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異世界手紙屋の代筆帖  作者: 歩人


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第1話: 石碑の文字

 文字には、かたちがある。


 五歳のアヤはそのことを、誰に教わったわけでもなく知っていた。中庭の隅に立つ古い石碑——苔むして傾き、大人たちが見向きもしなくなった灰色の石に、文字は彫り込まれている。指先でなぞると、冷たい石の上に溝がある。まっすぐな線、曲がった線、交差する線。それらが組み合わさって、なにかの意味になる。


 その「意味」がどうしても知りたかった。


 他の子どもたちが中庭で泥団子を投げ合っている間、アヤはいつも石碑の前にしゃがみこんでいた。指の腹で一画一画をなぞっては、その形を瞼の裏に焼きつける。ときどき、ふしぎな既視感に襲われた。この線の並びを、わたしは知っている——そんな感覚が、水底から泡のように浮かんでくる。


 それがなにを意味するのか、五歳のアヤにはうまく言葉にできなかった。


「またそこにいるの、アヤ」


 穏やかな声に振り向くと、マルタ院長が立っていた。白髪まじりの茶色い髪を修道女の頭巾で覆い、数珠を手に携えた、ふくよかな女性だ。笑うと目が線になって、皺がたくさんできる。アヤはその皺が好きだった。


「マルタさま。この字、なんて読むの?」


 アヤが石碑の一番上の行を指すと、マルタは膝をついてアヤの目線まで降りてきた。老眼をしばたたかせながら石碑を見つめ、それから微笑む。


「『リリスの子らに、言葉の光を』」


 アヤは息を吸った。唇の中で復唱する。リリスの子らに、言葉の光を。言葉が、光に喩えられている。


「ここに書いてあるのは、この孤児院を建てた方の願いですよ。文字を知ることは光を知ること——そういう意味」


「わたし、もっと読みたい」


 マルタの茶色い目が、じっとアヤを見つめた。修道女の顔に浮かんだのは驚きではない。もっと深い、確かめるような眼差しだった。


「さあ、どうかしら? アヤ、あなたはこの字を誰に教わったの?」


「だれにも」


「……そう」


 マルタは何かを言いかけ、口を閉じた。それから立ち上がり、アヤの黒髪をそっと撫でた。


「明日から、わたくしがお前に文字を教えましょう。朝の礼拝のあと、一時間だけ」


 アヤの胸の中で、なにかが弾けた。嬉しいとも、安心とも違う、もっと根の深いところがあたためられるような感覚だった。


「ほんと?」


「ほんとうですよ。ただし、約束して。学んだ文字は独り占めにしないこと。いつかお前より小さな子に、お前が教えるのです」


 アヤは大きくうなずいた。




 その日の午後、リリス孤児院にめずらしい来客があった。


 馬車が門の前に止まった音を聞いて、子どもたちが一斉に窓に張りついた。黒塗りの馬車——王都では珍しくないが、郊外の孤児院に来るようなものではない。御者台に座った男の胸には、北の山脈を意匠にした紋章がある。


「みんな、お行儀よくするのよ」


 マルタ院長の声がいつもより張りつめていた。頭巾を整え、エプロンの染みを手で隠そうとして、やめた。


 馬車の扉が開いて降りてきたのは、銀髪をきちんとまとめた長身の女性だった。質素だが仕立てのよいドレスは、辺境の布地で織られている。宝飾品は耳元の小さな青い石だけ。それなのに、立っているだけで空気が変わった。


 ヘレナ・フォン・ノルトハイム。辺境公爵夫人。


「マルタ、久しぶりね。手紙だけでは物足りなくなったの」


「ヘレナさま。ようこそいらっしゃいました」


 二人は古い知人の間柄らしく、かしこまった挨拶はすぐに崩れた。ヘレナが馬車に手を伸ばし、中から小さな男の子を抱き下ろす。


「ルーカス、ご挨拶なさい」


 灰銀色の髪の男の子が馬車から下りた。アヤより年上で、九つか十に見える。深い青灰色の瞳が、知らない場所を物珍しそうに見回している。左手の甲に、やけどの跡のようなものがあった。


「ルーカス・フォン・ノルトハイムです」


 たどたどしいが、はっきりした声だった。ルーカスという名の男の子は、そのまま口を閉じた。それ以上は何も言わない。


「この子、人見知りでね。子どもたちと少しでも馴染んでくれるといいのだけれど」


 ヘレナがため息まじりに言い、マルタが笑った。


「それなら、うちの子たちはいくらでもおりますよ」


 アヤは廊下の柱の陰からそれを見ていた。来客など珍しいから見にきただけだ。綺麗な銀髪の男の子が気になったわけではない。ただ——あの子の左手のやけど跡が、少しだけ気にかかった。




 ヘレナと院長が礼拝堂で話し込んでいる間、ルーカスは中庭に取り残されていた。


 他の子どもたちは最初こそ物珍しそうに近づいたが、ルーカスが何も喋らないので退屈してしまい、すぐに泥団子遊びに戻っていった。ルーカスは一人、中庭の端に立っている。


 アヤの定位置——石碑の前に。


「……きみ、なにしてるの?」


 アヤが声をかけると、ルーカスが振り向いた。青灰色の目が大きく見開かれる。


「字を見ている」


「読めるの?」


 ルーカスは黙って首を横に振った。


「家庭教師に習っているけれど、まだ全部は読めない」


 アヤは石碑の前にしゃがみこみ、一番上の行を指さした。


「これは『リリスの子らに、言葉の光を』って読むの。マルタさまが教えてくれた」


 ルーカスが隣にしゃがんだ。灰銀色の髪が風に揺れて、石碑の苔に触れそうになる。


「……光? これが?」


「文字を知ることは光を知ること、だって」


 アヤは石碑の二行目を指でなぞった。溝の形を確かめるように、ゆっくり。


「ここは、まだわたし読めない。でも、かたちは覚えてる。丸い字と、四角い字と、線が三本のやつ」


「きみ、ほんとうに読めないの? なぞってるときの顔、読める人みたいだ」


 不意にそう言われて、アヤは手を止めた。妙に鋭い観察だった。


「……読めないよ。まだ」


「でも、読みたいんだ」


「うん」


 ルーカスは少し考えるように黙ってから、左手——やけど跡のある方の手を伸ばして、アヤがなぞっていた文字に触れた。


「俺も。読めるようになりたい」


 その声が、不思議と心に残った。泥団子を投げ合う子どもたちの歓声の向こう側で、石碑の前だけが静かだった。二人の小さな指が、同じ溝をなぞっている。冷たい石の上に刻まれた、何百年も前の誰かの願いを。




「あら」


 声がして、アヤとルーカスが同時に顔を上げた。ヘレナが中庭に立っていた。その隣にマルタ院長。


 ヘレナの深い青灰色の目——息子と同じ色だが、もっと鋭い——が、二人と石碑を順に見た。唇の端に笑みが浮かぶ。


「あら、この子、あなたより本が読めるわよ、ルーカス」


 ルーカスの頬が赤くなった。でも反論はしなかった。代わりに、ぼそりと言った。


「……まだ全部は読めないって言ってた」


「そうなの?」


 ヘレナがアヤの前にしゃがみこんだ。仕立てのよいドレスの裾が砂利の上についたが、気にしていない。間近で見ると、銀髪の中にわずかに残る金色の筋が見えた。


「あなた、お名前は?」


「アヤ、です」


「アヤ。いくつ?」


「五つ」


「五つ——」


 ヘレナはマルタを見上げた。


「マルタ、この子が手紙に書いてくれた子?」


 マルタがうなずく。


「ええ。石碑の文字を一人でなぞって覚えてしまった子です。今朝、わたくしが読みを教えましたら——一度聞いただけで復唱しました」


 ヘレナの目の色が変わった。品定めとも、感嘆とも取れる眼差し。しかしそこには、冷たさではなく温かい光があった。


「手紙で人を動かせる人間は、剣で人を動かす人間より強いのよ」


 それはアヤではなく、ルーカスに向けて言われた言葉だった。ルーカスが不思議そうに母を見上げている。


 アヤは砂利の上で膝を抱えたまま、二人を見上げていた。大人の声が頭の上を行き来する。アヤ、五つ、手紙、あの子。自分のことを言われているのに、自分のものではない言葉のように聞こえた。誰かに名前を呼ばれて、誰かが自分を計っている。それなのに、当のアヤには行き先が分からない。砂利を握った手のひらが、汗で少し湿った。


 ヘレナは立ち上がり、スカートの砂利を払った。


「ねえ、マルタ。この子のこと、これからも手紙で教えてちょうだいね」


「もちろん。——この子はただの孤児ではありませんよ。どうか、見守ってやってくださいまし」


 アヤにはその会話の意味が、まだよく分からなかった。けれど、握り込んだ砂利の角が手のひらに食い込む感覚だけが、やけにはっきりしていた。大人たちが自分の頭の上で、糸を結んでいる。その糸の先がどこへ向かうのか、五歳のアヤには見えなかった。




 帰り際、ルーカスが馬車に乗り込む前に振り向いた。


「アヤ」


 名前を呼ばれて、アヤは目を瞬いた。


「今度来たら、さっきの続きの字、教えて」


「わたしだって、まだ読めないのに」


「じゃあ、一緒に覚えよう」


 言葉がアヤの耳に届いた瞬間、息を吸い込む間が一拍だけ遅れた。


 いっしょに。


 その短い一言が、頭の中で小さくこだまする。返事を、と思ったのに、唇は半分開いただけで言葉のかたちを忘れていた。代わりに頬の奥がじわりと熱くなって、ああ、これは見られたら困る顔だ、と思った。慌てて視線を地面に落とす。石碑のほうへ目をやろうとして、目の端でルーカスの青灰色の瞳とぶつかった。ルーカスは何か言いかけて、結局それだけ言って、馬車に乗り込んだ。


 扉が閉まり、御者が手綱を取る。黒塗りの馬車が砂利道を走り出し、門を出て、街道へと消えていった。


 アヤは門の前に立ったまま、馬車の車輪が巻き上げた砂埃が落ち着くのを見ていた。指先で頬に触れると、まだ何かが残っていた。


「一緒に、か」


 独り言をつぶやいて、自分で少し驚いた。お腹の底が、ほんのりと温かい。この感じを何と呼ぶのか、五歳のアヤはまだ知らなかった。


 でも、石碑の前に戻ったとき、指先が触れる溝の冷たさが、さっきとは少し違って感じられた。もう一人の指がなぞった跡が残っているような——そんな気がした。誰かの手が触れた場所を、自分の指でそっと辿る。それだけのことが、こんなに長く息を浅くするとは思わなかった。




 夜。


 孤児院の共同寝室で、アヤは薄い毛布に包まりながら天井を見つめていた。


 隣の寝台では年上の女の子が寝息を立てている。窓の外を月明かりが照らして、壁に木の影が揺れている。風が吹くたびに、窓枠がかたかたと鳴った。


 目を閉じると、石碑の文字が浮かんだ。


 リリスの子らに、言葉の光を。


 その下の、まだ読めない行。あの灰銀色の髪の男の子がなぞった溝。マルタ院長の皺だらけの笑顔。綺麗な銀髪の女の人の声——「手紙で人を動かせる人間は、剣で人を動かす人間より強い」。


 そして、いっしょに、と言ったあの声。


 アヤは毛布の中で右手を持ち上げ、暗闇の中で指を動かした。石碑の文字をなぞるように。途中で、なぞっているのが文字なのか、隣にあった小さな指の輪郭なのか、自分でも分からなくなった。


 あの文字の続きは、なんて書いてあるんだろう。


 明日になったら、マルタ院長に聞こう。全部の文字を覚えたい。石碑の一番下の行まで、残さず。


 そしていつか——あの男の子が来たとき、教えてあげるのだ。


 そう思った瞬間、胸の奥でゆっくりと灯がともった。中庭で「胸の中で弾けた」あの音とは違う、もっと低くて、長く続く熱だった。霧の向こうから、ぼんやりとした像が浮かぶ。活字の並んだ白い紙面、赤ペンで引かれた校正の線、蛍光灯の下で目を擦る、大人の女の手——わたしは、文字が好きだったんだ。ずっと前から。もしかしたら、生まれるよりもずっと前から。


 前世の記憶は霧の中にあってうまく掴めない。けれど文字への渇望だけは、二つの人生をまたいで胸の中に灯り続けている。その灯のすぐ隣に、もうひとつ、小さな火が点いている。「一緒に覚えよう」と言ったあの声を、明日の自分も覚えていられるように。


 明日が楽しみだ。


 目を閉じたアヤの唇が、無意識に動いた。眠りに落ちる寸前、指先がなぞったのは石碑の文字ではなく——まだ見ぬ、自分が書くべき言葉の、最初の一画だった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


新シリーズ「異世界手紙屋の代筆帖」、始まりました。第1話は5歳のアヤと、年上のルーカスとの出会いを書きました。


実はこの孤児院の石碑に刻まれた言葉、最初は別の台詞を考えていたんですが、書いているうちに「リリスの子らに、言葉の光を」がするっと出てきて、これだ、と。文字を光に喩える感覚が、前世で校正者だったアヤの魂と重なる瞬間を書きたかったんです。


ルーカスの「一緒に覚えよう」は、彼の性格を一言で表しています。この距離感を自然に取れるのは、もう素質ですね。アヤの頬の熱と、夜の毛布の中でなぞった指の輪郭——五歳の彼女がまだ名前を知らない感情の最初の一画を、丁寧に置きたかった話でした。


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