人の男が先行し、その背後から雨宮 静が姿を現した。彼女の表情は、これから起こることを全て予見していたかのように、冷徹なまでに平坦だ。彼女は入室するなりモニターを一瞥し、次に山口の机上のファイルを冷ややかに見下ろすと、赤い封蝋が押された転送文書を事も無げに置いた。
「本部から回答が届きました」と、彼女は言った。
山口の顔から、余裕の笑みが僅かに剥がれ落ちる。
真壁は文書に触れようともせず、ただ短く命じた。
「読め」
雨宮 静は淡々とページを捲り、一文字の無駄もなくその内容を読み上げる。
「神楽本部・特情技研室の臨時保全条項に基づき、『固定栓成立』の瞬間より、全ての関連オリジナルデータ、自己記録副本、残留基値、および封印連鎖の接触順序は、本部の『予備ロック項目』として指定される。再審査未了の間、これらを地方レベルの取引条件、交換材料、あるいは組織間の対価として扱うことを禁ずる」
エリア内が、一瞬にして真空になったかのような静寂に包まれた。
俺は山口を見た。
カウンター越しに値踏みをしていたあの余裕に、初めて、細く、鋭い亀裂が走った。
この文書は単なる手続きの遅延ではない。
「山口、お前にこの在庫を売る権利はない」と、全員の前で宣告したに等しい。
つまり、彼が今しがたテーブルに並べた交渉材料の半分以上が、既に神楽本部の「南京錠」によってロックされているのだ。
他人の倉庫にある商品の値段を勝手につけて、ドヤ顔で商談に来たわけだ。
これは『先手』じゃない。ただの公開処刑だ。
老高が真っ先に反応し、喉の奥で低く笑った。
その音は小さかったが、この上なく意地が悪かった。
山口はゆっくりと首を巡らせ、雨宮 静を凝視する。
「……霊務局側には、事前の同期はなかったはずだが」
雨宮は彼を見つめ返し、天気予報でも読み上げるような温度のない声で告げた。
「今、同期したでしょう?」
今の言葉は効いた。
それは説明ではなく、明確な「通告」だ。
お前の数分間の天下は、たった今、ここで終了したのだと。
そこへ、真壁がトドメの一撃を叩き込む。
「どうやら今日のお前が持ってきたのは、見積書ではなく『ジョーク集』だったようだな」
山口は、すぐには激昂しなかった。
彼はまずその転送文書を手に取り、一頁目を読み、二頁目を捲った。三頁目に差し掛かった時、彼はふっと、乾いた笑い声を漏らした。
その笑みは、部屋に入ってきた時よりも軽く、そして――凶器のように冷たかった。
「なるほど、そういうことか」
彼は文書を机に戻し、顔を上げた。視線は雨宮、真壁を順に刺し、最後に弥生へと止まった。
弥生はまだ、何も言わない。
だが、俺には分かった。今の彼女は、先ほどよりもさらに「冷えて」いる。熱が引いたのではない。引ききれなかった悍ましい焦熱の全てを、刀身に宿る「霜」のような殺意へと変質させたのだ。
山口は二秒ほど彼女を凝視した後、視線を真壁へ戻した。
「……確信犯か」
真壁は瞬き一つしない。
「お前の手が、少しばかり早すぎただけだ」
「いいえ、」山口は首を振った。「私の手が早いのではない。私に交渉をさせている間に、裏で貨物をロックしたんだ。真壁、これは拒絶ではない。私を『捨て石』にしたんだな」
老高が今度は隠さず鼻で笑った。
雨瞳は隣で、笑いもしなければ助け舟も出さない。
ただ、その見物人じみた表情が全てを物語っていた。今回のラウンド、山口は神楽本部と真壁に、完璧な連携でハメられたのだ。少なくとも、表面的には。
だが、この手の人間にとって、最も耐え難いのは「損失」ではない。
「損失」などではない。何よりも耐え難いのは、これほどまでに「無様に」煮湯を飲まされたことだ。
俺はデスクの端に寄りかかり、山口へ視線を投げた。そして、ようやく口を開く。
「さっきから考えてたんだ。あんたが今日、どうしてあんなに自信満々に笑ってられるのかってな」
山口がこちらを向く。返答はない。
俺は彼が握りしめている転送文書を冷ややかに一瞥し、口角を吊り上げた。
「……なんだ。単に在庫を確保できてなかっただけか」
「それどころか、その在庫が自分の所有物かどうかの区別すら、ついてなかったわけだ」
主控エリアの空気が、一瞬で凍りついた。
老高が下を向いて咳き込んだ。明らかに笑いを堪えている。
希はさらに深く頭を垂れた。今の自分の表情を、誰にも見られたくないという露骨な意思表示だ。
山口の顔にはまだ笑みの残滓が張り付いていたが、それは急速に色を失っていく。
「周 士達、今は君が――」
「俺が口を挟む時じゃないってか?」俺は言葉を遮った。「それとも、あんたみたいなブローカーが、上流に仕入れを止められて面子を潰された時じゃないって意味か?」
雨瞳がようやく顔を背けた。その口元が微かに動いている。
真壁ですら沈黙を守っていた。まるで、俺がこのまま相手を踏みにじることを黙認しているかのようだ。
俺は山口を凝視し、最後の一撃を叩き込む。
「あんたはいいよな。部屋に入ってきた時から、口を開けば構成体だの価格だの。まるで、自分が他人の価値を決める権利を持ってるかのような物言いだ」
俺は顎をしゃくり、机上の文書を指した。
「結果はこのザマだ。威勢よく見積もりを出したところで、ここはあんたの売り場ですらなかった」
山口の瞳から、ついに光が消えた。真の「凍結」がそこにあった。
だが、俺は止まらない。
「山口。今日のあんたは、ただの道化師だよ」
その一言が放たれた瞬間、エリア内は静まり返り、空調の作動音すら薄氷のように脆く響いた。
山口は俺を見つめていた。顔に張り付いていた最後の虚飾――あの作り笑いが、一滴ずつ乾いて剥がれ落ちていく。
その変化は、決して狼狽ではなかった。
罵倒されて言葉を失ったわけでもない。
それは、単に「取り繕うのをやめた」者の顔だった。
彼は机上のファイルをゆっくりと閉じた。その所作は依然として精密だ。だが、その静けさは先ほどまでのビジネスライクなそれとは異質だった。沸騰する怒りを強引に蓋で抑えつけているような――鍋の底で不穏な振動が鳴り響いているような、生理的な嫌悪感を伴う静寂。
「……いいだろう」と、彼は言った。
たった一言。
短ければ短いほど、致命的に「正解」から遠ざかっていく予感。
彼は袖口を整え、口調を再び公務的な平穏へと戻した。いや、それは先ほどよりもさらに慇懃で、そして空虚だった。
「神楽本部が価格をロックするというのなら、これ以上の『交渉』は不要だ」
希が反射的に彼を見上げた。今の言葉が、先ほどの脅しよりも何倍も恐ろしい意味を含んでいることに、彼女はまだ気づいていない。
だが、俺には分かった。
商売人が「交渉しない」と言い出した時、それは引き下がる合図ではない。
「テーブルを叩き壊す」という宣言だ。
そして、山口は最後の一片を付け加えた。
「――ならば、ここからは『リスク』として処理させてもらう」
真壁の眼光が、鋭く険しいものへと変わる。
「……やれると思っているのか」
だが、山口はもう、言葉の刃を交わそうとはしなかった。
彼はただ、耳元の通信機に指を触れ、低く、透徹した声で命じた。
「霊務局・現場班、入れ」
直後、扉の向こうから、統制された無機質な足音が響き始めた。
一人ではない。
それも、数人という規模ですらない。
その、無神経なほどに整然とした足音を聞いた瞬間、山口が最初から一人で来たわけではないことを悟った。彼は当初、この件を単なる「取引」として片付けるつもりだったのだろう。だが、交渉が決裂した今、彼は迷うことなく「商売人」の仮面を剥ぎ取り、霊務局の「執行官」という暴力的な側面へと回帰したのだ。
これこそが、この男の最も反吐が出る部分だ。
最初は笑顔で値切り交渉を持ちかけ、
それが通じないと分かれば、即座に法条を振りかざして相手を圧殺しにかかる。
真壁が一歩前へ踏み出し、冷徹な壁となって主控台を遮った。
「山口。今日、俺の目の前で一つでもアーカイブに触れてみろ。貴様がこの部屋から持ち出せるものは、何一つとして残らないと保証しよう」
山口は彼を凝視した。その顔から、ついに笑みが完全に消滅した。
「アーカイブ(封存)?」彼は言った。「真壁。貴様はまだ、これがその程度のものだと思っているのか?」
彼は無機質な手つきで、サブモニターの右下に浮かぶ三行の白い文字列を指した。
「固定栓位成立」
「主線回落受限」
「残留基値書き換え(リライト)」
一行読み上げるごとに、彼の声は温度を失い、平坦な「宣告」へと変質していく。
「これは封存すべき過去ではない。既に成立してしまった『リスク』だ」
彼は手を下ろし、もはや真壁を視界に入れることすらやめた。ただ、背後に控える入室してきた者たちへ、事務的な、しかし拒絶を許さないトーンで下令する。
「主控台の副本権限を接管しろ。
オリジナルログのリンクを封鎖。
周 士達および神代 弥生を『現場リスク対象』に指定する。
阻止する者がいれば、特情処置妨害として記録しろ」
その最後の一言が落とされた瞬間、場の空気は「冷却」から、一気に「沸騰」へと反転した。
老高が先んじて身体を動かした。
希は顔面を蒼白にしながらも、腕の中のタブレットを死守するように抱え込んでいる。
雨瞳は背筋を伸ばし、その瞳の奥に初めて、重く暗い沈殿物を宿らせた。
真壁はもはや無駄な言葉を費やすことなく、半身を最前線へとねじ込ませ、威圧的な沈黙で応戦する。
そして――弥生。
彼女は最初から最後まで、一言も発さなかった。
ただ、ゆっくりと、その瞼を持ち上げただけだった。
その一瞬。
彼女の眼差しを捉えた時、俺の背筋に、抗いようのない確信が奔った。
彼女の体内に渦巻いていた、まだ退ききっていない「悍ましい何か」。
それを抑え込んでいた堰が、今、この瞬間に崩壊したのだ。もはや、無理に押し止める必要はなくなった。
なぜなら。
もっとも触れてはいけない場所に、愚か者が自ら手を伸ばしたのだから。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




