第2話 跡継ぎを産めない妻はいらないそうです
「跡継ぎのことなんだ」
深夜の書斎に響いた夫の声は、微かに震えていた。
アリシアは机の上に置かれた決裁書類からゆっくりと視線を上げ、デスクの向こう側に立つレオハルトの顔を見つめた。
彼の視線は宙を泳ぎ、決してアリシアの目を見ようとはしない。長年連れ添った妻に決定的な一言を放つだけの覚悟が、彼には欠けていた。
「君を責めているわけじゃない。だが、グレイフェルト家には跡継ぎが必要だ」
レオハルトは自分に言い聞かせるように、早口で言葉を紡ぐ。
「五年だ。五年待った。これ以上は、家のためにも当主としての私の立場のためにも、限界なんだ」
すべては家のためであり、自分は悪くないのだと主張する、典型的な責任転嫁の話法だった。アリシアの胸の奥で、微かな落胆が冷えていく。
レオハルトは一度言葉を切り、ぎゅっと拳を握りしめてから、決定的な一撃を放った。
「セレスティアが、私の子を身ごもった」
その瞬間、アリシアの頭の中で何かが弾けることはなかった。
代わりに、まるで乱雑に積まれた帳簿が、熟練の計算手の手によって一瞬にして整理されていくような、研ぎ澄まされた冷静さが脳内を支配した。
先月の十五日。セレスティアが「少し休ませて」と客室に長く籠もっていた日。
その前の月の二十三日。レオハルトが「急な付き合いだ」と言って帰りを深夜まで遅らせた日。
さらに前の月の、十日。六日。
記憶のページが風に煽られるように捲られ、彼らが二人きりで会うことができたであろう空白の時間が、赤インクで線を引かれたように次々と浮かび上がってくる。
「……そうですか」
アリシアの口から出たのは、自分でも驚くほど平坦な声だった。
レオハルトは妻が泣き叫ばないことに安堵したのか、それとも予想外の反応に戸惑ったのか、泳いでいた視線をわずかにアリシアに向けた。
だが、彼は休むことなく次の刃を振り下ろした。
「それから、もう一つある。これを見てくれ」
レオハルトが引き出しから取り出し、机の上に滑らせたのは、数枚の羊皮紙だった。
「君が家計から個人的に流用していた記録だ」
アリシアは無言でその羊皮紙を手に取った。
自分の名が記された横領の記録。一番下には、確かに彼女のものに『見える』署名があった。
だが、アリシアはすぐにそれが偽造であることを看破した。
まず、紙質だ。屋敷の帳簿に使われているのは羊皮紙の等級が一つ上のものだが、これは安価な代用品だ。
次に、インクの滲み方。数ヶ月前の記録とされている日付に対し、インクの定着具合が新しすぎる。
そして何より、署名の筆跡。彼女特有の「特定の崩し」が、見事に抜け落ちていた。
(罠だ)
これは単なる不貞の言い訳ではない。自分をこの家から完全に排除するための、用意周到な罠だ。
アリシアの武器は観察と帳簿だ。彼女は即座に声を荒げるような愚かな真似はせず、証拠の紙を静かに机へ戻した。
* * *
その時、背後の扉が開き、甘い香水の匂いが書斎に流れ込んできた。
「お話し中、ごめんなさいね」
入ってきたのはセレスティアだった。
昼間の客人としての装いとは違い、上質な夜会着のような室内ドレスを纏い、その髪型や装飾は、まるで今すぐにでもこの家の女主人になるかのような華やかさだった。
彼女はレオハルトの隣に並び立つと、愛おしげに自分の平らな下腹部を撫でた。
その仕草はあまりにも計算高く、同性の目から見れば、どこか虚構の芝居じみてさえ見えた。
「あなた、本当に便利な奥様だったわ」
セレスティアは、美しく整った顔に勝者の微笑みを浮かべて言った。
つい数時間前まで「アリシア様」と呼んでいた口が、今は皮肉を込めて「奥様」と呼び、しかも「便利な」という修飾語までつけている。
五年間、善意で子どもの世話を引き受け、夫の幼馴染として礼儀を尽くしてきた相手からの、この上ない侮蔑だった。
「私の立場は理解しました」
アリシアは静かに立ち上がった。
「離縁には同意します。ですが、婚姻時の契約に基づき、私の持参金と事業利益の一部は返還していただきます。それが清算され次第、この屋敷を出ていきましょう」
正当な権利の主張。だが、レオハルトの表情は固く、セレスティアは小さく鼻で笑った。
レオハルトは別の書類を机に叩きつけるように置いた。
「君は受け取りを放棄したはずだ。書類がある」
示された紙には、持参金の受け取りを放棄するという文言と、またしても巧妙に偽造されたアリシアの署名があった。
「君は家計から横領し、さらに私を裏切るような真似をした。温情で訴え出ないでやるのだから、身一つで今すぐ出ていってもらおう」
声を奪われるとは、こういうことか。
アリシアは冷たい壁に背を押し付けられたような感覚を覚えた。彼らは最初から、自分のすべてを奪い尽くすつもりだったのだ。
* * *
わずかな着替えだけを古びた鞄に詰め込み、アリシアは自分の部屋を出た。
廊下の薄暗い照明の下、年老いた執事が待っていた。
「あの……」
「これを。必ず、私の実家であるヴェルディーニ家へ届けてください」
アリシアが手紙を差し出すと、執事は怯えたように目を逸らし、後ろめたさを隠しきれない手つきでそれを受け取った。
五年仕えた女主人を、彼はもう「奥様」とすら呼べなかった。
彼もまた、次の女主人となるセレスティアの報復を恐れているのだ。この家にはもう、アリシアの味方は一人もいなかった。
玄関へ向かって歩き出した時、不意に小さな影が廊下の角から顔を覗かせた。
エミルだ。彼の手は、背後に隠れるリリィの小さな手をしっかりと握っていた。
「アリシア様、どこに行くの」
エミルの声は不安に揺れていた。夜中に荷物を持ったアリシアの姿が、八歳の少年にもただ事ではないと伝わっている。
アリシアは膝を折り、エミルと目線を合わせた。
「お屋敷を、少しだけ離れるの」
それは子どもに対する精一杯の、そして嘘ではない言い訳だった。
だが、その後ろからリリィが飛び出してきて、アリシアのスカートにすがりついた。
「やだ、アリシアといく」
泣きそうな顔で見上げるリリィの温かい体温が、アリシアの胸を鋭く締め付けた。
その小さな背中を抱きしめようと手を伸ばした瞬間、冷ややかな声が上から降ってきた。
「この子たちは私が連れていくわ。母親ですもの。今日からはレオハルト様と一緒に育てます」
いつの間にか背後に立っていたセレスティアが、リリィの腕を強引に引き剥がした。
「いや! やだ、アリシアぁ!」
泣き叫ぶリリィに対し、セレスティアは一切の感情を交えずに冷たく言い放つ。
「お母さまの言うことを聞きなさい。さあ、こちらへいらっしゃい」
エミルが小さく一歩前に出た。何かを言おうと口を開きかけ、しかし大人たちの圧に押されて、震える唇をきつく結んだ。
言いたい言葉が、八歳の喉につかえて出てこなかった。
反論しようとしたアリシアの言葉は、横領という偽の事実と、それを盾にする彼らの態度によって冷酷に封じ込められた。
今の彼女には、法的にも立場の面でも、この子たちを守る権利は欠片も残されていなかった。
* * *
屋敷の重い扉が、アリシアの背後で鈍い音を立てて閉ざされた。
手渡されたのは、王都の隅へ向かうだけのわずかな馬車代だけ。
振り返ることは許されなかった。門番が冷たい目で彼女を見張り、屋敷の使用人たちも窓の隙間から息を潜めて見つめている。
五年間、身を粉にして尽くしたこの家から、彼女は真夜中に一人、文字通り身一つで放り出された。
だが、夜風が運んでくる耳の奥のリリィの泣き声に比べれば、その事実はあまりにも軽かった。
あの子たちを置いてきてしまった、という痛みが、追放の痛みより重かった。




