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異世界手紙屋の代筆帖  作者: 歩人


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9/10

第9話: 正代筆師

 試験の朝は、インクの匂いで目が覚めた。


 昨夜、練習用に書き散らした紙が物置小屋の床に散らばっている。公文書体、商用体、私信体——三種の書体を交互に書き続けて、気づいたら蝋燭が燃え尽きていた。寝落ちしたらしい。右手の中指のペンだこが、いつもより痛む。


 窓の外はまだ薄暗い。秋の朝は日が短い。


 アヤは床の紙を一枚ずつ拾い集め、鞄に詰めた。それから、胸元の仮の徽章に触れた。銀の羽ペン一本、見習い代筆師の証だ。今日の試験に受かれば、これが二本交差の正代筆師の徽章に変わる。


 指先が震えていた。




 代筆師組合の本部は、王都レクシカの中央通りから一本入った石畳の小路にあった。


 三階建ての煉瓦造り。正面に銀の羽ペンの紋章が掲げられ、重い樫の扉の脇に「代筆師組合」の銘板が古びた銅色で光っていた。


 扉を押した。


 受付の広間には、すでに五人の受験者が集まっていた。アヤを入れて六人。最年長は四十がらみの男、最年少はアヤだ。正代筆師の試験は年に一度、合格率は三割に満たない。


 受験者たちの視線がアヤに集まった。十七歳で正代筆師の試験を受けること自体が異例なのだろう。見習い期間の短縮申請が通ったのは、オットーの推薦があったからだ。


 視線に気づかないふりをして、壁際の椅子に腰を下ろした。右手のインク染みが、朝の光に黒く浮かんでいる。




 試験は三部構成だった。


 第一部、筆記。代筆師の倫理規定、書簡法の条文、書式の慣例。二時間で百問。前世の校正者時代に叩き込まれた法規知識が、この世界の法制度に重なる部分が多いことに、アヤは改めて驚いた。著作権法と書簡法。校正の倫理規定と代筆師の守秘義務。名前と体系は違えど、根底にある思想は似ている。


 書かれた言葉には責任が伴う。


 ペンが止まることなく走った。隣の受験者が何度か横目でアヤの解答速度を窺っていたが、気にしている余裕はなかった。


 第二部、書式実技。指定された条件に従い、三種類の書簡を制限時間内に作成する。


 商取引の契約書簡。婚姻の祝賀書簡。そして——離縁の通告書簡。


 契約書簡はオットーに叩き込まれた書式がそのまま出た。旧暦ではなく新暦、王都内の敬称規則、インクの色は黒。実務の細部を一つも落とさずに書き上げた。


 祝賀書簡は形式通りに。離縁の通告書簡は——


 ペンが一瞬だけ止まった。


 路地裏で書いた離縁状を思い出した。夫の暴力に耐えかねて逃げる準備をしていた女性。手が震えていた。ペンを握る指が白くなるほど力が入っていた。


 あの離縁状は、法的に完璧だった。書式に一点の誤りもなかった。


 でも——あの女性が本当に必要としていたのは、完璧な書式ではなかった。逃げていいのだと、自分で自分に許可を出すための一通だった。


 試験の離縁状に、そんな余白はない。指定された条件に従い、形式通りに書く。それが試験だ。


 アヤはペンを走らせた。完璧な書式で。一点の誤りもなく。




 第三部の前に、昼食の休憩があった。


 組合の中庭に出ると、秋の風が汗ばんだ額を冷やした。石造りのベンチに座り、朝フリッツの店で買ったパンを齧る。固いパンだが、空腹には美味い。


 中庭の向こうに、見覚えのある猫背の背中が見えた。


 オットーが、二階の窓から中庭を見下ろしていた。目が合った——気がしたが、老人はすぐに窓から離れた。試験官が受験者に声をかけるわけにはいかない。当然だ。


 けれどアヤは気づいた。窓辺に、湯気の立つ茶碗が二つ置いてあったことに。一つはオットーの分。もう一つは——誰の分でもない、ただそこに置いてあるだけの茶碗。


 あの人は、と思った。応援の言葉を言えないから、茶碗を二つ用意する。


 パンを飲み込んだ。喉の奥が少し熱かった。




 第三部、実技試験。


 試験室は組合本部の三階、普段は品評会に使われる広間だった。長机が一つ。椅子が一つ。紙とインクと羽ペンが用意されている。


 壁際に試験官が三人座っていた。


 中央の試験官は五十代の女性で、上級代筆師の徽章を胸につけている。銀の羽ペン三本交差。左右の試験官は正代筆師。そして——


 壁の隅に、もう一人。


 オットーだった。


 試験官席ではなく、傍聴席に座っている。正代筆師の資格を持つ組合員は試験の傍聴が許される。オットーは腕を組み、老眼鏡の奥から仏頂面でアヤを見ていた。


 目を逸らした。あの顔を見ると緊張する。


 中央の試験官が口を開いた。


「正代筆師認定試験、第三部実技。受験者、アヤ」


「はい」


「これより、模擬依頼を行います。依頼人役が入室しますので、聞き取りを行い、手紙を一通作成してください。制限時間は一刻いっとき。——始め」




 扉が開き、依頼人役の男が入ってきた。


 三十代半ば。仕立てのいい上着を着ているが、着慣れていない様子でしきりに襟元を直している。靴は磨かれているが、かかとのすり減り方が左右で違う。右足に重心を置く癖があるのだろう。手は大きく、爪の間に——薄い緑色が残っている。染料か。あるいは薬草か。


 アヤの目が、無意識に情報を拾っていた。万語の目。文書だけでなく、人の細部に宿る「書かれていない文字」を読む癖。


「お掛けください。本日はどのようなお手紙を?」


 男が椅子に座った。落ち着かない様子で手を膝に置き、組み直し、また置く。


「……兄に、手紙を書きたい」


「お兄様に。かしこまりました。どのような内容でしょうか」


「金を借りたい」


 短い言葉だった。男は視線を逸らし、窓の外を見た。


「三年前に兄と喧嘩して、それきりだ。今さら金の無心なんて——虫が良すぎるのは分かっている」


「喧嘩の原因を伺ってもよろしいですか」


「親父の店を継ぐか継がないかで揉めた。兄は継いだ。俺は飛び出した。薬草師になると言って。それきり一度も」


 男の声が小さくなった。


「……いや、一度だけ。先月、市場の角を曲がったところで、兄貴の店の包装紙を見た。前より柄がきれいになってた。昔は無地だったのに、隅に小さな草の絵がついててな。声はかけなかった。かけられなかった」


 短い沈黙のあと、男はわざとらしく咳払いをした。


「女房が病気でな。治療に金がかかる。薬草師の稼ぎじゃ足りない。他に頼れる相手が——兄しかいない」


 アヤは黙ってペンを持った。まだ一文字も書かない。


「つまり——お兄様に借金を申し込む手紙を、ということですね」


「ああ。いくら借りたいか、いつまでに返すか、利子はどうするか。全部きちんと書いてくれ。兄はそういう、数字にきっちりした人間だから」


 男は早口でそう言った。条件を並べ始める。金額、返済期限、担保にできるもの。商人の兄に納得してもらえる、きちんとした借用書簡を。


 アヤは条件をメモしながら、その奥を聞いていた。


 言葉の裏を。




 この男が本当に書きたい手紙は、借金の手紙ではない。


 万語の目が、そう告げていた。


 根拠はいくつもある。金だけが目的なら質屋でも金貸しでもいい。なのに兄を選んだ。「他に頼れる相手が兄しかいない」——違う。本当に頼りたい相手が兄なのだ。


 爪の間の薄い緑色。薬草師として三年間、自分の選んだ道で生きてきた。けれど妻が病に倒れ、初めて自分一人の力では守れないものがあると知った。


 借金の手紙を書いてくれと言っている。だが、この男が三年ぶりに兄に伝えたいのは、それだけではない。


「一つだけ、お聞きしてもいいですか」


 男が怪訝な顔をした。


「お兄様のこと、尊敬していらっしゃるんですね」


 沈黙が落ちた。


 男の肩が、微かに震えた。


「……ああ。兄貴は——親父の店をちゃんと継いで、立派にやってる。俺は勝手に飛び出して、結局こうやって頭を下げに来る。情けない弟だよ」


「情けないとは思いません」


 アヤの声は静かだった。


「薬草師として三年間、ご自分の力で生きてこられた。それは、逃げたのではなく、選んだのだと思います。お兄様も、きっとそれは分かっていらっしゃる」


 男が目を見開いた。


「わたしの仕事は、あなたの言葉をあなた以上にあなたらしく書くことです。ですから——借金の条件は、きちんと書きます。数字も期限も利子も。でも、もう一つだけ。あなたの言葉を、加えさせてください」




 ペンが走った。


 冒頭は借金の申し出だ。金額、返済期限、担保。商人である兄が求めるであろう条件を、過不足なく、正確な商用書簡の形式で書いた。オットーに叩き込まれた書式が、ここで生きる。


 だが手紙の最後に、アヤは一段落を加えた。


 男が言葉にしなかった一文。「兄貴は立派だ」とも「すまなかった」とも書かなかった。そんな直接的な言葉は、この男の口調には似合わない。代わりに、何気ない観察を一行だけ。


 妻の病気の治療に使う薬草の名前を書いた。三年間、薬草師として学んだ知識で選んだ薬草。その薬草を自分で調合する技術はあるが、材料を仕入れる資金がない。だから兄に頼る。


 つまり——弟は三年間、無駄に過ごしたわけではない。飛び出した先で、ちゃんと腕を磨いていた。その腕で妻を救おうとしている。ただ、あと一歩のところで手が届かない。


 金を貸してくれ、という手紙の行間に、「俺はちゃんとやっている」という報告が滲む構成。


 借金の手紙であると同時に、三年ぶりの、弟から兄への近況報告。


 最後の一行。


「追伸——兄貴の店の包装紙、前より良くなった。市場で見かけた」


 男が口にした言葉ではない。けれど聞き取りの中で、男は一度だけ兄の店のことを「立派にやってる」と言った。市場で兄の店の商品を見かけたことがあるのだろう。三年間、一度も連絡しなかったのに——兄の店を気にしていた。


 それを一行に凝縮した。




 手紙を読み上げた。


 依頼人役の男は、最後の追伸の部分で唇を噛んだ。


「……俺は、こんなこと言ってないぞ」


「はい。おっしゃっていません」


「なのに、なんで——」


 男の声が詰まった。


「なんで俺が言いたかったことが、書いてあるんだ」


 アヤは答えなかった。答える必要はなかった。依頼人の反応が、全てだった。


 試験官席を見た。


 中央の上級代筆師が、手元の採点用紙から顔を上げていた。左右の試験官も同様に。三人の目が、アヤの手紙に向けられている。


 そして——壁の隅。


 オットーが腕を組んだまま、天井を見ていた。


 表情は見えない。老眼鏡が光を反射して、目元が隠れている。けれどアヤは気づいた。組んだ腕の指先が、膝を叩いている。とん、とん、と。何かのリズムで。


 あの癖は——満足しているときの癖だ。一年半、毎週組合の書庫で見てきたから知っている。




 試験室を出ると、夕暮れだった。


 秋の日は短い。組合の窓から差し込む橙色の光が、廊下の石壁を染めている。


 合格発表は三日後。結果が届くまでの三日間、きっと眠れないだろう。


 階段を降りようとしたとき、背後から声がした。


「小娘」


 振り返ると、オットーが廊下の奥に立っていた。猫背の背中を壁にもたせかけ、腕を組んでいる。傍聴席から出てきたのだろう。


「オットーさん」


「ふん。試験の結果はまだ出ていない。浮かれるな」


「浮かれてはいません」


「顔がにやけている。自覚しろ」


 にやけてなどいない——と言いかけて、頬に手を当てた。口元が確かに緩んでいる。自覚がなかった。


「……すみません」


「ふん」


 オットーが壁から背を離した。アヤの横を通り過ぎる。万年筆が耳で揺れた。


 すれ違いざまに、低い声が聞こえた。


「あの追伸は——わしには書けん」


 足音が遠ざかっていく。アヤが振り返ったとき、オットーはもう階段の角を曲がるところだった。猫背の背中が一瞬だけ見えて、消えた。


 わしには書けん。


 五十年の経験を持つ代筆師が、そう言った。


 公文書にも外交書簡にも精通し、あらゆる書式を知り尽くしたオットーが。


 アヤは唇の内側を奥歯で軽く噛んだ。涙が出るわけではない。ただ、瞳の奥で蝋燭が灯ったような、収まらない熱だけがあった。




 三日後の朝。


 フリッツの物置小屋に、組合からの書簡が届いた。


 白い封筒に銀の封蝋。代筆師組合の紋章——羽ペン二本交差。封を切ろうとした指の腹が、紙にうっすら汗を残した。前世で出版社の合否通知を開けたときと、同じ感覚だった。あのときは不採用だった。胃の奥がひんやりする。


 紙を開いた。


「正代筆師認定試験——合格」


 声に出して読んだ。


 もう一度読んだ。


 三度目は、声が出なかった。


 膝から力が抜けて、物置小屋の床に座り込んだ。手の中の合格通知が、朝の光で白く光っている。


 正代筆師。商業書簡を扱える。組合の正規の代筆師として、看板を掲げて仕事ができる。


 路地裏の石段ではなく——自分の店で。


 封筒の中に、もう一枚紙が入っていた。小さな紙片。組合の正式な便箋ではなく、くしゃくしゃに折り畳まれたメモ用紙。


 オットーの字だった。独特の右上がりの筆跡。五十年の経験が染みついた、癖のある、けれど一文字も揺るがない字。


「徽章は組合の窓口で受け取れ。引き換えに見習い徽章を返すこと。——茶くらい出してやるから、取りに来い」


 それだけだった。おめでとうとも、よくやったとも書いていない。


 けれど——アヤは知っている。


 この人が合格通知の封筒にメモを入れるということが、この人にとってどれほど大きなことなのかを。




 組合の窓口で、見習い徽章を外した。


 銀の羽ペン一本。路地裏の石段で仕事をしていた頃、胸元で小さく光っていた徽章。オットーが見習い登録の手続きを勝手にやってくれた日から、ずっと。


 代わりに手渡されたのは、銀の羽ペン二本交差の徽章。正代筆師の証。


 胸元につけた。重さは変わらないはずなのに、一本増えた分だけ確かに重い。


 窓口の奥の部屋から、茶の匂いが漂ってきた。


「——入っていいのですか」


「勝手に来い、と書いただろう」


 オットーが、いつもの仏頂面で茶碗を差し出した。


 湯気が立っている。試験の昼休みに二階の窓辺に置いてあった、あの茶碗と同じ形をしていた。


 アヤは茶碗を受け取った。両手で包むと、じんわりと温かい。


「オットーさん」


「ふん」


「ありがとうございました。書式も、書庫も、推薦も——全部」


「ふん。礼を言うな。気持ちが悪い」


 オットーは自分の茶碗に口をつけた。一口啜って、ぼそりと言った。


「……ふん。あの追伸は、やはり悪くなかった」


 三種類ある「ふん」の、三番目——照れを誤魔化す「ふん」だった。


 アヤは茶碗の縁に口をつけて、笑った。笑い顔を隠すように。




 組合を出ると、秋の夕暮れが王都を染めていた。


 正代筆師の徽章が、夕日を受けて光っている。胸元に手を当てると、銀の二本の羽ペンが指先に触れた。


 商業書簡が扱える。看板を出せる。店を持てる。


 道のりはまだ遠い。店舗の資金も什器も仕入れ先も、何もかも足りない。


 けれど——一歩、近づいた。


 鞄の中から、くたびれた一枚の紙を取り出した。ルーカスがくれた文具店の住所。三年間で折り目はほとんど読めないほど擦り切れている。


 最初の客は俺だ。


 店を開いたら、あの約束を果たしに来てくれる人がいる。


「……もう少しです」


 誰に言うでもなく、呟いた。


 秋の風が石畳を撫で、落ち葉が一枚、足元を転がっていった。アヤは徽章に触れ、職人街の道を歩き始めた。


 言ノ葉堂。


 その看板を掲げる日が——手の届くところまで、近づいている。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


実技試験の「追伸」は、アヤの能力の核心を一行に凝縮したかった場面です。借金の手紙に兄の店の包装紙のことを書く——依頼人が言葉にしなかった本音を、依頼人自身の口調で、依頼人が見たら「俺が言いたかったのはこれだ」と膝を打つ一文にする。それがアヤの「万語の目」の本質です。文書の矛盾を見抜くだけでなく、人の言葉の行間にある沈黙を読む力。


オットーの「わしには書けん」は、書いていて手が止まった一言でした。五十年のキャリアを持つ職人が、十七歳の小娘に負けを認める。でも悔しいのではなく、嬉しいのだと思います。次の世代に技術を伝えて引退したい——その本音がぽろりと漏れた瞬間でした。


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