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206.ロンギヌスの槍 1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

「ソフィア――ロッテルダムの海運女王。」


林 雨瞳(リン・ユートン)がその言葉を低く呟いた瞬間、部屋全体が濡れた布で覆われたような息苦しさに包まれた。


名前が華やかだったわけじゃない。むしろ逆だ。港の書類、保険証券、密輸の送り状、船主の酒席、海事弁護士の口の端——そういう場所で何度も何度も擦り切れるほど使われてきたからこそ、その簡潔さが背筋を凍らせる。バストーニュの恐怖は砲弾だ。着弾すると分かれば伏せればいい。でもブリュッセルとアントワープのそれは違う。まず名前をひとつ渡してくる。あとは自分で理解しろ、と。その名前の裏に何隻の船が、何個のコンテナが、本来同じ人間の手が触れるべきじゃない帳簿が何冊繋がっているのかを。


俺は食卓の端に座っていた。肩は希(シキ)に巻き直してもらったばかりで、錆びたペンチを骨の隙間に突っ込まれてゆっくり捻られているような激痛が残っている。テーブルには今日かき集めたものが全部広げてある——公開資料、保険約款、倉庫封鎖の覚書、引退した港湾記者が「出せなかったけど腐るほど臭い」と言って切り抜いておいた古い新聞の束。バストーニュの硬い戦いが終わったとき、次はもう少し楽になると思っていた。少なくとも、あの泥雪の中に広がるドイツ軍機械化部隊の残影や、ナチスの祭壇から吐き出された工業的な鬼火を見ずに済むと。


甘かった。 外側が変わっただけだ。


バストーニュは鉄と泥雪。 ここは書類と保険と港。 どちらでも人は死ぬ。


林 雨瞳(リン・ユートン)は手の中の小さな紙片をテーブルの角に押さえつけ、いつもの、冷静を通り越した平坦な声に戻した。


「今、二本の線が正式に交差。」


赤いペンを手に取り、地図を二度叩く。


「アントワープ側は、物を『合法的に動かせる状態』に洗い上げる役割。保険証券、偽の積荷目録、再保険条項、文化財修復名目、歴史保存協会、港湾外縁の倉庫——全部が、正確な名前で呼ばれるべきじゃない何かの輸送準備。ロッテルダム側は次のノード——単なる中継じゃない。そこには、どの貨物に別の名前をつけるか、どれを海の底に沈めるか、どれを保険に載せていいか、どれは駄目か、それを決める人間がいる。」


レミは俺の右隣に座っていた。顔色はいつもより悪く、三日三晩徹夜してコーヒーで無理やり立たせた死体みたいだった。古い報社のデータベースから引っ張り出した切り抜きを、もう一度テーブルの中央に押し出す。


「三年前にも似たような箱があった。」彼は言った。「箱番号は本物、中身は偽物っぽい。港のベテランが『開けるな、読み間違えるな』と言い残している。こんな言葉が波止場に流れるのは理由がある。港の人間は迷信を信じない。信じるのはコストとトラブルだけだ。そいつらが触れるなと言うなら、あの中身は普通の禁制品じゃない。」


「普通の密輸文化財でもない。」クレールが続けて、別の表を指で叩いた。「普通の文化財にあのレベルの約款包装は要らない。『宗教的汚染免責』、『指名性内容物保全』——あれは保険じゃない。表に出せない、でも事故も起こせない何かに、法律の綿を一枚巻いているだけよ。」


俺は機械油みたいに苦いコーヒーを飲み干した。


「つまりソフィアが管理しているのは船じゃない。」


誰もすぐに返さなかった。


俺は顔を上げて全員を見た。


「というか、船だけじゃない。船の上の何かを、何と呼んでいいか決める権限を持っている。」


林 雨瞳(リン・ユートン)が頷く。


「そういう人間が本当にいるとしたら、港の顔役程度じゃ済まない。水門に近い。アントワープ側で貨物を洗い終えたあと、ロッテルダム側でそれが本当に出航できるか、別の港に転送できるか、あるいは別の外装を被れるかを決める。」


レイチェルがキッチンの入り口に背を預け、両腕を抱え込んでいる。視線は斜め下45度。消え入りそうな、かすかな声。


「……本当に、いるなら。あるのは、噂、だけ……」


「噂で十分じゃ。」エリザヴェータが静かに言った。「真に重みのある人間は、たいてい噂という形で先に存在するものじゃ。」


この女がこういうことを言うとき、会議に出ているんじゃなく、誰にも見えない権力地図に注釈を書き込んでいるような気分になる。


しばらく部屋が静かになった。


二階の古い水道管を水が流れる音が聞こえるくらい静かに。そして部屋の隅では、あの防護ケースが黙って鎮座していた。ナチスの祭壇から持ち出した破片が入っている。俺たちが認めたくないくせに、ずっと持ち歩くしかない病根みたいに。葉 綺安(イェ・キアン)はそのケースの横に立っていた。今日は感情を半分抜き取られたみたいに口数が少なく、ケースには触れず、ただテーブルの地図を見つめながら、低い声でぽつりと言った。


「アントワープとロッテルダムの間に足りないのは、道じゃない。」


全員が彼女を見た。


「みんなが当然のように受け入れている理由が足りない。」彼女は続けた。「なぜこの貨物が一路通過できるのか。なぜ名前を変えられるのか。なぜ保険がそれを引き受けるのか。その理由がまだ言葉にされていない限り、手がかりは手がかりのままよ。」


正しい、と俺は分かっていた。


今手元にないわけじゃない。むしろ多すぎる。割れたガラスが床一面に散らばっているみたいに。でもそのガラスはまだ窓になっていない。ベルギー側の金が洗われているのは分かる。アントワープ側で貨物の名前が替えられているのも分かる。ロッテルダム側にソフィアという人影があるのも分かる。でも三つを一本で貫く軸が、まだない。


軸がなければ、どれだけ手がかりを集めても、それはただの勤勉というだけだ。


勤勉では命は守れない。


林 雨瞳(リン・ユートン)と目が合った。彼女の目が言っていた——あなたも同じことを考えている、と。


だから俺が先に口を開いた。


「神父に電話する。」


希(シキ)は医療箱を片付けていたが、その三文字を聞いた瞬間、手の中の包帯が止まった。


「今?」


「今。」


「肩がまだ滲んでる。」


「神父に電話越しで縫ってもらうわけじゃない。」


「たぶん祈れって言われるよ。」


「あと悔い改めろも。でも今俺が必要なのはアカウントとパスワードだ。」


林 雨瞳(リン・ユートン)は笑わなかった。テーブルの上から最も重要な資料を数枚抜き取り、一束にまとめて俺の手元に置いた。


「電話はいい。」彼女は言った。「ここじゃなく。」


俺は頷いた。


疑い深いわけじゃない、常識の問題だ。ブリュッセルのこの拠点は今のところ安全だが、永遠に安全だと思い込む理由はない。今日の灰色のワゴン車が証明したように、少なくとも誰かが見ている。そして教会のあの神父——最初から最後まで半分本当のことだけ言いながら俺たちと太極拳をやっているみたいな男だが——それでも十分に値打ちのある線だ。こういうときは、熱血より慎重の方が役に立つ。


エリザヴェータが素早く指示を出した。


「妾《わらわ》は残る。林 雨瞳(リン・ユートン)は周 士達(ジョウ・シーダー)に同行して電話させよ。ヴィクトリアは外で周囲を見張れ。他は動くな。」


「俺も行く。」レミが言った。


「お主は行かぬ。」彼女はレミを見もせず言った。「残って今日の港務ノートをもう一度分解せよ。アントワープとロッテルダムの間で、船務代理、再保険ノード、歴史保存協会の名前——どれが重複しているか洗い出すのじゃ。」


「それはもうやってるんじゃ——」


「生き延びる者の仕事ぶりでやり直せ。」


レミは黙った。


エリザヴェータのあの口調で名指しされるのは、間違っているからじゃない。彼女がこれ以上言葉を使って機嫌を取るのを面倒くさがっているだけだ。


十五分後、俺と林 雨瞳(リン・ユートン)とヴィクトリアは外に出た。


夜はもう完全に落ちていた。ブリュッセルの運河沿いの街灯が、汚れた水の中に溶けるみたいに揺れている。風は強くない、でも冷たい。ヨーロッパの都市の夜特有の冷たさ——山みたいに骨まで直接噛みつくんじゃなく、まず襟元と袖口からじわじわ潜り込んで、まだ癒えていない傷口ひとつひとつに挨拶していく。


Vitoには乗らなかった。二ブロック歩いて、目立たない駐車場の脇にある公衆電話ボックスへ。


こんな時代にまだこういうものが残っているとは、歴史というのはなかなか死に切れないらしい。古い映画から引っ張り出してきたみたいな電話機の前に立って、思わず笑いそうになった。バストーニュでは砲火か祭壇のどちらかを相手にしていたのに、今は貧乏な私立探偵みたいに真夜中のベルギーの街頭に立って、神父に公衆電話をかけようとしている。


「何が可笑しいの。」林 雨瞳(リン・ユートン)が聞いた。


「今にも潰れそうな探偵事務所の所長みたいだと思って。」


「所長の器なんてないでしょ。」


「じゃあ俺は何だ。」


「借金持ち。」


こういうときにさらっと刺してくるのが、むしろ安心できる。この山積みの書類と港の噂話に俺たちがまだ狂わされていない証拠だから。


コインは入れなかった。予備機と、必要なときだけ使うSIMカードを取り出す。この番号は以前神父が俺に渡した裏線で、ぶっちゃけて言えば、お互いこんな繋がりは認めたくないときのための勝手口だ。


発信した。


一コール、二コール、三コール。


思ったより早く繋がった。

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