表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身分違いの朝食係はもう辞めます、辺境公爵家で病人食を作ります。  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/68

第65話 手を離す日

冬祭りの朝、広場には二つの大鍋が並んだ。一つは祭りの濃い肉汁。香草と酒の匂いが広場いっぱいに広がり、子どもたちが湯気の周りを走っている。


 もう一つは、薄い麦と根菜の汁だった。香りは弱く、塩は控えめで、横には小さな札が立っている。


『体調の戻りかけの方へ。温かいうちに、少しずつ』


 この札の文を決めるだけで、食養院では半日議論した。病人用と書けば、手に取る人が恥じるかもしれない。特別食と書けば、元気な人が面白がって取るかもしれない。結局、体調の戻りかけ、という言葉に落ち着いた。


 リディアは広場の端で、鍋を見守っていた。直接混ぜているのは見習いのエダである。ラウム村から来た彼女は、絵の記録板を広める役として食養院に滞在していた。字はまだたどたどしいが、人を見る目は確かだった。


 最初に薄い汁を受け取ったのは、長い咳のあと外に出られるようになった老人だった。エダは椀を小さめにし、熱すぎないことを確かめてから渡した。


「足りなければ、あとで足せます」


 老人は少し笑った。


「足りないと言えるのは、よいな」


 リディアはそのやり取りを聞いて、胸が温かくなった。手を出したくなる瞬間は何度もあった。塩の皿が少し遠い。椀の列が詰まりかけている。濃い汁の匂いが風向きで薄い汁の鍋へ流れている。


 けれど、エダが気づく。ハンナが皿を移す。


 若い領主の子が列を分ける。リディアが動く前に、誰かの手が動いた。


 それは、彼女が待っていた光景だった。昼過ぎ、エルヴィンが広場の端へ来た。彼は濃い肉汁の椀ではなく、薄い汁の椀を持っている。


「公爵様まで、こちらですか」


「朝から会議で胃が重い」


「正しい選択です」


 彼は椀を口に運び、うなずいた。


「エダの火加減か」


「はい」


「君の味ではない」


 リディアは少しだけ驚いた。エルヴィンは続ける。


「だが、よい味だ」


 その言葉に、リディアの目の奥が熱くなった。自分の味ではない。


 けれど、よい味。それは手を離す日の、何よりの褒め言葉だった。


 夕方、広場の記録板にはたくさんの印が残った。薄い汁を一口だけ飲んだ人、半分飲んだ人、濃い汁へ戻った人、匂いでやめた人。祭りの記録としては地味だが、次の冬に役立つ。


 エダは板を抱え、リディアに言った。


「夫人。明日の朝、写しを作ります」


「お願いします」


「私が、ですか」


「あなたが記録係です」


 エダは何度も瞬きをし、それから大きくうなずいた。祭りの鐘が鳴る。


 リディアは広場を見渡した。自分の手を離れた鍋が、人を温めている。


 寂しさはあった。けれど、その寂しさの中には、確かな安堵が混じっていた。


 もう一人で、すべての朝を背負わなくていい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ