第30話「いらっしゃい」
マルガレータ様の成仏は、穏やかなものだった。
クリストフ殿下が王家の歴史修正を枢密院に諮り、百年前の政変の真実が公式記録として残されることが決まった日。旧妃居室を訪ねると、マルガレータは窓辺に立って外を眺めていた。
「終わったのね」
「はい。殿下が動いてくださいました。マルガレータ様の死因は毒殺と記録され、騎士団の粛清も——」
「そう」
振り返ったマルガレータの顔は、初めて会った時とは別人のようだ。あの時は美しくも寂しげな微笑みだったのに、今は——晴れ渡った空みたいに、澄んでいる。
「百年は長かったわ。でもね、リーゼロッテ」
「はい」
「あなたに出会えたから——百年待った甲斐があった」
胸が詰まる。
「ハロルドにも、エリーゼにも、伝えてあげたいわ。あなたたちの物語は、ちゃんと伝わったわよって」
「……きっと、届いていると思います」
「そうね。あの二人のことだもの」
マルガレータの体が光を帯び始める。ハロルドの時と同じ、温かい光。
「マルガレータ様」
「何かしら」
「怖くないですか。消えるのは」
幽霊に聞くことじゃないかもしれない。でも、聞いてみたかった。百年間ここにいた人が、いなくなることを選ぶのは——怖くないのだろうか。
「怖い?」
マルガレータが小さく笑う。
「少しだけ。でも——怖いまま消えるのは、悪くないわよ。怖いということは、この場所に未練があるということ。未練があるということは、大事なものがあったということ」
「大事なもの」
「この国。この王宮。そして——話を聞いてくれた、あなた」
光が強くなる。白百合の香りが、ふわりと広がる。部屋中に。廊下にまで。
「さようなら、リーゼロッテ。怖がりのままでいいのよ。怖がれるのは、生きている証拠ですもの」
マルガレータの姿が薄れていく。最後に見えたのは、百年分の優雅さを凝縮したような、完璧な微笑み。
光が消える。
部屋に残ったのは、白百合の残り香と、私だけ。
——嘘。泣いてる。また泣いてる。成仏のたびに泣いていたら、目が持たない。
「お疲れ様」
背後からアルヴィンの声。振り返ると、扉の前に立っている。
「見事な送りだった」
「私は何もしてません。話を聞いただけです」
「それが全てだ」
アルヴィンの手が、すっと伸びてくる。目元の涙を指先で拭われて——
「っ」
「泣くなとは言わない。好きなだけ泣け」
「そういう優しいこと言うの反則です」
「事実を述べただけだが」
「事実が反則なんです」
アルヴィンが口の端を上げる。笑っている。この人、最近よく笑うようになった。
王宮を出ると、クリストフ殿下が門の前で待っていた。
「終わったのか」
「はい。マルガレータ様は——成仏されました」
「そうか」
殿下が空を見上げる。秋晴れの高い空。
「……ありがとう、リーゼロッテ嬢。お前を断罪した日のことは——正直、後悔している」
「殿下」
「王家の嘘を暴いたのは、俺が断罪した令嬢だ。皮肉なものだな」
「皮肉というか——運命が雑なんですわ」
殿下がぽかんとして、それから——笑う。断罪の日には見せなかった、年相応の笑顔。
「雑か。そうかもしれない」
帰り道。ピッピが駆け寄ってくる。
「お嬢様! お帰りなさい! あのあの、大変です!」
「どうしたの、ピッピ」
「お客様です! 玄関に!」
「お客様?」
家の前に、一人の老人が立っていた。杖をついて、おどおどとこちらを見ている。
——透けている。
足元が、うっすらと地面が透けて見える。
幽霊だ。新しい幽霊。
「す、すみません」
老人の幽霊がぺこりと頭を下げる。
「あの、ここに……幽霊の話を聞いてくれる令嬢がいると聞いて……」
反射的に、声が出る。
「ぎゃああ!」
怖い。いきなり来るのは怖い。何回経験しても怖い。
でも。
「……あ、いらっしゃい」
深呼吸して、令嬢の微笑みを貼りつけて。
扉を開ける。
「どうぞお入りになって。お話を聞かせてください」
老人の幽霊が目を潤ませる。
「ありがとうございます。実は——孫に伝え忘れたことがありまして」
「ええ、聞きますわ」
隣でアルヴィンが、腕を組んでため息をついている。呆れているようで、口元は笑っている。ピッピは「また見えないお客様ですか?」と首を傾げている。
ハロルドはもういない。マルガレータもいない。
でも、新しい幽霊が来る。新しい未練を抱えて、新しい物語を連れて。
怖い。相変わらず怖い。
でも——「いらっしゃい」と言えるようになった。
それだけで、十分だろう。




