第1話「夫の幼馴染は、今日も子どもを置いていく」
「奥様にお客様です」
執事の言葉に、アリシアは溜息を呑み込んだ。
今日も来た。夫の幼馴染が。
応接間へ向かう廊下を急ぎ足で歩きながら、アリシアは今日これまでに終わらせた仕事の山を頭の中で反芻した。
夜明け前、凍えるような石造りの階段を降りて厨房へ向かい、領兵のための冬季保存食の出来を確認した。
塩漬け肉の樽を開け、自ら指で表面の硬さを確かめ、塩の配合比率を料理長に細かく指示し直す。さらに、納品された小麦がわずかに湿気を帯びていることを見抜き、出入りの商人へ三割の値下げ交渉を行うよう、確固たる筆致で発注のメモを書き殴った。
朝食後は休む間もなく、執事と当日の取引先対応の打ち合わせをこなし、次々と持ち込まれる家政の相談を裁いた。体調不良で休んだメイドの穴を埋めるため、使用人たちの配置をパズルピースのように組み直し、不満が出ないよう労いの言葉と共に指示を出す。
そして先ほど、夫レオハルトの書斎へ赴き、彼が目を通すべき決裁書類を分野ごとに綺麗に揃え、目印の栞を挟んで机の中央に置いてきたばかりだった。
五年でこの家を立て直したのは彼女だ。だが、家中の誰もそれを口に出さない。
夫の書斎に整えた書類の横、毎朝彼のために淹れておく熱いお茶は、いつだって二杯目を求められることはない。冷めていくばかりの茶器の姿が、この家におけるアリシアの本当の立ち位置を静かに物語っていた。
応接間の重いオーク材の扉を開けると、鼻を突くほど甘い香水が漂ってきた。
「ごめんなさいね、アリシア様」
アリシア自身が商会と粘り強く交渉して買い付けた最高級の絨毯の上で、上質な絹のドレスを揺らし、ソファから立ち上がったのはセレスティアだった。
美しく、どこか頼りなげで、男が思わず庇護したくなるような空気を纏った女性。
彼女の足元には、二人の小さな影が立っていた。
「ちょっとだけ預かってくださる? 王都で大事な集まりがあって。どうしても外せないの」
セレスティアは困ったように首を傾げて微笑む。母親としての責任感も、家主の妻に丸投げすることへの悪びれる様子もそこにはない。
八歳になる長男のエミルが、母親の影から一歩前に出て、礼儀正しく深く頭を下げた。
「アリシア様、おはようございます。今日も、よろしくお願いします」
その隣から、四歳になる長女のリリィがとてとてと駆け寄ってくる。
「アリシア、だっこ」
小さな両腕を伸ばすリリィの背中には、実の母親の視線は微塵も向けられていない。アリシアはインクの染みが抜けきらない指先をエプロンで隠し、そっとしゃがみ込んで温かい小さな体を抱き上げた。
数十分後。
玄関の車寄せでセレスティアの馬車を見送る際、いつの間にかレオハルトもそこへ姿を見せていた。
「ありがとう、レオハルト様。いつも頼ってしまってごめんなさい。あなたがいてくれて、本当に心強いわ」
別れ際、セレスティアの白く細い指先が、レオハルトの上着の袖に軽く触れた。
少し離れた場所でリリィを抱いたままそれを見ていたアリシアの胸に浮かんだのは、嫉妬や怒りのような熱い感情ではなかった。
ただ「またか」という、鉛のように重く、どこまでも冷たい疲労感だけだった。
妻である自分が一日中屋敷の裏方を駆け回り、数字と埃に塗れて泥臭く働いている間、夫は美しい幼馴染のために時間を割き、その甘えを心地よさそうに受け入れる。
馬車が動き出した後、レオハルトの視線がふとアリシアの方を向いた。リリィを抱くアリシアの腕の、たくし上がったブラウスの袖口にインクの染みが滲んでいる。レオハルトはそれを見てから、気まずそうにさっと目を逸らして屋敷の奥へと戻っていった。
* * *
日が傾き始めた図書室。
「……そこで、勇敢な猟犬は深い森の奥へと進み、迷子の子羊を見つけ出しました」
アリシアが古い童話を読み上げると、隣の長椅子に座るエミルは真剣な目でページを見つめ、静かに頷いた。八歳という年齢にしては大人びたその横顔は、年下の妹を気にかけながら、静かに本の文字を追っていた。
一方、彼女の膝の上では、リリィがすっかり安心しきって丸くなっていた。
アリシアは左腕でリリィの背中を一定のリズムでトントンと叩きながら、右手では商会から届いたばかりの分厚い帳簿を捲っている。凝り固まった肩の痛みと戦いながら、視線を行ったり来たりさせて細かい数字の不備を追った。
血の繋がらない他人の子どもをあやしながら、巨大な伯爵家の財政を一人で管理する。
いつの間にか、この歪で過酷な光景が、アリシアの日常に完全に組み込まれていた。
夜になり、客室のベッドで二人を寝かしつけた。
規則正しい寝息を立てる小さな顔を見下ろしていると、ふと、限界まで疲弊した胸の奥底に、黒く冷たい感情がよぎった。
(この子たちは、私の子じゃないのに)
なぜ、私がこれほど身を粉にして世話を焼いているのか。本来なら、実の母親が抱きしめ、実の父親が絵本を読むべきではないのか。私には、そのどちらの権利も義務もないはずなのに。
だが、寝返りを打ったリリィが、アリシアの服の裾を小さな手でぎゅっと掴んで離さないのを見て、アリシアは即座にその考えを打ち消した。
この小さな命たちに、何の罪もない。大人の事情で振り回されている彼らこそが、一番の被害者なのだ。
「……おやすみ」
アリシアはそっと毛布を掛け直すと、子どもたちの温かい寝顔から離れるように、自らの冷たい仕事場へと足を向けた。
* * *
深夜の書斎。
静寂の中、暖炉の火が小さく爆ぜる音と、ペンが羊皮紙を擦る音だけが響いていた。
アリシアが明日の薪の調達予算を計算し終えた時、不意に背後の重い扉が開いた。
振り返ると、そこに立っていたのはレオハルトだった。
「アリシア」
「はい」
「……大事な話がある」
彼の声は不自然なほど硬かった。視線はアリシアを真っ直ぐに見ず、空を泳ぐように部屋の隅を彷徨っている。
アリシアは静かにペンを置いた。
何か面倒な交渉事でも持ち込まれたのだろうか。それとも、またどこかの商会と支払いで揉めたのか。
彼女は冷めきった紅茶のカップを脇へ退け、帳簿を閉じて夫に向き直った。
「跡継ぎのことなんだ」




