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身分違いの朝食係はもう辞めます、辺境公爵家で病人食を作ります。  作者: 小竹X


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第48話 母の木匙

養家から届いた古い箱は、冬の始まりの朝、雪を薄くかぶっていた。差出人の名は、リディアを育てた子爵家の家令である。箱に添えられた短い手紙には、倉庫の整理中に見つかった母セラの遺品を送る、とだけあった。


 謝罪の言葉はない。けれど、返すべき物を返したという事実はあった。


 リディアはそれで十分だと思った。食養院の小部屋で箱を開けると、乾いた布の匂いがした。中には古い前掛け、布で包んだ小さな薬草束、そして木匙が一本入っていた。


 木匙は、柄の先が少し焦げている。何度も鍋底に当たった跡があり、縁はなめらかにすり減っていた。高価なものではない。王宮の厨房にある銀の匙とは比べものにならない。


 けれどリディアの指は、柄を握った瞬間に止まった。手になじむ。


 自分の手より少し大きな、誰かの手の形が残っているようだった。エルヴィンは向かいに座り、黙って見守っていた。


「母は、これで粥を混ぜていたのでしょうか」


「使い込まれている」


「王宮にいたころ、母のことを思い出すと、いつも足りないものばかり考えていました。声も、顔も、言葉も、ほとんど覚えていないから」


 リディアは匙の先を布で拭いた。


「でも、これは覚えています。母の手そのものではないのに、台所にいた人の手だとわかります」


 布包みの底には、薄い紙片が数枚あった。文字はかすれていたが、セラの手だとリディアにはわかった。温脈帳と同じ、丸くて少し傾いた字である。


『熱のあと。水を嫌がるときは、湯気を先に見せる。飲ませようと急がない』


『身分の高い人ほど、食べられないことを恥じる。恥を先にほどく』


『皿を置く手が怖いと、粥も怖くなる』


 リディアは紙片を一枚ずつ並べた。母は、ただ料理を作っていたのではない。


 食べる人の前に立つ者の振る舞いを、台所の言葉で残していた。


「公にしたいです」


 リディアは顔を上げた。


「温脈帳は王宮の資料になりました。でも、この小さな紙は、もっと多くの人に必要です。母の名だけでなく、母が見ていたことを残したい」


 エルヴィンはうなずいた。


「反対する理由はない。ただ、君自身の名も入れるべきだ」


「母のものです」


「君が読み解き、使い、広げる。そこで君の仕事になる」


 リディアは木匙を見た。王宮で彼女は、母の影を背負っていた。母がしていたことを、なぞるように働いていた。認められなければ母まで否定されるようで、怖かった。


 北境に来て、彼女は自分の手で鍋を持った。そして今、母の木匙は過去ではなく、次の手順を示している。


「では、母の名と、私の名と、食養院の名で」


「それがいい」


 その日から、リディアは古い紙片を写し始めた。難しい言葉には注釈をつけた。王宮でしか通じない薬草名は、北境の呼び名も並べた。身分の高い人への配慮は、村の老人や兵にも使える言葉へ直した。


 夜、食養院の灯りが消えたあとも、彼女の机だけが明るかった。エルヴィンが温かい麦湯を置く。


「休め」


「あと一行だけ」


「その一行を十回聞いた」


 リディアは笑い、木匙を置いた。休むことも手順の一つだと、母なら書くだろうか。


 そう思うと、胸の奥にあった寂しさが少しやわらいだ。

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