3話 井戸の底、霧の向こう
『マヨイガ(迷い家)』
訪れた者に富や幸福をもたらすという、不思議な家。
辿り着けるのは無欲で清らかな心の持ち主だけで、欲深い者はその姿を拝むことすら叶わない。
しかし、今この神社を包み込んでいるのは、そんな夢のような伝承とは程遠い「何か」だった。
*
「外に、出られない……?」
呆然と呟いたのはカンナだった。いつもの冷静さは微塵もない。彼女は非科学的な事象には懐疑的なタイプで、マコトのオカルト趣味をどこか冷めた目で見ていた。だからこそ、目の前の超常的な現実を処理しきれず、立ち尽くしている。
「とにかく、一塊になっていよう。バラバラになるのは危ない」
迷子を諭すようなマコトの言葉に、カンナは小さく頷いてようやく顔を上げた。
そこで、さらなる異変に気づく。
「……ヒナは?」
その言葉に、カイトとマコトの背筋が凍った。
「ヒナまでいなくなったのか!?」
ヒロキに続き、ヒナまでもが忽然と姿を消した。一人、また一人といなくなっていく。幼い頃から慣れ親しんだはずの稲荷神社が、今は得体の知れない「檻」のように見えた。
焦燥感に駆られて辺りを見渡していたカイトの目が、ある一点で止まった。
「おい……あの掲示板、おかしくねえか?」
カイトが指差したのは、神社の行事などの情報を掲載する掲示板だ。そこに貼られているポスターを読み込む。
「え……、『2011年7月24日、アナログ放送終了! 地デジの準備はお済みですか?』って、これ何のポスター?」
黄色い鹿のキャラクターが印刷されたポスターを指さしてカイトは戸惑う。内容が一切理解できないのだ。
地デジ化の狂騒曲は、彼らがまだ物心つくかつかないかの頃の出来事だ。学力の高いカンナやマコトですら、新品同様に貼られたその古い情報の意味を噛み砕くことはできなかった。
首を傾げながら、隣の別のポスターに目をやる。
「ん? これ、夏にやってる祇園祭のポスターだ。『祭りの詳細は携帯電話専用サイトでチェック』……? 『携帯電話専用サイト』って、変な言い回し……」
「このQRコードの横に『スマートフォンには対応しておりません』って書いてある。なんで?」
「それに、このポスターの日付おかしくないか? 今年のカレンダーと合ってないぞ」
色あせもなく、掲示されてからさほど時間が経過していないその不可解なポスターは、異様な雰囲気を醸し出していた。
三人は不可解な掲示板を後にすると、拝殿の正面に回った。
すぐ近くのベンチに腰掛けて、途方に暮れる。論理の通じない現実に、カンナとマコトは項垂れている。カイトがスマホの画面を確認すると、アンテナマークは相変わらず「✕」のままだ。バッテリーはまだ七割あるが、いつまで持つだろうか。
(なんだ……? あれ……)
ふと、参道を挟んでベンチの向かい側に、見覚えのないものに気がついた。
「井戸だ……」
「え……?」
カイトの呟きに、二人が顔を上げた。
「あんなところに井戸なんてあったっけ……?」
「いや、覚えてない……。何かあったとは思うけど、井戸だったっけ?」
「私も覚えてない……」
三人は顔を見合わせ、意を決して立ち上がった。カイトを先頭に、吸い寄せられるように井戸へ歩み寄る。
古びた石造りの井戸は、今にも「何か」が這い出してきそうな不穏な空気を孕んでいた。カイトは昔の映画で見た、髪の長い女が井戸から這い出る光景を思い出し、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
恐る恐る、暗い穴の底を覗き込む。
「真っ暗で何も見えない……」
井戸の中は底が見えないほど真っ暗だった。マコトがスマホのライトを向けたが、光は底に届く前に深い闇に吸い込まれてしまった。水気はなく、完全に枯れ果てている。
「カイト! あんまり身を乗り出すな。落ちたら危ないぞ」
カンナが鋭く注意した。その言葉を聞いた瞬間、カイトの脳裏に激しい既視感が走った。
「……なあ、昔ここで事故とか無かったか?」
「どうだったかな……」
「そもそも、ここに井戸なんて無かったと思うぞ」
カンナとマコトにそう言われてしまえば「そうか」と納得するしかない。
ベンチに戻ろうと思った、その時だった──。
『カイトくん……、カンナちゃん……、マコトくん……』
誰かが、自分たちの名前を呼ぶ声がした。
それは幼い子供の声だった。
*
ヒロキは霧の中をがむしゃらに走っていた。
林に入ってどれくらいの時間が経っただろうか。右も左も、前も後ろも分からない。ただ視界が悪いというだけで、これほどまでに方向感覚を奪われるとは思ってもみなかった。
「くっそ……、どっちだ……!?」
どれだけ駆けずり回っても、辺りにはただ真っ白な空間が広がっているだけだ。時折、樹木の黒い影がぼうっと浮き上がるが、それを避けようと動くたびに、自分がどこを向いているのか分からなくなる。
肩で激しく息をする。体力には自信があったはずなのに、鉛のような疲労が全身にのしかかっていた。マコトの言う通り、じっとしていればよかったのか。後悔が脳裏をよぎるが、ヒロキは強引に首を振ってそれを打ち消した。
「とにかくここを抜けて、助けを呼びに行くんだ。俺がやらなきゃ……」
自分に言い聞かせ、新たに一歩を踏み出した、その時だった。
『ヒロキくん……』
幼い子供の声が耳元で跳ねた。驚いて振り返るが、そこにはただ白い静寂が広がっているだけだ。
異様な不気味さに身を固くした瞬間、背後から「カキーンッ!」という鋭い金属音が響き渡った。
聞き馴染んだ、魂を揺さぶる音。反射的に振り向くと、ヒュンッという空気を切り裂く音と共に、霧がカーテンのように左右に割れた。
視界が開けた先、そこに広がっていたのは野球場だった。
バットがボールを捉える快音。放たれた白球が放物線を描き、夏の青空に吸い込まれていく。ボールはフェンスを越え、場外へと消えた。
わあっと、地響きのような歓声が上がる。ダイヤモンドを走る選手たちは、皆ヒロキよりもずっと体が小さかった。
(……少年野球?)
呆然とその光景を見つめる。ヒロキはこの場面を、一秒の狂いもなく覚えていた。
「小学生、最後の大会だ……」
ホームランを打った少年が、満面の笑みでベースを一周していく。それは紛れもなく、幼い頃の自分だった。
地区の小さな大会。打たねば負けるという絶体絶命の場面で、四番のヒロキがバッターボックスに立った。そして放った、奇跡の逆転満塁サヨナラホームラン。チームを勝利に導いた、あの瞬間。
自分の栄光は、あの時がピークだった。中学に進み、野球部に入部するまでは。
『羨ましいか?』
突然の声に心臓が跳ねた。いつの間にか隣に腰掛けていた人物は、中学の野球部のユニフォームを着ていた。それは、今のヒロキ自身だ。
ユニフォーム姿の自分は、学校名の入ったメガホンを握りしめたまま、どす黒い表情でグラウンドを見つめている。
『あの頃は良かったよな……。野球が、純粋に楽しかった。……今はどうだ? 俺より下手な奴らが、平然とフィールドに立ってる。許せるか、あれを』
ユニフォーム姿の自分が指を差す。その先では、九人の部員が活気に満ちた試合を繰り広げていた。その中に、ヒロキの姿はない。
ふつふつと、忘れかけていた悔しさと泥のような怒りが込み上げる。
『見ろよ、この手……。あんなに練習して作ったマメが、今はもう綺麗さっぱり消えちまった……』
ユニフォームの自分が、恨めしそうに右手を見つめた。釣られてヒロキも自分の掌を見る。かつて硬いタコになるほど鍛え上げた掌は、今ではすっかり柔らかく、滑らかになっていた。
『あそこにいるべきなのは、俺だと思わないか?』
暗い眼差しが、まっすぐにヒロキを射抜く。
『それとも……あの頃に戻りたいか?』
彼の言う「あの頃」とは、無敵だった小学生の自分だ。
『あっちへ行けば、戻れるぜ。もう一度な……』
ユニフォームの自分が指し示した先、霧の中に、ぼんやりと光る裂け目ができていた。
抗う術などなかった。ヒロキは引き寄せられるように、その裂け目へと足を踏み入れていった。
次回更新は4月26日です。時間は未定ですが、15時頃までを目標に投稿したいと思います。




