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第五章-2

 この惑星リューガの暦では今日は平日なのか、それともそもそも普段からこの首都ロールトの交通量はそれほど多くはないのか、午前中の空いた道路をジゼルの操縦するショッキングピンクの大気圏内往還船(シャトル)はのんびりと海を目指して走っている。

 最初は飛行車に混じって飛んでいこうとしたのだが、ペーパードライバーの彼女の操縦による飛行は道路と違ってなんのガイドもない空中を行くこともあってあまりにもふらふらとして危なっかしかった。その為、危機感を覚えたアッシュが地上に降りて道路を出来るだけゆっくりと走るように頼んだのだ。万が一事故を起こしたとき、上空から落ちるのと地上でぶつかるのとでは被害の規模が異なるだろう。

 ちなみに、周囲を走っているこの星の流線型をした自動車や飛行車の中に混ざると、昨日危惧した通り、アッシュの星の小型自動車によく似たコンパクトで丸っこい大気圏内往還船(シャトル)は明らかに浮いている。

 やがて、彼らの大気圏内往還船(シャトル)は海に突き当たり、目的のショッピングモールに向かう海沿いの道を景色を見ながらドライブするような低速で走り出した。

 アッシュは助手席から振り向いて、後部座席でチッピィをぬいぐるみのように抱いて窓の外に広がる碧い海を眺めているオデットの様子を窺う。オデットは強い日差しを照り返して波頭の輝く海の様子を飽きることなく眺めているようだった。もしかすると、彼女の記憶の中には海の風景はなかったのかもしれない。

 オデットの意識がこちらに向いていないことを確認して、アッシュは少し小さめの声でジゼルに話し掛けた。

「オデットは一昨日の夜、部屋の鍵が開いてたから抜け出して、地下下水道を歩いてこの街中まで逃げてきたって言ってたよな?」

「うん。一日掛かりで歩いてきたって。あんな小さな子にはたいへんだったでしょうね」

 操縦しながらジゼルが相槌を打つ。

「あぁ、いや。勿論、それは可哀相だとは思うけど、言いたかったのはそういうことじゃないんだ」

「じゃあ、なぁに?」

 ジゼルは操縦中の為か少々空返事のような気がしたが、アッシュは構わず話を進めることにした。

「オデットの右手にあの紅い石が出現したとき、それを検査した研究者たちが大喜びしてたって言ってただろ? それってつまり、あの()が初めての実験の成功例だったってことじゃないかと思うんだ。それが三日前の夜のことで、その翌日に貴重な実験の成功例を閉じ込めてる部屋の鍵を掛け忘れるって、ありえなくないか?」

「んー……。人間だもん、そういうこともあるんじゃない? それこそ、実験成功に浮かれて注意が散漫になってたとか」

「それにオデットは、大人たちから隠れながら建物の中をあちこち逃げ回ってる内にいつの間にか研究施設の外に通じる地下下水道に入り込んでた、って言ってたけど、これも都合が良過ぎるように思える」

 ジゼルの意見には応じず、アッシュは自論の展開を続ける。

「どういうこと?」

「オデットが逃亡に成功したのは、何者かのお膳立ての結果なんじゃないのか? 部屋の鍵を開けて脱出路をそれとなく誘導したような、さ。なんだか、誰かの掌の上で踊らされてる気がする」

「何者かって? オデットを逃がすことで得をするような誰かが、その研究機関内にいたってこと? それは考え過ぎじゃない? 現にこうやって、貴重な実験の成功例であるあの()を大人数を繰り出して捜索してるわけだし」

「……まぁ、そうなんだけどな。俺の考え過ぎならいいんだけど、すっきりしないんだ。まだなにか裏がありそうな……」

 アッシュの呟きは最後のほうはほとんど聞き取れないくらいの声量になっていたので、操縦に意識の大半を傾けているジゼルがそれに対してなにか言ってくるようなことはなかった。

 そうしている内に、目的のシシミア・モールという商業施設に到着したようだ。広い屋外駐車場に大気圏内往還船(シャトル)を停め、三人と一匹は船から降りる。

 空調の効いていた船内から外へ出ると、容赦なく降り注ぐ強烈な日差しとむわっとした熱気をはらんだ潮の香りのする風が彼らを出迎えてくれた。いかにも、夏、という雰囲気だ。

 見回してみると、そこはアッシュの国で言う郊外型の巨大なアウトレットモールのような商業施設らしかった。

「さ、着いたわよ、オデット。――んー、まずは履物かしらね」

 ジゼルがそう言って、きょろきょろと周りを見回しているオデットの手を引いて、店舗が並んだモール内へと歩き始める。オデットはカテジナから借りたミニ浴衣を着ているが、サイズが大き過ぎるそれはこの星のファッションとしては相当丈が長いようだ。履物もカテジナの下駄らしかったが、これも勿論大き過ぎてとても歩き辛そうだった。

 ちなみに、ジゼルは昨日とは別の薄紅色のミニ振袖姿で、アッシュは昨夜クォンから借りた袴姿だ。こんな格好をしていると、なんとなく武士にでもなったような気がしてしまう。

 アッシュは一応彼女たちのエスコートを任された身として、周囲にそれとなく注意を払いつつ二人の後をついていった。現在のところは怪しい人影などはない、と思う。それを断言出来るほどの鋭い五感は持ち合わせていない。それでも、なにも警戒しないよりはましだろう。

 宣言通りジゼルは下駄等の履物の店に入ろうとしたのだが、オデットがチッピィを抱いたままだったので店舗に入ろうとしたところで店員に止められてしまった。

 さすがにこの星では、セレストラル星系のようにバフスクの登録証を提示して店への出入りがフリーパスになったりはしないようだ。バフスクという知能の高い生物の存在が知られていないのだから、当然のことだが。

 アッシュはモールの街灯に形だけリードでチッピィを繋ぎ、おとなしく待っているように言い聞かせた。

 そうして、暫し主にジゼルが悩んで、オデットにぽっくりのような下駄を選んで買ってやり履き替えさせて店を出る。

 すると、リードで街灯に繋がれて座って待っているチッピィの周りに買い物客の子供が二、三人集まっていた。バフスクは魔法を使うとき以外は吠えないので、おとなしい犬として人気を集めているようだ。

「チッピィ、大人気だな」

(チッピィ、大人気)

 アッシュが声を掛けながらリードを解くと、チッピィが自慢げに応じてくる。この返事は勿論念話なのでアッシュとジゼル以外には聞こえていない。オデットには例の原因不明の現象のせいで念話は通じていないと思われる。

 飼い主が戻ってきたので、チッピィの周りに集まっていた子供たちは手を振りながら解散していった。それを見送っていると、オデットがアッシュを見上げて手を出してくる。アッシュは察して、チッピィのリードをオデットに握らせてやった。そうして、次の店に向かう。

 それから同じようにして何件かの店舗を回り、オデットの服を買い揃えていった。涼しげな白い花の柄で薄い青系のミニ浴衣に黄色い金魚帯、珊瑚らしきもので出来た帯留め、大きな花が付いた簪のような髪飾りに兎のような動物が描かれた籠巾着等、店を出る度にオデットの服装が整っていく。

 それに比例して、アッシュの持たされる荷物は増えていった。両腕に手提げ袋を引っ掛け大小様々の箱を積み重ねて胸の前に抱える、というマンガのような荷物持ち姿になってしまったアッシュはとうとう根を上げてしまう。

「おい、そろそろいいだろ? もう持ち切れねぇぞ。それに、いい加減腹も減ってきたし、昼飯にしようぜ?」

「もう! ダーリンったら、だらしないわね。荷物持ちは男の甲斐性でしょ?」

「……そんな甲斐性、聞いたことねぇよ」

 無茶苦茶なことを言うジゼルに、呆れたようにアッシュは突っ込んだ。その突っ込みを気にした風もなく、ジゼルは少し離れたところに立っているモールの時計塔を眺めやって時間を確認する。

「でも確かに、もうお昼をだいぶ過ぎてるわね。お腹空いた?」

 ジゼルが手を繋いだオデットに確認すると、彼女はコクリと頷いた。

「じゃ、ご飯にしましょっか。――んー、わんこがいるから屋内の店はダメね。そうすると、広場にある屋外のフードコートかしら」

 ジゼルはオデットの手を引いて、くるりと方向転換する。目の前に積み重ねた箱を抱えているアッシュは、そのジゼルの動きがよく見えない。二、三歩行き過ぎてから、慌てて向きを変えて二人の後を追う。

「こっちは前が見えねぇんだから、いきなり進行方向を変えるなよ」

「しっかりついてきてね。その歳で迷子になったら恥ずかしいわよ」

 文句を言うアッシュに、ジゼルがしれっと答えた。どうにも今は『ダーリン』よりもオデットのほうに夢中らしい。ベタベタされればされたで恥ずかしいし鬱陶しいと思うのだが、こう軽く扱われるのもなんだか面白くない。

 アッシュはそんな自分の心の動きに内心嘆息して、二人を見失わないように、かつ他の買い物客にぶつからないように、積み上げた荷物の横から顔を出して前を見ながらジゼルたちについていく。

 程なくして、屋外に面していくつもの食べ物屋の店舗が屋台のように並んだフードコートの前の広場に到着した。アッシュはたくさん設えられた丸テーブルの一つに大量の荷物を下ろして、一息吐く。その白く塗られた木製のテーブルの上には大きなパラソル――と言うか、アッシュの国の茶道の野点で使うような大きな番傘が差し掛けてあり、強い日差しを遮ってくれていた。アッシュはテーブルの周りに並んだ白い木製の椅子に座り込む。

「なによ? このくらいでへたばったの? ダーリンはもう少し体力を付けるべきね。妻として生活をきちんと管理しなきゃ」

 ジゼルが勝手なことを言うが、肉体的というより周囲に気を配って歩いていた精神的な疲労に、アッシュは突っ込む気も起きない。

「あれ? 突っ込まないの? ホントにお疲れみたいね」

「……突っ込み待ちだったのかよ」

 ジゼルの言い草に、思わずアッシュは疲れた突っ込みの声を上げる。ジゼルは笑って、座った為に自分より低くなった彼の黒白の頭に手を置いた。

「じゃ、アッシュはここで荷物番してて。あたしとオデットで食べるものを買ってくるわ。なにかリクエストはある?」

「ああ、頼んだ。この星の料理なんてわかんねぇから、適当に選んできてくれ」

 アッシュは眼鏡を外して目頭を揉みながら答える。

「うん。それじゃ、ちょっと行ってくるわね。――オデット、なにが食べたい?」

 目を閉じている間に、ジゼルの声が遠ざかっていった。アッシュは目を開いて眼鏡を掛け直すと、何気ない風を装って周囲に視線を走らせる。買い物中からずっとそうだったのだが、どうも彼らは他の買い物客や店員の目を惹いているような気がするのだ。怪しい人物に見張られているというような感じではないのでとりあえずスルーしていたが、それらの視線が気になっていないと言えば嘘になる。

 アッシュもこの星の着物を借りて着ているし、オデットもその身体に合った着物に着替えたので、服装がおかしいせいではないだろう。やはり淡いパステルカラーの髪の人が多いこの星では、自分の黒髪が目立つのだろうか。だが、昨夜ジゼルと外出したときには、ここまで視線は気にならなかったように思う。とすると、オデットの青く長い髪のせいかもしれない。行き交う人々を見回してみた限りでは、青系の髪の色でも薄い空色のような色が多く、彼女のような鮮やかな深い青は見掛けなかった。

「お待たせー」

 オデットを連れたジゼルが戻ってきて、プラスチック製のような皿に盛られた料理と、皿と同じ素材のカップに入った飲み物の乗ったトレーをテーブルの上に置く。エコ観念が発達しているのか、使い捨てではなく再生利用が容易な素材の食器が使われているようだ。

 アッシュは彼女が運んできた料理に目を向ける。

「お。お好み焼きか」

「うん。食べられそう?」

「ああ。美味そうだ」

 アッシュの国の料理名がそのまま通じたところを見ると、この手の名詞にしては珍しく一発で自動翻訳出来たらしい。その料理はここが海辺であることもあってか、海産物がふんだんに使われたお好み焼きにそっくりだった。

 ジゼルが氷と若草色の液体が入ったカップを手渡してくれる。

「飲み物は冷たいお茶でよかった?」

「おぅ、サンキュ。俺好みのチョイスだ」

「さすが、あたし。ダーリンとは心が通じ合ってるのね」

 アッシュの返事に、ジゼルが自慢げに起伏のない胸を張った。

「はいはい、そうだな。ていうか、ダーリンって言うの止めろ」

 アッシュは苦笑しながら応じる。ジゼルとオデットもテーブルを囲んで座り、ずっとオデットがリードを引いていたチッピィも彼女の椅子の足元に座った。そうして、三人と一匹は食前の挨拶を唱和し――と言っても、声に出してその挨拶をしたのはアッシュとジゼルだけだったが――食事を始める。

「うん、美味いな。このエビ?がプリプリしてて――」

 アッシュはお好み焼き風の料理を頬張りながら感想を述べた。エビ、イカ、ホタテ――っぽい食材――等が乗った生地には、アッシュの国のそれのようなソースではなくどちらかというと醤油のような味の液体調味料が塗られていて、少ししょっぱいその味がいい具合に食欲を刺激する。驚いたことに、鰹節や青海苔のような粉末まで掛けられていた。これで紅生姜が付いていれば完璧だな、などと思う。

 オデットに料理を食べさせていたジゼルが微笑んだ。

「テレビでも紹介されてた人気のお店なのよ。今は時間が少し外れてるから空いてたけど、休日のお昼なんかは行列が出来るほどなんだって。――オデットも美味しい?」

 ジゼルの問いにオデットがこくんと頷き、大きな口を開けてお好み焼き風の料理にかぶりつく。その口元に付いたソースをナプキンで拭ってやるジゼルの笑みが、更に嬉しそうなものになった。

「こうしてると、なんだか親子みたいね。ね、パパ?」

「何歳のときの子供だよ。デカ過ぎるだろ」

 アッシュは苦笑混じりに突っ込んだ。しかし、ジゼルは勝手な未来予想図の妄想に浸っているようで、それには返事をしてこない。

 アッシュはお好み焼き風の料理を口に運びながら、先ほどから気になっていたことを彼女にも確認してみた。

「ところで、なんか昨夜より周りからの視線を感じるんだけどさ、オデットみたいな鮮やかな深い青色の髪ってやっぱりこの星では珍しいのか?」

「あぁ、そっちの視線? それはまぁ確かに、こうして街を歩いててもこの()みたいな綺麗な青色の髪はあんまり見掛けないけど、目立ってるのはアッシュのほうよ? さすがに、あなたみたいに白黒縞々に髪を染め分けるほど個性的な人は見たことないもん」

「……あ」

 ジゼルの答に、間が抜けた声を上げてしまう。そういえば、昨夜風呂に入って白髪染めが落ちてしまっていたのを忘れていた。

 アッシュはその黒白半々の頭を掻く。

「そっか。忘れてた。俺のほうか……。――ん? そっちの視線、ってどういう意味だ?」

 ジゼルがなんだか引っ掛かる言い方をしていたことに気付いて問い返した。ジゼルはなんでもないことのように答える。

「少し前から誰かに()けられてるわよ? 多分――、ううん、確実に昨夜の連中の一味ね」

「っ!?」

 辺りを見回して怪しい人影を探したい衝動をぐっと堪えた。異星人と魔法に出会ってから二月と少し。それなりに修羅場をくぐったつもりでいたのだが、全くまだまだだったらしい。教えられた今でも、彼の五感では尾行者の存在を感じ取ることは出来なかった。アッシュは平静を装った表情を取り繕いながら小声で尋ねる。

「なんで教えてくれなかったんだよ? ――いや、そんなことはどうでもいいか。なんでここにいるのがバレたんだ?」

「やっぱり、あなたの髪が目立つからかしらね」

 とぼけた顔で言うジゼルに、反射的に言い返した。

「いや、昨夜は白髪は染まってたから、むしろ別人に見えるはずだぞ?」

「冗談よ。――考えてた以上に大人数で手広く捜索してたみたいね。もっと思い切って、いっそこの街から出るくらい遠くに離れるべきだったのかも」

「それを今更言っても仕方ねぇよ。それより、どうする?」

「んー。昨夜の様子からすると人目に付くのを嫌ってたみたいだから、人が多いところではなにも仕掛けてこないでしょ。でも、連中が人手を集める前に尾行者を撒いて、ここから移動しておくべきよね」

「そうだな。――って、じゃあ、のんびり飯なんか食ってる場合じゃねぇじゃん!」

 アッシュは思わず突っ込んでしまう。それに平然とジゼルが応じた。

「お腹が空いたからお昼ご飯にしよう、って言ったのはアッシュよ?」

「いや、それは尾行されてるって知らなかったからだし。――って、だから、そんなこと言ってる場合じゃねぇっつの! 早いとこ移動しないと」

「そうなんだけど、まだ尾行者を撒くいい方法が思い付かないのよねー」

 ジゼルは暢気にお好み焼き?を口に運びながら言う。肝が座っていると言うか、さすがは軍人と言うべきか、こういう事態には慣れているようで余裕の素振りだ。

 しかし、さすがに余裕を見せ過ぎたのか、気付くと広場内の他のテーブルに着いていたはずの何組かの買い物客の姿が消えていた。アッシュとジゼルの背後にはゴーグルのようなサングラスを掛けた四人のいかつい男女が立って、彼らの背に銃らしきものを押し付けている。さすがに昨夜の男たちのような防具は着けていないものの、着物姿にそのゴツいサングラスはこの星では普通なのかもしれないが、アッシュの感覚からするとやはり笑ってしまいそうになるくらい不釣り合いだ。

「おとなしくしていれば危害は加えない。――対象を確保しろ」

 ジゼルの背後の男が低い声で言うと、部下らしき二人の女がオデットの両肩を掴んで立ち上がらせようとした。オデットはいやいやをするように抵抗する。頬杖を突いたジゼルがうんざりしたような溜め息を吐いた。

「やだわ。この街はもっと治安がいいと思ってたんだけど」

 昨夜と同様、彼女はあくまで相手を挑発する気のようだ。しかし、それはなにかの作戦などではなく単に思ったことを口にしているだけらしいことは、もうアッシュにも解っていた。なのでそれは放っておいて、素早く周囲に視線を巡らせる。

(人目は――、少しあるな。魔法を使わずにここを切り抜けるしかねぇか……)

 周囲に買い物客の姿はないが、フードコートの店舗の店員たちが不穏な気配を感じているのか遠巻きにこちらを心配そうに見ていた。彼らが警察に通報してくれるかもしれないが、逆に彼らが見ているせいで魔法を使うのは躊躇われる。

 そのアッシュが思考した一瞬の間に、ジゼルが動いていた。彼女は頭越しに背後の男の顔にカップのお茶を引っ掛けると、男が怯んだ隙に椅子を蹴立てるようにして立ち上がり、振り向きざまにその男の顎を下から掌底で突き上げる。遠心力を上乗せしたその一撃に男は吹っ飛んで、背後にあったテーブルと椅子を巻き込み派手な音を立てて倒れ込んだ。

「貴様!」

 アッシュの背後の男がジゼルに銃を向ける。その隙に、アッシュも椅子から立ち上がって振り返ると、その男の横っ面に右拳を叩き付けた。しかし、その拳は男の顔を軽く仰け反らせただけで、すぐにその男はアッシュに銃を向け直す。

(うわ。俺、あいつよりパンチ力ねぇ……)

 軽くショックを受けたが、そんな悠長なことを考えている暇はない。もう一度拳を握るが、それを打ち出すよりも早くジゼルの足払いがその男を転倒させていた。ジゼルはそのままもう一回転し、オデットを掴んでいた女の一人に回し蹴りを食らわせる。その女はオデットから手を離し、蹴りを食らった脇腹を押さえて呻きながら膝を突いた。更に、転倒した男の腹を思い切り踏み付ける。

 アッシュの出る幕など全くない。ジゼルは素手でも圧倒的に強かった。アッシュは感心してしまったが、すぐにそんな場合ではないことに気付いてオデットの足元のチッピィに叫ぶ。

「チッピィ、そいつに噛み付いてやれ!」

(チッピィ、噛み付く!)

 チッピィはその命令を忠実に実行し、オデットを掴んでいるもう一人の女の足に思い切り牙を突き立てた。その女は悲鳴を上げて反射的にオデットから手を離し、足に食らい付いている犬のような生き物を振り払う。

「ダーリン、逃げるわよ!」

「おう!」

 ジゼルがオデットの手を引いて走り出した。彼女の呼び掛けに応えて、アッシュは素早く買い物した荷物を抱え込むとチッピィを呼ぶ。

「チッピィ、逃げるぞ!」

(チッピィ、逃げる!)

 アッシュはチッピィを連れてジゼルの後を追った。ジゼルはその彼の姿を見て呆れたような感心したような声を上げる。

「ダーリン、よく荷物なんか持ってこられたわねー」

「せっかく買ったんだ。勿体ねぇだろ。あと、カテジナから借りた着物なんかも失くしたら悪いし。ていうか、ダーリンって言うの止めろ」

 二人はそんなことを言い合いながら、それぞれオデットとチッピィを連れて、駐車場を目指して走っていった。

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