第8話: 路地裏の代筆屋
最初の客は、三十七日目に来た。
路地裏の石段に板を渡しただけの机。借り物の椅子と、フリッツの店で買った最も安い紙とインク。手書きの看板には「代筆承ります——私信、一通五銅リテル」。
三十六日間、その看板の前を人は素通りした。
十五歳の冬は、寒かった。
ルーカスに教えられた文具店フリッツの店主は、無口だが親切な老人だった。紙の端切れを安く分けてくれたし、店の裏の物置小屋を月五銅リテルで貸してくれた。雨風はしのげるが、冬の隙間風は容赦なく床を這う。
昼は路地裏の石段で看板を出し、客を待つ。夕方からは近くの酒場で皿洗いをして日銭を稼ぐ。夜は物置小屋の蝋燭で字の練習をする。公文書体、商用体、私信体——前世の記憶にある様々な書式を、この世界の文字に置き換えていく作業。
三十六日間、誰も来なかった。
当然だった。代筆を頼むなら、組合に登録された正規の代筆師に頼む。路地裏の石段に座っている十五歳の小娘に手紙を任せる人間は、普通いない。
三十七日目。
雪がちらつく午後、路地に面した靴修理屋の主人が、看板を二度見してからアヤの前に立った。五十がらみの男で、革エプロンにはいくつもの焦げ跡がついている。
「あんた、代筆ってのは——手紙を書いてくれるのかい」
「はい。ご用件をお聞きして、お手紙の形にいたします」
「いくらだ」
「私信でしたら、一通五銅リテルです」
靴修理屋は太い眉を寄せた。五銅リテルは組合の正規料金の半額以下だ。怪しいと思っているのだろう。
「女房に手紙を書きたい。——隣町に帰った女房にだ」
「……喧嘩を、されたのですか」
「二十年一緒にいて、先月出て行った」
靴修理屋は椅子がないので石段に腰を下ろした。大きな手が膝の上で所在なさげに組まれている。
「何を書けばいいか分からん。戻ってきてくれ、と言いたいんだが——そう書いたら怒るだろうな」
「なぜ怒ると思われるのですか」
「出て行った理由がそれだからだ。俺がいつも、大事なことを言葉にしないって」
アヤはペンを取った。
「では、言葉にしなかった大事なことを——一つだけ教えていただけますか」
靴修理屋は長い間黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「朝飯の卵焼き。二十年間、毎朝作ってくれた卵焼きが……美味かった。一度も、言わなかった」
アヤの指が動いた。
手紙は短かった。卵焼きのことしか書いていない。「戻ってきてくれ」とも「悪かった」とも書かなかった。ただ、二十年分の朝の卵焼きのことを、靴修理屋の口調そのままに書いた。不器用で、飾りがなくて、だからこそ嘘がない言葉。
十日後、靴修理屋が路地裏に走ってきた。
「帰ってくるって。——女房が帰ってくるって手紙が来た」
その顔を見たとき、アヤは思い出した。孤児院で手紙係をしていた頃、文字が書けない子の代わりに手紙を書いたときのこと。手紙が届いたと知った瞬間の、あの顔。
自分の声が、初めて誰かに届いたと知った顔。
靴修理屋の口コミは、思ったより早く広がった。
職人街の人間は口が堅いようでいて、実は井戸端の情報網が凄まじい。「路地裏の小娘に頼んだ手紙で女房が帰ってきた」という話は、一週間で界隈に知れ渡った。
二人目の客は、パン屋の娘だった。市場で出会った兵士に恋文を出したいという。十七歳。頬を真っ赤にして、もじもじと石段の前に立っていた。
「あの人は……剣が上手くて、背が高くて、笑うと目が細くなって……」
「その方の、どこが一番好きですか」
「……迷子の猫を、追いかけてたんです。鎧を着たまま路地裏を走って。あの人が捕まえた猫は、三日前から市場で迷子になっていた子で」
アヤは恋文を書いた。猫のことを中心に。剣の腕前でも背の高さでもなく——鎧のまま猫を追いかけた、その一瞬を。
パン屋の娘は手紙を読んで泣いた。「わたしが言いたかったのは、これです」と。
その夜、物置小屋の隙間風の中で、アヤは自分が書いた恋文の写しを蝋燭の灯にかざした。他人の想いを言葉にするのはこんなに簡単なのに、自分の中にある、誰かの灰銀色の髪を思い出すこの感覚を文章にしようとすると、ペンが止まる。代筆師は自分の恋心は書けないのだ、と思い、少しだけ笑った。「最初の客は俺だ」と言ったあの声が、隙間風と同じ温度で耳の奥に残っていた。
十五歳の終わりから十六歳にかけて、依頼は少しずつ増えた。
恋文が多かった。この世界では恋文の巧拙が縁談を左右する。貴族だけでなく、庶民の間でもそれは同じだ。想いを形にできない人間は、代筆師を頼る。
けれど恋文だけではなかった。
離縁状を頼みに来た女がいた。夫の暴力に耐えかねて、逃げる準備をしている。手が震えていた。アヤは離縁状の形式を調べ、法的に有効な文面を整えた。最後の一行に、女が自分で署名するのを見守った。ペンを握る指が白くなるほど力が入っていた。
遺言を頼みに来た老人がいた。病床から這うようにして路地裏まで来た。息子に伝えたいことがある、と。喧嘩別れしたまま十年会っていない息子に。
「許してくれとは言わん。ただ——あいつが元気でやっているなら、それでいい」
アヤは遺言の形式に則りながら、その一文だけは老人の言葉のままに書いた。公文書の書式の中に、一文だけ生の声が混じる。それが正しい遺言かどうかは分からない。でも、正しい手紙だと思った。
十六歳の夏。依頼が週に三、四件になった頃、事件が起きた。
昼下がり、路地裏の石段で依頼人——八百屋の主人——の商用書簡を書いていたとき、影が落ちた。
見上げると、痩せた老人が立っていた。白髪がぼさぼさだが清潔で、灰色の目が老眼鏡の奥で鋭く光っている。耳に万年筆を挟み、くたびれた作業着のポケットから紙片がはみ出している。指先がインクで黒ずんでいた——アヤと同じだ。
「ふん。ここか」
第一声がそれだった。
「路地裏で板切れの机を出して、組合にも入らずに代筆をやっている小娘というのは」
八百屋の主人が身を引いた。老人の作業着の胸元に、代筆師組合の徽章が光っている。銀の羽ペンを二本交差させた意匠——正代筆師の証だ。
「あ、あんたは——」
「オットー・ブラントだ。代筆師組合に五十年いる」
アヤは立ち上がった。石段の上に立っても、老人を見上げる形になる。
「申し訳ありません。わたしは見習い登録もしていないことは承知しています」
「承知している? 承知していてやっているなら、なおのこと質が悪い」
オットーは老眼鏡を押し上げ、アヤの机の上を一瞥した。書きかけの商用書簡。予備の紙。インク壺。安物の羽ペンが二本。
「ふん。道具だけは一丁前だな。——見せろ」
「え?」
「今書いている手紙だ。見せろと言っている」
拒否する理由はなかった。依頼人の八百屋の主人が小さく頷いたのを確認してから、アヤは書きかけの商用書簡を差し出した。
オットーは紙を持ち上げ、老眼鏡越しにじっと見つめた。一行目から最後の行まで。それから裏返して、紙の透かし模様を確認した。
長い沈黙があった。
「……字は読める。書式も、まあ、間違ってはいない」
それが褒め言葉なのかどうか、アヤには判断がつかなかった。オットーの表情は仏頂面のまま変わらない。
「だが甘い。三行目、『御社の益々の御発展を祈念し』——これは貴族間の書式だ。商人同士の書簡に使う表現ではない。相手に格上扱いされていると思わせる。不快に取る商人もいる」
指摘は正確だった。アヤの中で、前世の校正者が反応する。一行目の違和感の正体——確かに、書式の格が合っていない。
「四行目。納品期日の表記が旧暦だ。王都では三年前に新暦に統一されている。辺境との取引ならまだしも、王都内の商取引で旧暦を使えば混乱のもとになる」
「……はい。おっしゃる通りです」
「ふん。素直なのは認めるが、素直なだけでは手紙は書けん」
オットーが書簡をアヤに返した。灰色の目が、アヤの顔をまっすぐに見た。
「小娘。お前、なぜ組合に入らない」
「資金が足りません。見習い登録に銀リテル三十枚——今の稼ぎでは、あと一年はかかります」
「ふん。金の話をしているのではない」
オットーの声が低くなった。
「なぜ——組合の試験を受けようとしない、と聞いている」
アヤは言葉に詰まった。
試験。正代筆師の試験。それは見習い登録をしてから最低二年の実務経験を積んだ後に受けるものだ。順番が違う。
「お前の書く字には癖がある。独学だな。師匠について体系的に学んだ人間の字ではない。だが——」
オットーの口が一瞬だけ、何かを飲み込むように動いた。
「——行間に、筋がある。依頼人の声を拾う勘が、独学にしては鋭すぎる」
褒められたのだと気づくまでに、三秒かかった。オットーの表情は相変わらず不機嫌そのもので、口調も棘だらけだったから。
「わしは五十年この仕事をしてきた。腕のいい代筆師も、才能だけの若造も、山ほど見てきた。お前は——」
言いかけて、口を閉じた。
「……まあいい。見習い登録もせずに路地裏で店を広げるのは、組合の規約違反だ。本来なら差し止め処分を申請するところだが」
「あの」
「だが」
オットーがアヤの言葉を遮った。
「お前が書いた手紙を持ってきた依頼人が、組合の窓口に苦情を言いに来たことがある。知っているか」
「苦情……?」
「『路地裏の娘の方が、組合の代筆師より上手い。同じ値段を払うのが馬鹿らしい』とな」
アヤは絶句した。
「ふん。組合の面子が潰れる。だから差し止めたいのだが——差し止めた結果、あの靴修理屋の女房が帰らなかったことになるわけでもない」
オットーが背を向けた。
「一年後だ。一年後に組合試験がある。見習い登録の銀リテル三十枚は——」
足が止まった。
「……ふん。わしに貸しを作りたくなければ、自分で稼げ。だが試験を受けるなら——書式の基礎くらいは叩き込んでやる。週に一度、組合の書庫を使わせてやるから来い。勝手に、な」
それだけ言って、オットーは路地裏を去っていった。猫背の背中が角を曲がるまで、アヤは石段の上で呆然としていた。
オットーの「勝手に来い」は、命令だった。
翌週から毎週、組合の書庫に通った。オットーは表向き「勝手に来ている小娘を追い出すのも面倒だ」という態度を崩さなかったが、アヤが書庫に入ると、必ず今日読むべき資料が机の上に用意されていた。
公文書の書式集。商取引書簡の慣例集。過去百年の名文書簡選。そして——恋文の作法書。
「ふん。恋文の書式だけは教えてやれん。わしは五十年独り身だからな」
不機嫌そうに言うオットーの机の引き出しから、古い恋文が一通だけ、端がはみ出していたことに——アヤは気づいたが、何も言わなかった。
十六歳の冬。依頼が週に十件を超えた。
石段の机では足りなくなり、フリッツの物置小屋の一角を作業場にした。小さな窓から差し込む光の下で、一通一通、手紙を書いた。
商用書簡の書式はオットーの指導で格段に上達した。旧暦と新暦の使い分け、地方ごとの敬称の違い、インクの色の使い分け——独学では気づけなかった実務の細部が、一つずつ埋まっていく。
それでも、アヤが最も多く書いたのは庶民の私信だった。
息子への手紙。娘への手紙。恋人への手紙。友人への手紙。離れた家族への手紙。
文字が書けない人間がこれほど多いことに、前世では想像もしなかった。この世界の庶民の識字率は驚くほど低い。読める人間でも、書ける人間は限られる。書けても、自分の想いを「届く形」にできる人間はさらに少ない。
つまり、伝えたいのに伝えられない言葉が——この王都には、溢れているのだ。
十七歳の夏。
路地裏で常連客の染物屋の妻——夫の転勤で遠方に引っ越す友人への別れの手紙——を書いていたとき、オットーがふらりと現れた。
「ふん。まだ路地裏か」
「そろそろ場所を探したいとは思っているんですが」
「金は貯まったのか。見習い登録の」
「あと銀リテル八枚です」
「ふん。呆れた。一年半でそれしか貯められんのか」
棘のある言い方だが、アヤはもう慣れていた。オットーの「ふん」には三種類ある。本気で呆れている「ふん」と、感心を隠している「ふん」と、照れを誤魔化す「ふん」。今のは二番目だ。
「見習い登録の件だが」
オットーが老眼鏡を外し、布で拭いた。何かを切り出すときの癖だ。
「登録は済ませておいた」
「——え?」
「お前の書いた手紙を十通、わしが品評して組合に提出した。見習い登録の推薦だ。登録料は——まあ、わしの貸しだ。返さんでいい」
「オットーさん、それは——」
「ふん。勘違いするな。アヤが路地裏で無登録のまま代筆を続けると、組合の監査でわしの首が飛ぶ。自己保身だ」
「お前」と「小娘」しか使わなかった老人が、初めて名前を呼んだことに、アヤは気づいた。気づいた素振りは見せなかった。代わりに、深く一礼した。
自己保身。そう言いながら、オットーの耳の先が赤いのをアヤは見逃さなかった。
「それと——秋の試験だ」
「試験?」
「正代筆師の試験だ。お前の腕なら、見習い期間の短縮申請が通る。推薦はわしが書く。だから——」
オットーが咳払いをした。
「——秋までに、わしを超える手紙を一通、書いてみろ」
組合の書庫を出て、路地裏に戻った。
夏の日差しが石段を焼いていた。冬の間は冷たかった石が、今は座ると熱いほどだ。この石段の上で三十七日間客を待ち、最初の恋文を書き、離縁状を書き、遺言を書いた。
見習い代筆師。
胸元に、オットーが手渡した仮の徽章がある。銀の羽ペン一本——正代筆師の二本交差には、まだ届かない。
だが、道は見えた。
秋の試験。正代筆師の資格を取れば、商業書簡も正式に扱える。扱える仕事の幅が広がる。そして——店を持てる日が、一歩近づく。
言ノ葉堂。
まだ名前しか決まっていない、どこにもない店。けれど路地裏の石段に座るたびに、その輪郭が少しずつはっきりしてくる。
アヤは鞄から一枚の紙を取り出した。ルーカスがくれた文具店の住所が書かれた紙。二年半の間に折り目がすっかりくたびれて、端が擦り切れている。何度も開いて、何度も読み返した跡。
最初の客は俺だ。
あの約束は、まだ生きている。ルーカスから手紙が来たことは一度もない。けれど、約束が破られた気はしなかった。あの人は嘘をつかない。花押が正直な人は、言葉も正直だ。
アヤは紙を鞄に戻し、ペンを取った。
秋までに、オットーを超える一通を書く。
その一通が何になるかは、まだ分からない。恋文か。商用書簡か。それとも——まだ見ぬ誰かの、まだ聞いていない想いか。
路地裏に風が吹いた。夏の風が紙をそっとめくり、白い頁が光を弾いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は約二年間をダイジェストで描く回でした。靴修理屋の「卵焼きの手紙」は、この物語でやりたいことの縮図です。二十年分の「美味かった」を一通の手紙にする。言葉にしなかった大事なことを、代わりに形にする。アヤの仕事の本質がここにあります。
オットーは書いていて最高に楽しいキャラでした。「ふん」しか言わないのに全部バレている。褒めるときほど口が悪くなる。五十年独り身なのに引き出しに古い恋文が入っている。この人の過去もいつか書きたいと思っています。
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