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第十二章:|永久凍土《パーマフロスト》 ―― 地蔵王の介入

予想していたような地鳴りは起きなかった。馬三娘(マー・サンニャン)のあの気炎万丈な咆哮の後、ハリウッド映画のように鬼兵の群れがド派手に地面を割って現れる……俺はそう思っていた。

 だが、現実は違った。

 代わりに聞こえてきたのは、ホテルの通路の至る所から響く、衣擦れのような微かな音だった。

 最初は、空調のノイズか、あるいは凍りついた配管が熱膨張で軋んでいるだけかと思うほど、それは静かだった。

 それが、近づいてくる。

 一方向からではない――全方位からだ。あらゆる廊下、あらゆる出口、氷に閉ざされた非常扉の向こう側に、その「音」はあった。鋼が鋼と擦れ、革が凍土を踏みしめる。そして、形容しがたい臭い――血でも硫黄でもない、もっと古く、湿った、数百年前の戦場が雨季を越えた後のような、(つち)の気配が。

 左側の廊下の闇から、第一陣の陰兵(いんぺい)が足を踏み出した。

 続いて右側から。

 正後方から。

 二階から、三階から。ロビーの、人間が立てるあらゆる隙間を埋め尽くしていく。

 奴らは急いでいない。それが最も、こちらの膝を笑わせる要因だった。――急ぐ必要など、どこにもないのだから。

 エリスリード(Astrid)の右足が、わずか半歩、後退した。

 たった半歩。すぐに彼女は踏みとどまり、赫瓦格(クヴェルゲルミル)を握り直した。顔の動揺は一瞬で消えた。だが、あの半歩は間違いなく真実だった。俺はこの目で見た。

 誰も口を開かない。

 その死寂の中で、ホテルの西側の耐力壁が――「動き」始めた。

 倒壊でも、粉砕でもない。壁の表面がゆっくりと透明になり、霜の降りたガラスに誰かが息を吹きかけたかのように透けていく。壁の中に、何かがいた。ずっとそこにいたものが、今、姿を見せることに決めたのだ。

 まずは輪郭。二つ、四つ、そして八つの巨大な影。水に滲む墨のように、それは曖昧に揺れていた。

 続いて、音――。この世のものとは思えないほど重厚な車輪の軋みと、獣が吐き出す荒い呼吸音。

 四頭の戦馬が、壁から歩み出てきた。

 壁を通り抜けるのではない。水面から浮かび上がるように、壁の残像を体に纏いながら、それらは凍土の上に完全な姿を現した。瞳には幽霊火(ゴースト・ファイア)が燃え、吐き出す息は黒い。

 その後ろから、二丈(約六メートル)はあろうかという攻城塔(ボア・タワー)が押し出されてきた。緩慢に、悠然と。その塔が壁を透過する様は、濃霧に指を差し込むかのようだった。塔の頂には長弓兵が微動だにせず立ち、中央には一振りの擂鼓(らいこ)が据えられている。

 ――バチは、まだ振り下ろされていない。

 ホテルの中にいる誰もが、最初の一言を発する勇気を持てずにいた。

 馬三娘がゆっくりと口を開く。その声には、数千年の時を重ねた威圧感が宿っていた。

「……汝ら洋人、我が東方の地を踏みながら、陽間の府司(ふし)にも挨拶せず、陰間の判府(はんぷ)にも通じぬとは、何用か? ――無知ゆえの無礼は許そう。だが、この聖域で刃を振るい、王法(ほう)を蔑ろにするその心、断じて容赦はせぬ!」

「私はただ、自国の所有物を回収しに来ただけです」

 エリスリードはこの絶望的な状況にあっても、一歩も引いていなかった。彼女は剣を握りしめたまま、外交文書を朗読するかのような明快なトーンで言い放つ。

 俺はこっそりと老沈ラオシェンの袖を引き、声を潜めた。

「……おい。これ、マジでやり合うのか? 本当に開戦しちまったら、外交部がデンマーク政府に訴えられて死ぬぞ」

 老沈は生ける屍のような顔で手を振った。「……もう、止められる段階は過ぎたよ。彼女がその気なら、我々は死なば諸共だ。……せめて、損害がこのホテル一棟で収まることを土地公(神様)に祈るしかない」

「……違いない」

 俺は肩をすくめ、最後の一本の煙草に火をつけた。

 ロビーの中央。呼吸することさえ痛みを伴うほどに張り詰めた空気。

 陰森たる府兵(ふへい)の海を前に、エリスリードはなおも傲岸なまでに立ち尽くしている。その時、先頭の将校が手を挙げた。

 響き渡っていた地鳴りのような余韻が、嘘のように止まった。

 数名の高級将校たちが氷霧を切り裂いて現れ、馬三娘(マー・サンニャン)の前で一糸乱れぬ動作で片膝を突いた。

「末将、幽冥内衙(ゆうめいないが)・左右翼営指揮使。兵を引き連れ、大都督だいととくをお守りいたします!」

「末将、黄泉巡防(こうせんじゅんぼう)・第一歩軍統制。大都督に謁見いたします!」

 最後に、二階の高台を占拠していた狙撃手の一人が音もなく飛び降り、階下へ向かってその名を轟かせた。

「末将、領軍強弩(りょうぐんきょうど)都統制。大都督に参じました!」

 三つの名乗りが落ちた後、ロビーは一瞬の静寂に包まれた。

(おいおい……馬三娘の野郎、喧嘩のたびにこんな大層なパレードを用意しやがって)

 俺が呆れ半分に弩手どしゅたちの軍勢を眺めていた、その時だ。

 凍土の寒気に煽られ、ピンと張り詰めた軍旗――。

 そこには、ただ一文字。龍が舞うような力強い筆致でこう記されていた。

「――(ガク)

 俺は三秒間、その文字を凝視した。

 岳家軍(がくかぐん)。精忠報国。冤罪による刑死。……魂はどこへ還るのか。

 そうか、ここだったのか。死してなお、この男たちは戦い続けている。あの文字を掲げ、別の世界の戦場で、終わりのない戦争を継続しているのだ。

「……大したもんだ」俺の声は、予想よりも低く響いた。「馬三娘の面子ってのは、岳家軍まで引っ張り出せるほどデカいのかよ」

 そんな軽口を叩いて、胸の奥に溜まった正体不明の重圧を無理やり押し下げた。

「最後に一度だけ機会をやる」

 馬三娘はエリスリードを冷徹に見据え、長槍を掌で一振した。

「本座は――北陰酆都(ほうと)より封じられ、外牙巡検司を統べ、五営の精鋭を掌握する大元帥、馬三娘なり! ここは我が華夏の地。貴様ら北極の寒霧が穢してよい場所ではない。……刃を向けるというなら、我が神臂弩(しんぴど)の陣が、その銀剣を粉塵に変えてくれよう!」

 槍先から迸る陰気(いんき)が周囲の氷霜を強引に押し戻す。背後の兵たちが一斉に地を踏み、鎧の擦れる音が雷鳴となってロビーを震わせた。

 ――擂鼓(らいこ)が轟く。

 その鼓動は死者にしか解らぬ律動を刻み、肋骨の芯まで痺れさせる。耳ではなく、存在そのもので感じる地響き(ノイズ)

「――放て(シュート)ッ!!」

 黒い令旗(フラッグ)を掲げた甲士が、力強く腕を振り下ろした。

 数千、数万の神臂弩(しんぴど)が同時に放たれた。それは矢の飛ぶ音ではない。数多の怨魂が一斉に喉を鳴らし、命を啜りに来るかのような絶叫(ハウル)。それは密実な雨となって、エリスリードを呑み込もうとする。その威力、霊魂ごと壁に縫い付けんばかりの苛烈さだ。

 だが、エリスリードは眉一つ動かさない。

 銀の細剣を優雅に翻し、目前に半月状の円弧を描く。それは死を招くワルツのような洗練された剣技。迫り来る矢の奔流は次々と一刀の下に両断され、砕かれた矢羽と断桿(だんかん)が冷光の中で虚しく降り積もっていった。

 遠距離攻撃の効果が薄いと見るや、馬三娘は冷ややかに鼻を鳴らし、右手を微かに上げた。

 ――矢の雨が、止まる。

酆都内衙(ほうとないが)第一守備営、列陣(陣を組め)!」

 錆びついた黒鉄の札甲を纏い、半人ほどの高さがある鬼面玄鉄の重盾を構えた甲士たちが、霧を裂いて躍り出た。その盾は防具というより、移動する「城壁」だ――一面ごとに刻まれた未知の符文が、冷徹な燐火の下で禍々しく光る。戦鼓の律動が変わると同時に、この老兵(ベテラン)たちは雷鳴のような咆哮を上げ、重盾を氷の床に叩きつけた。その衝撃は頭上のシャンデリアを激しく揺らし、天井から氷の欠片が雨のように降り注ぐ。

「――長龍陣(ちょうりゅうじん)てッ!!」

(ハッ)!!」

「――槍を出せ(アタック)!!」

 刹那、黒いはたをなびかせ、穂先に幽緑の燐火を宿した無数の長槍が、重盾の隙間から毒蛇の如き速さで突き出された。整然と、そして無音。背筋が凍るようなその連携――この男たちは一体何年、共に戦場を駆ければこれほどの練度に達するというのか。

 これぞ地獄の鉄壁戦法(アイアン・ウォール)。盾で寒氷を凌ぎ、槍で退路を断つ。

 さしものエリスリード(Astrid)も、この宋代の老兵たちによる組織的な波状攻撃には、一時的に攻めあぐねていた。

(いいぞ……。次、大宋の国力が弱いなんて抜かす奴がいたら、俺がこいつらと一緒にぶっ飛ばしてやる)

 俺は心の中で快哉を叫んだ。

 すでにロビーは核実験の爆心地のような惨状だ。床の氷は砕け、大理石の柱は半ばから折れ、天井からは断線したケーブルが冷風に揺れている。

 そんな中、老沈(ラオシェン)がどこからかポップコーンの袋を取り出し、俺に差し出してきた。

 俺はそれを受け取ると、脚の折れかかった椅子を引っ張ってきて、入り口付近で堂々と腰を下ろした。凍りついたポップコーンを噛み砕く音は、まるでガラスの破片を食っているようだ。

「ったく、派手にやりすぎだろ……」

「陣を上げろ!」

 馬三娘の長槍が横に払われると、左右の影が同時に爆ぜた。――二メートルを超える背嵬大斧手はいかい・アックスマンの群れが、咆哮と共に殺到する。大気を断つ長斧の唸りは、足の裏が痺れるほど重厚だ。それは武器を振るう音ではない。数百年の怒りを蓄積させた何かが、ようやく出口を見つけた時の「咆吼」だ。

 同時に、天井の残骸から数十人の捉魂校尉(ソウル・キャプチャー)が降り立ち、漆黒の勾魂鎖(こうこんさ)が空間を埋め尽くす死の網を編み上げる。鎖の一節一節から染み出す冷光は、冬の河面を照らす月光のように冷え切っていた。

「――鎖霊(ソウル・ロック)破陣(ブレイク)ッ!!」

 エリスリードの顔に張り付いていた、あの鉄面皮(ポーカーフェイス)が、ついに剥がれ落ちた。

 それは恐怖ではない。――激越なる「怒り」だ。

 彼女は細剣を高く掲げた。銀色の光が刃の上で沸騰し、中から何かが突き破ろうとしている。

「……湧き出でる泉の初、霧氷の源。十一の氷河より来る憤怒を、此処に集めよ――」

 彼女の声が低く沈む。それは、現世の者が決して聞いてはならない禁忌の言霊。

「震えなさい、湿熱に迷える魂たちよ。極北の慈悲を、その身に刻みなさい」

「――解放(リリース)! 『極光の処刑人・赫瓦格(クヴェルゲルミル)』!!」

「まずい! 周士達ジョウ・シーダー、遊んでる場合じゃない、逃げろ!」

 アピス(Arpis)が俺の肩から頭上へと飛び移り、必死に髪を引っ張った。その声には、本物の絶望が混じっている。「あの女、狂ったぞ! 永久凍土(パーマフロスト)を展開する気だ! 逃げろ、死ぬぞ!!」

 エリスリードが、その剣先を床へと、力強く突き立てた。

 流動していた銀光が、その瞬間に凝固した――。直後、それは深藍色の衝撃波へと変貌し、剣先から外周へと狂ったように拡散を始める。まるで巨大な心臓の鼓動だ。一度打つごとに、より大きく、より冷たく、より深い絶望を撒き散らしながら。

 俺の社畜としての危機察知能力(アラート)が最大音量で鳴り響いた。

 ポップコーンを投げ捨て、隣にいた雨瞳(ユートン)をひっつかむと、俺は脱兎のごとく後方へ全速力で駆けた。

終焉の冬の静寂フィムブル・ヴィンテル・永久凍土・ニヴルヘイム(Niflheim)

 その瞬間、俺は感じた。半径百メートル以内のあらゆる物質――空気中の水分、躍動する霊体、さらには「時間の流れ」という体感までもが、強引に停止ボタン(ポーズ)を押し込まれたのを。

 世界が、静寂に包まれた。

 深夜の静まり返った街のような静寂ではない。――「すべてが死に絶えた」場所だけが持つ、虚無の静寂だ。

「……終わったよ」

 アピス(Arpis)が俺の肩で力なく項垂れ、遺言のような小さな声で零した。「交渉の余地(パッチを当てる余地)なんて、もう一ミリも残ってない」

「こいつは、そんなにヤバい技なのか?」俺は肩で息をしながら尋ねた。

「彼女は『霧の国(ニヴルヘイム)』の環境を召喚したんだ」

 アピスの声にはもはや芝居がかった響きはなく、それが逆に俺の不安を煽った。

「それは宇宙の原初に属する禁忌の門だ。決して開いてはならないパス――。彼女は、それを開けちまったんだよ」

「俺は北欧神話には疎いんでな。その『霧の国』ってのが一体どう――」

 アピスは「お前は正真正銘の馬鹿か」という顔で俺を見つめ、一文字ずつ噛みしめるように言った。

「……この拡張速度なら、一週間後には台湾全土が巨大な氷のデッド・データになる」

 俺は三秒間、沈黙した。

「……クソが」

 視界に広がるのは、完全なる銀世界だった。馬三娘(マー・サンニャン)が召喚した重装陰兵たちさえも、今や芸術的な氷像(オブジェ)と化している。これはもはや戦闘ではない――。エリスリード(Astrid)という女は、物理的な意味で世界の境界線を書き換えようとしていた。

 俺の肩でアピス(Arpis)が壊れたミキサーのように震え、「死ぬ、かき氷になる」と自分への弔辞をブツブツと唱えている。

 だが、暴風雪の中心に立つ馬三娘の瞳は、エリスリードの氷よりも冷徹で、決絶とした光を宿していた。彼女は緩慢に手を伸ばすと、懐から漆黒の鎖に縛られ、暗赤色の微光を放つ令牌(れいぱい)を取り出した。

 その令牌が現れた瞬間、周囲の凍土が、熱した油に氷を放り込んだような激しい音(ノイズ)を立てて蒸発し始めた。

「老沈……あれは何だ?」俺は唾を飲み込んだ。奥歯の根が浮くような圧迫感だ。

「あれは……『業火紅蓮令(ごうかぐれんれい)』だ」老沈(ラオシェン)の顔面は紙のように白く、声は震えていた。「あの馬鹿、地蔵王(じぞうおう)の刑具を盗み出しやがったのか!? 北欧の神代と心中する気かよ!」

「異邦人よ。貴様が此処を氷封するというなら、本座は貴様に焦熱地獄(しょうねつじごく)を返してやろう」

 馬三娘が令牌を長槍に擦りつけた瞬間、網膜を焼き切らんばかりの暗赤色の業火――前世から来世、因果の輪廻さえ焼き尽くす阿鼻業火(あびごうか)が爆発した。業火と永久凍土。両極端な力が大厅の空気を引き裂き、空間そのものが悲鳴を上げ、崩壊の限界を迎えようとしていた。

周士達ジョウ・シーダー!」馬三娘が叫ぶ。「今のうちにこの霧を焼き払う! 貴様はあの女の細剣を奪い取れ!」

(……クソが、なんでまた俺なんだよ。こんな神々の喧嘩に割り込んだら、消し炭か冷凍肉になるかの二択だろうが!)

 世界を再構築しうる二つのエネルギーが衝突し、空間がガラスのように砕ける直前。

 ――すべての音が、消えた。

 針の一本が落ちても聞こえるほどの、絶対的な静寂(サイレンス)

 目を開けると、エリスリードの銀剣と馬三娘の長槍は、わずか一寸の距離で空中に固定されていた。目に見えない防弾ガラス(バリア)に阻まれたように、一分一厘も動かない。

 そこへ、古びた僧衣を纏った小柄な老僧が、ロビーの脇からゆっくりと現れた。

 手には湯気を立てる素麵線(ソーメン)の袋。足元の藍白拖(青白サンダル)が、静まり返った氷の上で「パタ、パタ」と小気味よい音を立てる。

「衆生度尽、方証菩提。地獄不空、誓不成仏――」

 彼が静かに唱えた佛号は、冬の陽だまりのように温かく、ロビーに満ちていた陰気と冷気を一瞬で溶かし去った。

 エリスリードの顔色が変わる。最強の魔剣赫瓦格(クヴェルゲルミル)の力が、慈悲深くも揺るぎない意志によって強制的に鞘へと押し戻されたのだ。一方、先ほどまで大元帥(だいげんすい)の威厳を放っていた馬三娘は、その場に崩れるように膝をついた。暗赤色の業火は、主を前にした飼い犬のように令牌の中へと縮こまった。

 台湾人なら、この御方の名を識らぬ者はいない。

 これこそが幽冥教主(ゆうめいきょうしゅ)――大願地蔵王菩薩だいがんじぞうおうぼさつ

 その場にいた全員が、抗う術もなく「シュタッ」と一斉に跪いた。冗談じゃない、牛頭馬面を「レベル1」とするなら、この御方は「レベル999」のシステム管理者だ。跪かない方がどうかしている。

 老僧は馬三娘に歩み寄ると、床に落ちた令牌を「本当に困った子だ」という顔で拾い上げた。

馬一春(マー・イーチュン)よ。殺生を犯すなと何度言えばわかるのだ? 数百年も修行しておきながら、これほど短気とは。あまつさえ陽間で阿鼻の獄火を放とうとするなど……」彼は令牌を袖に収め、溜息をついた。「……後で反省文を書くように」

「じ、地蔵様……」馬三娘の声は、聞き取れないほど震えていた。

 老僧は満足げに微笑むと、今度は俺の方へと歩いてきた。

おい、嘘だろ? 俺までお呼び出し(デバッグ)かよ。

「君が周士達(ジョウ・シーダー)だね? 最近、現場ボトムじゃかなり有名人じゃないか」

 老僧はニコニコと笑いながら、手に持っていた素麵線の袋を俺に預けた。それから懐を探り、何の変哲もない古びたお札を取り出すと、俺の掌にそっと載せた。

「袖振り合うも多生の縁だ。これを持っておきなさい。少しは役に立つはずだよ」

 彼は素麵線を受け取ると、俺の耳元で、誰にも聞こえないほどの低い声で囁いた。

「――|山雨来たらんと欲して風楼に満つ《嵐の予感だ》。近頃は、身辺に十分気をつけなさい」

「……いっそのこと、俺をこのまま連れて行ってくださいよ。阿鼻地獄での永住、自ら志願しますから」俺は泣きそうな顔で訴えた。

「ははっ、そうはいかないよ」彼は目を細めて笑った。「安心しなさい。君のことは、私が長命百歲(ちょうめいひゃくさい)まで保証してあげるからね」

 老僧は素麵線を提げ、藍白拖サンダルをパタパタと鳴らしながら、消えゆく霧の向こうへと消えていった。

 ……パタ、パタ、パタ。

 やがて、何も聞こえなくなった。

 俺は手の中のしわくちゃなお札を見つめ、それから解体工事の途中のような惨状と化したSホテルのロビー、そして意識を取り戻して呆然と自分の手を見つめる国民的アイドル(葉綺安)を交互に見た。

「長命百歳、か……」

 俺はその四文字を苦く噛み締め、毒づいた。

「……この世で最も、おぞましい呪いじゃねえか」

「さて、戦犯(ラスボス)さんよ」

 俺は勾魂鎖(こうこんさ)で簀巻きにされたエリスリード(Astrid)の前に屈み込み、寒気と屈辱で青ざめたその顔に、わざとらしく優しく囁いた。

 彼女の蒼い瞳が俺を射抜く。……視線で物が凍るなら、俺は今頃粉々になっていただろう。

老沈(ラオシェン)から面白いものを受け取ったぞ、エリスリードさん」

 俺は不敵な笑みを浮かべ、プリントアウトされたばかりのデンマーク王室の家紋入り電報を彼女の鼻先に突きつけた。

「お前の国の王室が、光速で全世界に声明を出したぞ。曰く、『お前の派遣など知らない』。さらに『三ヶ月前に精神疾患で解雇済み』だそうだ。……いやはや、見事な切り捨て(トカゲの尻尾切り)だな。お前の影すら追いつけない速さだ」

 電報の黒い文字が、無慈悲に並んでいた。

『エリスリード・ローゼンバーグの行為は、純なる個人の暴走であり、デンマーク王国とは一切の関わりを持たない』

 エリスリードの体が、絶望に硬直した。黒い傘を握りしめる指先が、白を通り越して死人のような色に変色していく。国のために守護精霊を奪還しようとして、台北のボロホテルで命を懸けた結果がこれだ。――故郷でワインを啜っている政治家どもに、背後から奈落の底へ突き落とされたわけだ。

「つまり、これって……」

 薄情なチビ野郎、アピス(Arpis)が俺のポケットから這い出し、拍手喝采しながら嘲笑った。

「エリスリード、お前は国際指名手配犯だ! ぎゃははは! 寒ったらしい北欧にはもう帰れないな! これからは僕と一緒に、ここでアイスを死ぬほど食い続ける生活の始まりだ!」

「「黙れ、アピス」」

 俺とエリスリードの声が完璧に重なった。

 一秒間の沈黙。

 ……結局、元を辿ればこのチビが勝手気ままに密航バックドアしてきたのが原因で、一国の精鋭執行官が失業者ニートに転落したわけだ。

「さて、現状を整理しようか……」

 俺は立ち上がり、地蔵様から貰ったしわくちゃのお札を弄びながら、倒産企業を買い叩く悪徳ブローカーのような口調で告げた。

「このビルは、もう取り壊して建て直すしかなさそうだ。中正区の超一等地の営業損失に修繕費……安く見積もっても数十億は下らないだろうな」

 俺は楽しげに彼女を観察し、そのプライドの残骸を粉々に砕くための、最も卑劣な言葉を選び取った。

エリスリード(Astrid)さん。今のあんたはただの『精神疾患を抱えた一般人』だ。その辺の裏路地で一生体を売ったところで、このホテルの修繕費(デバッグ代)は返せやしないぞ」

「あなた……一体、何を企んでいるの」

 エリスリードは歯の隙間から声を絞り出した。屈辱のあまり、その蒼い瞳の端が赤く滲んでいる。

「だが、あんたは運がいい。俺に出会ったからな」

 俺は彼女の周りをゆっくりと歩き、両手を広げて、ブラック企業の経営者が新人に夢を語るようなポーズを決めた。仕方ないだろ。これほどの戦力を私物化(リソース化)できれば、莫大な利益アドバンテージになる。毎回馬三娘(マー・サンニャン)の降神に頼るわけにはいかない。プランBは必須だ。

「俺は実力至上主義だ。強ければ、過去なんてどうでもいい」

「私を……買収するつもり?」

 拘束されたまま、彼女は獣のような目で俺を睨みつける。まるで俺が純真な乙女をいたぶる悪党になった気分だ。

「買収じゃない」俺は訂正した。「『適材適所』だ。ついでにあんたの債務危機も解決してやろうって話だよ」

「……好きにすればいいわ」

 エリスリードは空気が抜けた風船のように力なく横たわり、俺に背を向けた。その生ける屍のような姿は、市場の軒先に並べられた「冷凍マグロ(フローズン・ツナ)」そのものだった。

 分かってる。こいつはただ強がっているだけだ。その姿を見て、俺はかつての自分を――逃げ場を失い、すべてを切り捨てられ、それでも頭を下げることだけは拒んだあの頃の自分を、微かに重ねていた。

 俺は瓦礫を片付けていた内牙(ないが)の鬼兵に手招きをした。

「おい、そこの二人。丁寧に頼むぞ。この『元・国宝』を俺のチャレンジャーの後部座席に運んでくれ。――いいか、シートを汚すなよ。修理代が高いんだからな」

(はっ)!」

雨瞳ユートンお姉様! 周士達の野郎がまた女を連れ込みましたよぉ!」

 運転席に滑り込むなり、あの腰巾着(アピス)がポケットから這い出し、助手席に向かって告げ口を始めた。マジでこいつ、マフラーに突っ込んでやりたい。

「……真面目な話だぞ」

 俺はハンドルを強く握りしめた。掌の汗でレザーが滑る。エンジンをかけず、ただ前方だけを凝視した。

「俺はあいつの能力を買ったんだ。純粋な戦術的判断だ。それ以上でも以下でもない」

「え? 私は何も言ってないわよ」

 林雨瞳(リン・ユートン)の口調は死んだ池のように平坦だった。瞼一つ動かさず、まるで自分とは無関係な公務について語るかのようだ。

「どうせ私たちはとっくに別れてるし。私はただの卑小な、発言権すら持たない『元カノ(エクス)』に過ぎないもの……」

 終わった。こいつ、マジでキレてやがる。

「おい、そこが問題なんだよ」俺は盛大に白目を剥いた。「普通、元カノってのは『信じてるわ』とか言うか、せめて沈黙を守るもんだ。そんな風に陰陽怪気(ネチネチ)と攻めるもんじゃないだろ」

 俺は意を決してキーを捻った。チャレンジャーのV8エンジンが、地獄を凍結させかねない車内の冷気に怯えるように、不安げな咆哮を上げた。

「……いいか、よく聞け。後ろのあの簀巻き(マグロ)は北欧神代クラスの戦力なんだぞ。万が一、馬三娘がガス欠(リタイア)した時のための保険だ。雨瞳、これはすべて国家の大局のためなんだ。分かるか?」

 熱弁を振るううちに、自分でも少し感動してきた。愛国心に溢れる悲劇のヒーローを演じている気分だ。

「……へぇ。国家の大局、ね」

 雨瞳がゆっくりと首をこちらへ向けた。まずバックミラーで、勾魂鎖(こうこんさ)に縛られたエリスリードを冷たく一瞥し、次に後部座席で目を覚まし、呆然と目を擦っている葉綺安(イェ・キアン)を視界に入れた。

「つまり、あなたの言う『国家の大局』の定義は、身長一七五センチ、金髪碧眼、ついでに降臨待ちの国民的アイドル……ってわけね」

 彼女は一拍置き、致命的な一撃を放った。

「周士達。あなたの愛国心って……随分と波濤(ダイナミック)なのね(大きいわね)」

 その毒素(皮肉)がフロントガラスを突き破らんばかりに充満した。

 ルーン文字の学術的研究だの、地脈の平衡だの、いくらでも言い訳は思いついたが、俺の魂の深層にある「男の業(下心)」を見透かしたような彼女の冷ややかな眼差しを見て、俺は沈黙こそが唯一の生存戦略だと判断した。

 俺はアクセルを床まで踏み抜いた。チャレンジャーは激しいタイヤスモークを残し、Sグランドホテルの車道を猛然と飛び出した。


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