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身分違いの朝食係はもう辞めます、辺境公爵家で病人食を作ります。  作者: 小竹X


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第32話 台所の誓約書

婚約の知らせを受けて、最初に動いたのはマルタだった。彼女は祝いの言葉を述べるより先に、分厚い紙束を作業台へ置いた。


「結婚契約の草案です」


 リディアは思わず目を瞬いた。


「もう、ですか」


「王宮や親族が口を出す前に、肝心なことを文書にします」


 エルヴィンも真顔で頷いた。


「必要だ」


 草案には、通常の持参金や財産管理の項目に加え、見慣れない条項が並んでいた。リディア・ベルセは婚姻後も温脈食記の管理者であること。


 ノルドヴァルト公爵家厨房に食養部門を設け、主任の任命権を持つこと。厨房、救護所、兵舎食堂、薬草畑に関する記録は、夫人の名で保存されること。


 ただし、夫人個人への過重な集中を避けるため、必ず副主任を育てること。最後に、夫婦双方の健康記録について、相手が必要時に休養を命じることを認める、という条項まであった。


 リディアはその一文を指でなぞった。


「公爵様も署名なさるのですか」


「する」


「休養命令を受けることに?」


「あなたも受ける」


 公平だった。それがおかしくて、心強かった。


 だが、問題は外から来た。ベルセ子爵家から、急ぎの手紙が届いたのだ。


 養父は驚きと喜びを隠さない文面で、婚姻にあたってベルセ家の名誉を高めるため、リディアの持参金や王宮での未払い手当を家が管理すべきだと書いていた。さらに、公爵夫人となるなら厨房仕事は控え、養家の社交的立場を上げるべきだとも。


 リディアは手紙を読み終え、静かに折った。怒りより、疲れが先に来た。


「私を育ててくれた家ではあります」


 彼女は言った。


「ですが、私の仕事を家の飾りに使う気なら、応じられません」


 エルヴィンはすぐに答えた。


「返事はあなたの名で書く。必要なら、公爵家からも補足する」


「自分で書きます」


 リディアは紙を取った。養父への返事は、王宮への返書より難しかった。


 感謝はある。だが従わない。養女としての義理と、自分の仕事の所有を分ける。持参金ではなく、未払い手当はリディア個人の労働対価であることを明記する。


 書いていると、昔の自分が何度も顔を出した。養家に迷惑をかけたくない。身分を上げてもらった恩がある。わがままだと思われるかもしれない。


 そのたびに、台所の誓約書の条項を見た。名を消さない。


 それは王宮だけでなく、家族に対しても必要なことだった。数日後、ベルセ子爵家からの返事は冷たかった。


 だが、法的にはリディアの主張が通った。エルヴィンが裏で圧力をかけたのではない。公爵家の法務官が、リディア本人の財産権と契約を丁寧に整理しただけだ。


 その夜、リディアは台所の作業台で結婚契約草案へ署名した。華やかな誓いではない。


 けれど、そこには彼女が生きて働くための言葉がある。エルヴィンも署名した。


 二人の名の下に、マルタが証人として名を書いた。


「これで、台所の誓約は成立しました」


 マルタの声は少し誇らしげだった。リディアは紙を見つめた。


 婚姻とは、誰かの家に吸い込まれることだと思っていた。けれどこの誓約書は、二人の名を並べて残している。


 厨房の火が、静かに鍋を温めていた。

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