第22話 三つの道は、またどこかで
カレドの町が見えなくなってからも、気分はすこぶるよかった。
朝から歩き続けているというのに足は少しも重くない。街道脇に咲く名も知らない花まで、今日はなかなか可愛らしく見える。
それも当然だ。
思い返せば、実に楽しい町だった。
「ふふ。今思い出しても、あの領主の息子のお顔は傑作でしたわね」
「いきなりそこからですか」
隣を歩くエルンが、早くも嫌そうな顔をした。
「あれだけ偉そうになさっていたのに、最後には親子揃って縄付きですもの。おじ様のお顔もよかったですわね。エルンがセドリックの脚を片手で止めた時なんて、目が落ちそうでしたわ」
「ダリアさんも丸くしてましたよ」
「あら。見間違いですわ」
「絶対違います」
余計なところを見ている。
「それにしても、あなたもずるい方ですこと。あれだけ『戦いたくありません』と逃げ回っておいて、最後には拳一つでどーん、でしょう?」
「何がずるいんですか」
「まだ何か隠していそうで」
ちらりと横を見ると、エルンが露骨に視線を逸らした。
「……何もないですよ」
「まあ。今ので怪しくなりましたわね」
「なんでですか!」
やっぱり面白い。
最後にはオルレアまで現れた。あれほど分かりやすくエルンへくっついて見せるのだから、少しくらいからかいたくもなる。
「オルレアさんも可愛らしい方でしたわね」
「ダリアさんが余計なこと言うから怒ったんですよ」
「あら。半分くらいは微笑ましく見ていただけですわ」
「残り半分は?」
「秘密ですわ」
エルンが深いため息をついた。
「僕はもう、ああいう町はごめんです。次は普通に商品を売って、普通に宿に泊まって、普通に町を出たいです」
「せっかく知らない町へ行くのに、何も起こらなかったら損ではありませんの?」
「何も起こらない方が得なんです」
「まあ。商人らしいこと」
「商人ですからね!」
そうだった。
ときどき忘れる。
前には街道がどこまでも続いている。その先には、まだ知らない町も人もいる。
さて、次は何が待っているのかしら。
「強い剣士でもいれば嬉しいですわね。それとも大盗賊? 見たこともない怪物も悪くありませんわ。今度はもう少し斬りやすい尻尾だと助かりますけれど」
「僕は全部いない方が助かります」
「では町中を巻き込むような大騒ぎ――」
「嫌です」
「まだ言い終わっておりませんわよ」
「言い終わる前に止めないと、本当に起きそうなので」
「あら。わたくし、そんなに運がよくて?」
「逆です!」
思わず笑ってしまう。
次は何が出てくるのだろう。
強い相手でも、変わった相手でも、見たことのないものなら大歓迎だ。それにエルンなら、また涼しい顔でとんでもないことをやってくれるかもしれない。
「ねえ、エルン。次はあなたも、もう少し最初から――」
返事がない。
「……エルン?」
隣を見ると、さっきまであった緑色の頭が消えていた。
立ち止まって振り返り、少し戻ったところで街道が二つに分かれていることに気づく。
「……まあ」
やられた。
わたくしが次の町のことを考えている間に、別の道へ逃げたらしい。
「もう! 一言くらい声を掛けてもよろしいでしょうに」
頬が勝手に膨らむ。
もっとも、声を掛けられていたら、そのまま同じ道へ引っ張っていった気もする。エルンもそれくらいは分かっているのだろう。
少し腹立たしいくらいには賢い。
しばらく分かれ道を睨んでいたが、そのうち可笑しくなってきた。
「逃げ足だけは、本当に一流ですこと」
まあ、いいでしょう。
あの人のことだ。平和な町を選んだつもりで、また騒ぎの真ん中にでも立っているに違いない。
その時にまた会えばいい。
「次は、逃がしませんわよ」
どちらへ消えたのかも分からない緑色の背中へそう言い残し、軽い足取りで自分の道へ向き直った。
◇
街道が二つに分かれたところで、僕は迷わず左へ曲がった。
しばらく歩いてから後ろを確かめてみる。
ダリアさんはいない。
「……よし」
ようやく肩の力が抜けた。
別に嫌いなわけじゃない。助けてもらったことの方が多いし、一緒にいて退屈しない人だとも思う。
ただ――退屈しなさすぎる。
あのまま次の町まで一緒に行ったら、本当に賞金首か盗賊団を見つけそうだった。いや、ダリアさんが見つけなくても、向こうから寄ってくる気さえする。
「僕は商売がしたいだけなんだけどなあ……」
肩から下げた鞄を掛け直し、自分の前に伸びる道へ目を向けた。
それでも、カレドで過ごした時間が全部悪かったわけではない。
町を出る前に《ボルク商店》へ寄った時、ボルクさんはずいぶん久しぶりに肩の力が抜けたような顔をしていた。
『領主が捕まったって聞いた時は、耳を疑ったよ。これで少しは商売がしやすくなる。町に寄りつかなくなった連中も、そのうち戻ってくるだろ』
そう言って笑った顔は、最初に会った時よりずっと明るかった。
そして、そのまま僕の鞄へ目を向けた。
『で、まだ商品は残ってるか?』
『ありますけど』
『なら、もう一度見せてくれ』
最初に商談した時より、ずいぶん勢いがいい。
薬草を広げれば一束、二束と脇へ寄せ、干し肉を出せば前より多めに取る。北方の酒まで一本持ち上げ、瓶を朝日に透かして眺めていた。
『こんなにいいんですか?』
『祝いだ、祝い』
ボルクさんは笑いながら酒瓶を帳場へ置いた。
『それに、町がまともになりゃ人の出入りも増える。行商人も戻るし、客だって今より金を使うようになるだろ。今のうちに少しくらい多めに仕入れといて損はない』
商人らしい。
祝いと言いながら、ちゃんと先のことまで考えている。
僕としてもありがたかった。
ところが、それだけでは終わらなかった。
『北の商品を売ってる若い行商人って、あんたか?』
店の入口から顔を覗かせたのは、近所で店をやっているらしい男だった。
『はい』
『北の油があるって聞いたんだが』
『海獣油ならありますよ』
『見せてくれ』
続いて別の店の人までやってくる。
『辛い干し肉ってのはまだ残ってるか?』
『あります』
『牙細工も持ってるって聞いたぞ』
『少しなら』
気づけば《ボルク商店》の中で、ちょっとした商談会みたいになっていた。
鞄から商品を出して、説明して、値段を聞かれて、また別の商品を出す。
海獣油は屋外で使いたいという店へ。
牙細工は旅人向けの珍品を探していた雑貨屋へ。
干し肉を試した人には、もちろん北方の酒も勧めた。
『これ、酒が欲しくなる味なんですよ』
『お前、それ前にもやってたな』
横でボルクさんが笑う。
『売れましたから』
『少し商人らしくなったじゃねえか』
『少しだけですか?』
『そこは自分で考えろ』
全部が全部、高く売れたわけじゃない。
領主が捕まった祝いだからと、値段を上乗せしてくれたわけでもない。
それでも、みんなの顔は明るかった。
これから客が戻る。
人が増える。
町でまた商売ができる。
そんな話をしながら商品を選ぶ人たちを見ていると、少しだけ不思議な気分になった。
町が良くなるというのは、こういうことなのかもしれない。
誰かがいきなり大金持ちになるわけじゃない。
でも、明日は今日より少し売れるかもしれないと思える。
それだけでも、財布の紐は少し緩むらしい。
店を出る頃には、肩の鞄がずいぶん軽くなっていた。
代わりに財布は、ちゃんと重い。
町でも似たような話を何度か聞いた。急に暮らしが豊かになるわけではないけれど、無茶な取り立てや領主の息子に怯えなくてもよくなるだけで違う、と嬉しそうに話す人もいた。
《葡萄樽亭》も、もう修理が始まっている。
壊れた椅子や机を片づけながら、店の人は「直したらまた来てくれ」と笑っていた。
町というのは、意外としぶとい。
「まあ、いい商売だったかな」
利益だけなら、もっといい町もあるだろう。
でも、商品を買ってくれた人の顔まで思い出せる商売は嫌いじゃない。
オルレアを迎えるためにはまだまだ足りない。それでも、少しくらいは前へ進んだはずだ。
「次の町でも、いい商売ができるといいな」
珍しい品が売れて、いいお客さんに会えて、ちゃんと利益が出る。
それくらいで十分だ。
できれば衛兵にも追われず、領主館にも忍び込まず、化け物も出てこなければ、もっといい。
そんな次の町を思い浮かべながら、僕は少しだけ足を速めた。
◇
数日後。
俺はカレドの馬車乗り場で、久しぶりに心の底から晴れやかな気分を味わっていた。
面倒な引き継ぎは終わった。ヴァルター親子の身柄は正式に押さえ、東倉庫も封鎖した。黒装束の連中については、王都から来た連中へ引き渡せばいい。
報告書も出した。
あれを書くのはセドリックと戦うよりしんどかったが、とにかく出した。
「これだけやりゃ、さすがに評価されるだろ」
ベンチへ深く腰掛け、腕を組む。
悪徳領主の不正を暴き、軍用品の不正まで発見。正体不明の組織の存在も掴み、領主本人まで無事確保した。
こうして並べてみると、我ながら大したものだ。
途中で賞金首に助けてもらったとか、行商人がドラゴンだったとか、その婚約者が領主館を壊したとか、その辺は細かい話なので脇へ置いておく。
棚というものは、こういう時にも役に立つ。
「ひょっとして、左遷もこれで終わりじゃねえか?」
口元が勝手に緩む。
王都へ戻れる。
いや、戻れるどころか、今回の功績次第ではもっといい席だって狙えるかもしれない。
それに、ヴァルターから受け取った厚意についても、今さら返せと言う奴はいないだろう。
賄賂ではない。
厚意だ。
事件解決への協力金とでも思っておけばいい。
「ふふ……」
そして、もう一つ。
周囲にこちらを見ている奴がいないことを確かめてから、懐へそっと手を差し入れた。
指先に革の感触が当たる。
取り出した小さな袋を手のひらで転がせば、中から心地よい音が返ってきた。
ちゃりん。
「ふふふ……」
もちろん、あの時エルンに止められた金塊には手を出していない。
あれは駄目だ。大きいし、目立つし、何よりあの若造が見ていた。
ただ、その後はいろいろあった。
逃げた。化け物が出た。屋敷が壊れた。
あれだけの混乱だ。小さな革袋が一つ、俺の懐へ迷い込むくらいのことはある。
事故だ。
これは事故である。
袋をもう一度振る。
ちゃりん、ちゃりん。
いい音だ。
「王都に戻ったら、まず酒だな。いや、その前に肉か。あの店の分厚いやつを頼んで……そうだ、服も一着くらい新しくしていいだろ」
想像するだけで頬が緩む。
「カツラも新調するか。いや待てよ、せっかくだ。仕事用と休日用で二つ――」
なんて贅沢。
今まで借金だ左遷だと散々だったのだ。
このくらい神様だって許すだろう。
「はは……ははははは!」
「ははは。ずいぶんご機嫌ですね、ガストン殿」
「ははははは――は?」
俺の笑い声に、別の笑い声が綺麗に重なった。
ゆっくり振り返る。
そこにいた男を見た瞬間、背筋が勝手に伸びた。
「レ、レイモンドさん……」
濃紺の上着に白いシャツ、きっちり整えた黒髪。その顔には細い銀縁眼鏡が掛かっている。
いつもと変わらない、穏やかな笑顔だった。
だから怖い。
レイモンドは眼鏡の位置を指先で軽く直し、その奥から氷のような瞳をこちらへ向けた。
「これはこれは。奇遇ですなぁ」
「ええ。本当に」
にこやかなまま、すぐ隣まで歩いてくる。
「なにやら、大変な事件に巻き込まれていたそうですね」
「いやあ、まあ。国家監察官ともなると色々ありましてな。領主の不正を暴いて、怪しい連中まで一網打尽。私としては当然の職務を果たしたまでですが」
さっきまでベンチへ沈み込んでいた背中を伸ばし、胸まで張ってみる。
「それはそれは。無事に解決されたようで何よりです」
「ははは。まあ、私に掛かれば――」
「それに」
レイモンドの笑顔が、ほんの少し深くなった。
「随分と懐具合もよくなられたようで」
「え?」
手が軽い。
自分の右手を見る。
ない。
さっきまで握っていた革袋が、ない。
「……あれ?」
「こちらですね」
レイモンドの手にあった。
いつ取った。
いや待て。俺はずっと握っていたはずだ。
レイモンドは袋の口を少し開き、中身を覗くと満足そうに頷いた。
「これだけあれば、元金もかなり減らせそうですね」
「いや、その、それはですね……」
「はい?」
「その金は、ちょっと事情がありまして……私のと言いますか、私のではないと言いますか、いや最終的には私のになる予定だったと言いますか……」
「何か問題でも?」
レイモンドが銀縁眼鏡を指先で押し上げた。
その奥から、氷のような瞳がこちらを射抜く。
背中が一気に冷え、さっきまで王都の酒や肉を思い浮かべていた頭が綺麗に真っ白になった。
「……なんでもないです」
気づけば、背中を丸めていた。
「そうですか。それはよかった」
レイモンドは実に満足そうに革袋を懐へ収めた。
俺の金貨が消えた。
いや、金貨だったものが借金の元金へ姿を変えた。
俺の意思とは無関係に。
「ああ、そうでした」
数歩歩いたレイモンドが振り返る。
「こちらをお渡ししておきますね」
「……何です?」
差し出された紙を、反射的に受け取る。
見覚えのある書式だった。
「領収書です」
「…………」
「では、王都で」
レイモンドは爽やかに一礼し、そのまま去っていった。
俺は追いかけなかった。
追いかけられなかった。
しばらく馬車乗り場の真ん中で、手の中の紙を眺め続ける。
さっきまで金貨の袋を握っていた手に、今あるのは領収書一枚。
王都の酒が消えた。肉も、新しい服も、仕事用と休日用で二つ買うはずだったカツラまで消えた。
全部、紙一枚になった。
風が吹き、領収書の端がひらりと揺れる。
俺はそれを両手で握り締め、ゆっくりと空を仰いだ。
「くそがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
俺の絶叫が、ようやく平穏を取り戻したカレドの町に、いつまでも響き渡った。
お読みいただきありがとうございます。
ひとまず、これにて『トライノット』第一章完結です。
三人の旅はまだ始まったばかりなので、反響がよければ、この先の町や騒動も書いていきたいと思っています。
エルン、ダリア、ガストンの珍道中を楽しんでいただけましたら、感想や評価をいただけると嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!




