76.ウィーンの深紅の白鳥 76-3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
晩餐のテーブルは長くなかった。だが、席は詰まっていた。
長卓より、このサイズの方が残酷だ。全員の距離が近い。表情を隠す場所がない。銀器は目が痛くなるほど磨かれていて、燭台の炎は低く抑えられ、給仕の足音はほとんど床に届かない。
誰もナイフとフォークに手をつけない。最初の「人を食う」一言が、どこから来るかを全員が待っている。
エレオノーラが上座側に座り、エリザヴェータはその右手。俺はエリザヴェータの隣だ。
この配置が決まった瞬間、テーブルの端に座る古い家名の何人かの顔色が変わった。俺を「随行」として計算に入れていたのだろう。もう、その算段は崩れた。
前菜が運ばれるやいなや、髪を一分の乱れもなく整えた老紳士が先に口を開く。
「殿下の版図初期入札は、行政上の象徴に過ぎないのでしょうか、と伺いたいのですが」
エリザヴェータは食器にも触れない。
「本当に気になっておるなら、『過ぎない』などという言葉は使わぬものじゃ」
男は頷く。刺されて、むしろ満足そうな顔だった。
反対側の金融代表が続ける。
「では、この新しい線を掘り下げていくと——掘るべきでないものに当たることはありますか」
俺は彼を見る。
「あなた方が本当に怖いのは、掘り間違えることじゃない。掘り当てることだ」
グラスを持つ手が、一瞬止まった。
テーブルの空気が変わり始めた。前半は社交の場だった。今は——本当の交渉の前段階に入っている。 問いはもう美しくない。牙が生えている。
年老いた女男爵が、ナイフの先で磁器の縁をそっと叩く。細く、澄んだ音が一つ。
「欧州のこの土地では、地上と地下は、もとより別の帳簿ではございません。多くの家族、多くの政府、多くの戦後基金が——同じ一冊を誰も開かないという暗黙の了解の上に、今日まで生き延びてきた」
そこで彼女は顔を上げ、エリザヴェータを見て、それからゆっくりと俺へと視線を移す。
「あなた方は最近、ずいぶんとよく、そのページをめくっていらっしゃる」
俺は名帖の束を揃えて、テーブルの端に置く。
「以前、誰かが都合のいいページしか開かなかったからだ」
彼女は俺を見て——笑うのをやめた。
テーブルの端で、それまでほとんど口を開いていなかった男が、ようやく声を出した。嗄れた低い声で、何かに聞かれることを恐れているかのようだ。
「それならば、あなた方はもうすぐ、ある名前を耳にすることになる」
誰も引き取らなかった。
エレオノーラでさえ、急かさなかった。
男はテーブルを一巡見渡した。誰がこれを聞く資格を持つか、確かめるように。
そして、一言だけ吐き出した。
「ワイスマン」
その二文字が落ちた瞬間——テーブル全体が、一層沈んだ。
知らない者がいないからではない。
知りすぎているのに、全員が知らないふりをしてきたからだ。
俺はすぐには動かなかった。ただ、その男を見る。
「咳のように言った。それとも、告解のように」
男は俺を無視して、視線を落とす。
「名前というものは、紙の上に残れば商取引だ。人の耳に残れば、災いになる」
エリザヴェータは、ゆっくりと手をテーブルの端に置いた。指先は、微動だにしない。
「じゃあ、回りくどいのはやめようか。誰があいつと帳簿を組んだ?」
すぐには、誰も答えなかった。
燭の火がグラスの内側で揺れ、全員の顔に二重の影を作る。
さきほどの女男爵が口を開いた。さっきより声をさらに落として。
「帳簿ではありませんのよ。門を残したのですわ」
「終戦後、いくつかの旧工業ラインは死ななかった。ただ、名前を変え、株を変え、門番を変えただけ。地上の工場は閉じても、地下の門は閉じられないことがある。ある種の技術は禁じられたのではなく、分割され、隠され、別々の場所に里子に出されただけですの」
そこでようやく、さきほどの金融代表が話を継いだ。
「あなた方が最近追っておられる地籍、鉱業権、収益保全——あれで揺れたのは土地だけではありません」
「ある者たちが買ったのは、鉱山だけでも、設備だけでもない」
「彼らが買ったのは——」
言葉が、そこで止まった。
その単語自体が、このテーブルには載せるべきではないもののように。
俺が代わりに言ってやる。
「死人を使う権利、だろ?」
彼の顔色が、はっきりと変わった。
テーブルのどこかで、フォークが置かれる金属音がした。この静けさの中では、怒鳴り声より耳に刺さる。
エレオノーラは俺を見なかった。だが、ゆっくりと言葉を落とす。
「ウィーンの古い建物の中には、地下室だけやけに頑丈な邸宅がいくつかありますの」
「ワインを隠すためではありませんわ」
その一言で、さっきまで中立の顔を保とうとしていた数人が、ついに本当の表情を覗かせた。
分かった。彼女は底のカードをひっくり返したいわけじゃない。俺のために「枠」を引いているのだ。
——今夜、影の話はしていい。匂いの話もいい。どの扉の向こうに何がいるかを知っている、までなら構わない。
だが「俺たちが何を知っているか」を先に全部テーブルに出せると思うな、というラインだ。
あの名前を口にした男が顔を上げ、俺を見た。
「ジョウさん。これだけは分かっておいた方がいい。あれは普通の地下工場ではない」
「そこに残ったのは、機械だけでも、図面だけでもない」
「人間を材料として扱う、その一揃いの考え方ごと、だ」
テーブルが、さらに静かになった。
俺は少し椅子の背にもたれ、できるだけ声を平らにする。
「俺が一番怖くないのは、それを『技術』と呼ぶ連中だ。自分の頭の中の汚い発想を、そう言い換えてるだけだからな」
男は二秒ほど俺を見つめた。虚勢なのか、本当に怖れていないのか、仕分けようとしている目だった。
そこで、エリザヴェータが口を開いた。凍ったガラスみたいな声で。
「名を口にした以上、残りも半端にして帰るでない」
「やつの金が、どこを経由しておると知っておる者は誰じゃ」
「やつがどの古き家名の殻を借りたのか」
「やつがどの『触れてはならぬ旧い線』に触れたのか」
「今宵ひと言でも真を語れば、後になって妾に門を蹴破られるよりは、まだ体面が立つぞ」
その一言が落ちた瞬間、一番に折れたのは——あの銀縁眼鏡の財団代表だった。
彼はナプキンを丁寧に畳んで膝に置き、ようやく「傍観者」の仮面を外した。
「全部は知りません」彼は言う。「ですが、終戦後の資産整理が、あまりにいい加減だったケースをいくつかは」
「名目上は封鎖された施設が、実際には誰かに『飼われ続けた』例も」
「必ずしもオーストリアとは限らない。一国だけとも限らない」
「切り離された『名前』だけを買いあつめて、それをつなぎ直す役目の者たちがいる」
希が俺のうしろで、ごく小さく息を呑んだ。
俺は振り向かない。目の前の男だけを見る。
「何のためにつなぎ直す?」
彼は一度エレオノーラを見、それからエリザヴェータを見た。
「売れるものに。使えるものに。出所を否定できる形に」
林雨瞳が、ようやく声を出した。氷の薄片みたいな声だ。
「軍需? 闇市? 私兵?」
男は首を振る。
「それらより、よほど厄介です」
「なぜなら、ある種のものは——存在が証明された時点で、それが一件の取引では済まないから」
「一連の戦後秩序そのものを、問い直さなければならなくなる」
「戦後秩序」という四文字が耳に入った瞬間、俺には分かった。テーブルの古い家名たちが、なぜここまで背筋を固くしているのか。
もうこれは、どこかの狂人や、一本の黒いルートの話ではない。
地下に埋められたはずのものを、誰かが"根こそぎ"掘り返そうとしている——その可能性の話だ。
掘り返した後に晒されるのは、罪だけじゃない。
その罪を守った者。
帳簿を合わせた者。
そこから利益を得た者。
全員が、まとめて光の下に引きずり出される。
そこでようやく、エレオノーラがナイフを取った。皿の上の料理を、静かに切り分けはじめる。
「皆さん」彼女は言う。「今夜お集まりいただいたのは、皆様に懺悔していただくためではありませんわ」
「次にこの名が、誰かの口から小声で出た時——あなた方が『聞かなかったふり』を続けるのか。
それとも先に、どの扉に鍵がかかっているか、私たちに教える側に回るのか。——その選択をしていただくためですの」
誰も、その言葉を受けなかった。
だが、俺には見えた。
本当に「陣形を変え始めた」者たちが。
それは口ではない。目線だ。
エリザヴェータの方を見る者。俺の方を見る者。あえてエレオノーラから視線を外し、自分が揺れていると気づかれたくない者。
それで十分だ。
ウィーンという場所は、ここで宣誓をする必要はない。一度でも躊躇を見せれば、その隙間から必ず後日、誰かが入り込む。
俺は手元の名帖の束をもう一度整え、ふと思いついたように問う。
「今夜、この場にいる中で——ワイスマン本人を見たことがある奴は?」
今度の沈黙は、さっきより重かった。
そして、テーブルの一番奥、ほとんど口を開いてこなかった老人が、ゆっくり顔を上げる。
酒にも、料理にも手をつけていない。軋む古い木の扉みたいな掠れ声で言う。
「若い頃の姿は、見ておりません」
「ただ一度だけ見ました。死人が自分で軍服を着込んだような姿を」
その言葉のあと、テーブル全体が静止した。
俺は彼を見つめ、急かさない。
彼は手をテーブルの上に置いた。皮膚は、一枚の古い紙みたいに薄い。それでも指の関節は、しっかりとそこにあった。
「普通の軍人の立ち方ではありませんでした」彼は言う。「直立でもない。きちんとした着こなし、というのとも違う。そういうのではなく……一度死んだ者が、"まだ他人を死なせる権利がある"と信じて戻ってきたかのような、そんな立ち方でした」
燭の炎が、彼の顔の半分を押し潰し、その言葉を地の底から引き上げてきたものみたいに見せる。
誰も、口を挟まない。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




