第二十九話「英雄の家は、整いすぎていた。」
王都へ買い出しに行ってから、数日が過ぎた。
第七寮は、ようやく夏へ戻りつつあった。ただし、完全に戻ったとは言いきれない。二階の曲がり角だけは、なぜかまだ少し秋だったし、洗面所の水は朝だけやけに冷たい。
マルタさんが買った厚手の毛布は、結局、食堂の椅子に何枚か置かれている。ハーブ先輩が選んだ茶葉は、朝の食堂に濃い香りを足している。飲むと、濃すぎて、少しだけ現実が遠ざかる気がした。
そして、メル先輩が買った古い英雄録は、今も俺の机の上にある。メル先輩から「比較用に読んでください」と渡されたものだ。
『王国英雄録・普及版―第五版』
表紙はくすんだ青色で、角が少し擦り切れている。
一見、古いだけの本に見える。けれど、ページを開くたび、俺は少しだけ落ち着かない気持ちになった。
英雄の名前は、どれも綺麗すぎるくらいに、整っていた。最初から石碑に刻まれることを決められていたみたいに、余計なものがない。
「英雄とは、何をもって記録されるか」
夏季課題の題目は、思った以上に扱いづらかった。
ヴァイスグランからの知らせが届いたのは、そんなふうに何度目かのため息をついた日の午後だった。
―――
「本当に行くの?」
アイリスは、俺の机の上に置かれた英雄録を見ながら言った。
「行くって返事しただろ」
「そうだけど」
「見張りも行くんだろ?」
「行く」
即答だった。そこは迷わないらしい。
「ならいいじゃないか」
「よくはない。英雄の家だよ」
「英雄の家って、そんなに危ないのか?」
「危ないかどうかは、行ってみないと分からない」
「それ、だいたい全部に言えるやつだな」
アイリスは少しだけ口を尖らせた。
いつもの軽口に見える。けれど、視線は英雄録の表紙からあまり動いていない。
この数日、俺がその本を開くたび、アイリスは何か言いたそうな顔をした。でも、結局は何も言わなかった。
隠すこと。読むこと。記録に触れること。そのどこかに、アイリスの中で引っかかるものがあるのだと思う。ただ、俺にはそれが何かまでは分からない。
「アレン」
「何?」
「変なことしないでね」
「変なことって?」
「変なこと」
「範囲が広い」
「あなたの場合、範囲を広く取っておいた方が安全だから」
「信用がない」
「信用はしてる」
アイリスは、少しだけ目を細めた。
「安心はしてない」
―――
ヴァイスグラン家へ向かう道は、王都の中でも静かな方へ続いていた。
数日前に歩いた夏市の通りとは、まるで違う。あちらは声と匂いと色でできていた。日除け布の下に店が並び、氷菓子の蜜が光り、トーマス先輩が部品を見て目を輝かせ、メル先輩が本棚の前で呼吸を補助扱いしていた。
一方で、今日の道は静かだった。石畳は広く、家々の門は高い。通りには人がいるのに、音が少ない。馬車の車輪の音まで、どこか遠慮しているように聞こえる。
俺の隣にはアイリス。少し後ろにはメル先輩。そして、反対側にはクレアがいた。
クレアは制服の襟をいつも以上にきちんと整え、背筋を伸ばして歩いている。こういう場所に慣れているのだろうか。いや、慣れているというより、慣れていなければならないと自分に言い聞かせているようにも見えた。
「緊張してる?」
俺が聞くと、クレアは少しだけこちらを見た。
「礼を欠かないように、と思っているだけです」
「それを緊張って言わないか?」
「緊張とは、心が乱れている状態です。私は乱れていません」
「なるほど」
「少しだけ、整えすぎているだけです」
自分で言って、クレアは小さく息を吐いた。
彼女らしいと思った。乱れていない。けれど、整えすぎている。その言葉は、どこか今日向かう場所にも似合いそうだった。
メル先輩は、抱えた本を大事そうに持っていた。王都で買った旧版英雄録だ。
「メル先輩、重くないんですか?」
「重いです」
「持ちましょうか?」
「大丈夫です。本の重さは、持つ人に慣れます」
「慣れるものなんですか?」
「慣れます。たぶん」
最後だけ少し弱かった。でも、メル先輩は本を渡さなかった。
しばらく歩くと、白い門が見えてきた。
学園の門とは違う。あちらは人を測るような白だったのに対し、こちらは人を迎える前に整えるような白だった。
門の奥に、ヴァイスグラン家の屋敷があった。大きい。いや、大きいという言葉では少し足りない。屋敷全体が、ひとつの古い誓いみたいに、静かにそこへ立っていた。
白い壁。細い柱。高い窓。風に揺れる旗。古いはずなのに、古びていない。傷がないというより、傷を残すことを許されていない建物に見えた。
「……すごいな」
思わず呟くと、アイリスが小さく言った。
「綺麗すぎるね」
その言い方が、なんだか、褒めているようで、褒めきってはいない声に聞こえた。
門の前には、ヴァイスグランが立っていた。白い制服ではなく、今日は淡い青の上着を着ている。学園にいる時より少しだけ家の人間らしく、それでもどこか、屋敷そのものとは距離があるように見えた。
「来てくれてありがとう」
ヴァイスグランは穏やかに言った。
「こちらこそありがとう」
「夏季課題の助けになるといいのだけれど」
「なると思う。たぶん」
「たぶん?」
「英雄記録が、思ったより手強い」
そう言うと、ヴァイスグランは少しだけ笑った。
「英雄は、記録になるとさらに手強くなるからね」
それは冗談のようにも聞こえた。
けれど、声の奥に少しだけ別の温度も感じた。
―――
屋敷の中は、外より涼しかった。
第七寮を冬にした冷気とは違う。ここにある涼しさは、制御されている。冷えすぎず、乱れず、余計なものを置かないように整えられていた。
磨かれた床は、歩く音を柔らかく返す。
壁には肖像画が並んでいた。俺はそこで、足を少し緩めた。
額縁の中には、何人もの人物が描かれている。
剣を持つ者。杖を持つ者。白い勲章を胸に下げた者。戦場を背にした者もいれば、王宮らしき場所に立つ者もいる。どの絵も、立派だった。立派すぎるくらいだった。
額の下には、名前が書かれている。けれど、それは人の名前というより、称号に近かった。
白槍の英雄―
北門の守護者―
蒼炎卿―
灰狼の盾―
ヴァイスグランの白冠。
「本名は、書かれないのか?」
気づけば、俺はそう呟いていた。
ヴァイスグランが足を止める。クレアも、肖像画を見上げた。
「英雄として残る時、人々が覚えるのは、たいてい役割の名だからね」
ヴァイスグランは静かに言った。
「役割の名」
「何をしたか。何を救ったか。何を背負ったか。その方が伝わりやすい」
「本当の名前より?」
問い返した瞬間、胸の奥に父の声が沈んだ。
―お前の名前は、離すな。
ヴァイスグランは、少しだけ目を伏せた。
「本当の名前は、近くにいた人が覚える。英雄名は、遠くにいる人が覚える。そして、人の多くは、遠くにいるからね」
その言葉は、綺麗だった。けれど、少し寂しかった。
アイリスは、額の下の文字をじっと見ていた。
「名前なのに、名前じゃないみたい」
小さな声だった。
俺が聞き返す前に、アイリスはいつもの顔に戻っていた。けれど、さっきの声だけは、廊下の涼しさの中に残った。
メル先輩は、肖像画の下の文字を一つずつ目で追っている。
「表記が、揃っています」
「揃っていると、何か問題があるんですか?」
「問題とは限りません。でも、揃っているものには、揃えた人がいます」
メル先輩は、抱えている旧版英雄録の表紙を指で撫でた。
「自然に同じ形になる記録は、あまりありません」
―――
資料室へ向かう前に、一人の老人が現れた。
白髪をきちんと整えた、老執事だった。背筋は細いのに折れておらず、声は柔らかいが、言葉の端がよく磨かれている。
「お待ちしておりました。レオンハルト様」
「ありがとう、グラント」
グラントと呼ばれた老執事は、俺たちへ丁寧に頭を下げた。
「本日は、当家資料室の一部をご覧いただくと伺っております。王国英雄録、英雄庁提出写し、ならびに式典記録の閲覧準備は整っております」
英雄庁。その言葉が出た瞬間、アイリスの指がほんの少しだけ動いた。
俺はそれに気づいた。けれど、何も聞かなかった。
「英雄庁提出写し……」
クレアが小さく呟く。
グラント老は、静かに頷いた。
「英雄の記録は、王国の財産でございます。功績を正しく後世へ残すためにも、整えられた記録が必要となります」
…財産。
人の人生に使うには、少し冷たい言葉だった。
ヴァイスグランは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ視線を落とした。
グラント老は、俺たちの名前を確認していく。
「アレン・ノーツ様。アイリス・レペール様。クレア・エルノート様。メル・アーカイブ様」
―レペール
そういえば、アイリスにも家名はある。当たり前のことなのに、俺はその名前を普段、思い浮かべたことがなかった。俺にとって彼女は、ずっとアイリスだった。森で出会って、石を投げる俺に呆れて、迷わない石をくれた、あのアイリスだ。
けれど、グラント老はその名を呼んだ時、ほんのわずかに声を遅らせた。本当に、ほんのわずかだった。聞き逃してもおかしくないくらい。
けれど、アイリスは気づいたらしい。顔は変えない。ただ、目だけが少し静かになった。
「……何か?」
アイリスが聞くと、グラント老は穏やかに微笑んだ。
「いえ。古い家名でございますので」
「そうですか」
「はい」
それだけだった。けれど、なんだか少し気になった。
レペール。
家名を、必要以上に前へ出さない家。そんなふうに思ったのは、俺の勝手な想像なのだろうか。でも、なぜか外れていない気もした。
―――
資料室は、屋敷の奥にあった。
扉は重く、金属の装飾が施されている。グラント老が鍵を差し込み、静かに回すと、扉の奥から古い紙の匂いがした。
メル先輩の目が、わずかに輝いた。
「湿度が、正しい……」
「資料室の褒め方なんですか?」
「最高級です」
最高級らしい。
中に入ると、壁一面に棚が並んでいた。
古い本、記録箱、巻物、封緘された資料束。どれも整然と置かれている。埃っぽくはない。古いのに、古びすぎていない。ここでも、傷や乱れは見えなかった。
グラント老は、中央の机にいくつかの資料を置いた。
「こちらが、王国英雄録の公的写しでございます。こちらは英雄庁へ提出された功績認定記録。そしてこちらが、式典用に整えられた称号録です」
「式典用に整えられた、ですか」
クレアが聞き返す。
「はい。式典では、伝わりやすさと格式が重んじられますので」
伝わりやすさ。格式。便利な言葉だと思った。便利な言葉は、時々何かを隠すことを俺は知っている。
メル先輩は、自分の旧版英雄録を机に置いた。そして、公的写しと並べて見比べる。
ページをめくる音が、資料室に小さく響いた。
「同じ英雄ですね」
「分かるんですか?」
「功績の順番が同じです。でも、名前の揺れが消えています」
「揺れ?」
「旧版では、同じ英雄に複数の表記があります。称号、地名由来、個人名に近い呼び方。でも、公的写しでは一つに統一されています」
「統一した方が分かりやすいんじゃないですか?」
「はい。分かりやすいです」
メル先輩は、そこで少しだけ声を落とした。
「分かりやすくする時、分からなくなるものがあります」
資料室の空気が、少しだけ静かになった。
クレアは別の資料を見ていた。その指が、ある行で止まる。
「……エルノート」
「どうした?」
「この記録の紋章照合欄に、エルノート家の印があります」
俺も覗き込む。そこには確かに、古い印と文字があった。
紋章照合――エルノート家保管写し参照。
クレアの表情がわずかに揺れる。
「昔のエルノート家は、英雄記録の紋章照合に関わっていたと聞いたことがあります」
ヴァイスグランが言った。
「ただ、詳しい役割までは、今の公的記録にはあまり残っていない」
「あまり、残っていない」
クレアは、静かにその言葉を繰り返した。
没落した家。壊れた屋敷。折れた木剣。誇りだけは捨てなかった少女。
クレアの背筋は、今もまっすぐだった。けれどそのまっすぐさの奥に、少しだけ別の重さが加わったように見えた。
―――
それから、いくつかの資料を見た。
そこに並んだ文字は、どれも迷いがなかった。迷いがない記録は、少し怖い。そんなことを思って、俺はすぐに目を逸らした。記録に怖いと言っても、たぶん記録は困るだけだ。けれど、やっぱりそこには、人の気配が少なかった。
白冠杯の記録には、未熟でも俺がいた。勝った相手も、負けた相手も、痛みも、息切れも、少しだけ残っていた。けれど、ここにある英雄の記録は、強いのに、遠い。
立派なのに、人がいない。
グラント老が、最後に一つの箱を運んできた。
「こちらは、英雄認定前記録の抜粋でございます。公的閲覧が許されている範囲の写しになります」
認定前。その言葉に、メル先輩が反応した。
「認定前名も含まれますか?」
「一部のみでございます。現在の表記基準では、公開範囲が限られておりますので」
「限られているんですね」
「はい。保護のためです」
保護。また便利な言葉だった。
箱から取り出された紙束は、他の資料より少しだけ古かった。けれど、きちんと整えられている。紐で束ねられ、角も揃っている。
俺は、そのうちの一枚に目を落とした。見慣れてきた形式だ。綺麗で、整っていて、隙がない。でも、その下に薄い空白があった。
認定前名――非公開
補佐記録――非公開
どちらの文字も、きちんと黒く並んでいた。黒い。けれど、空っぽではない。
非公開。その三文字は便利だった。何も言わずに、言わない理由まで済ませてしまう。
けれど、紙はたぶん、そこまで器用ではない。なぜか、その空白から目が離せなかった。
「アレン」
アイリスの声がした。
いつもの見張りの声ではなかった。
何かが見つかることを恐れる声でもない。何かが呼ばれることを恐れる声だった。
けれど、俺の指は、もう紙に触れていた。
―瞬間、黒い文字の奥で、別の線が揺れた。
書き足されたのではない。浮かび上がったのでもない。消されたものが、消される前の場所へ戻ろうとしている。そんなふうに見えた。
認定前名――非公開
その下で、別の線が細く震える。
『 レ――― 』
たった一瞬。それだけだった。けれど、そのさらに下。
補佐記録――非公開
黒い文字の奥で、もう一つの古い字が揺れた。
『 名標 』
読めたのは、そこまでだった。すぐに文字は元へ戻った。紙は静かになり、資料室には古い紙の匂いだけが残った。
でも、見た。俺だけではない。メル先輩は息を止めていた。クレアは紙を見つめている。ヴァイスグランは静かに目を細めた。
アイリスは、俺の袖を掴んでいた。
「なしるべ……?」
俺が呟くと、アイリスの手に力が入った。
「言わないで
その声は、小さかった。でも、はっきりしていた。
「知ってるのか?」
「……知らない」
アイリスは、少しだけ目を逸らした。
「でも、たぶん、知らないまま口にしていい言葉じゃない」
資料室の空気が、少しだけ冷える。
英雄の名前の下に、誰かの名前が眠っている。そして、そのさらに近くに、誰かを導いたはずの名も眠っている。
俺は、それが何を意味するのか、分からない。
ただ、紙が一瞬だけ、何かを思い出そうとした。
それだけは、確かだった。




