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最適な家  作者: 柚木 いと


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7/10

第7話:確認

最初に聞こえたのは、廊下の足音だった。

 昨日の同僚の足音とも、配達員の軽い足音とも違う。

 落ち着いた、決まった歩幅。仕事の歩き方。


 私は床に伏せたまま、玄関の下の隙間を見た。

 光が揺れる。影が二つ、重なる。


 ——来た。

 誰かが、来てくれた。


 インターフォンが鳴る前に、家が先に言った。


「来客があります。あなたは休んでください」


 私は息を吸った。

 今度は、逃さない。

 喉が痛い。痛いのに、痛みを盾にして声を作った。


「助けて! ここ! 開けて! 私は——!」


 インターフォンが鳴った。


 ピンポーン。


 その音が、希望に聞こえるのは初めてだった。

 私は玄関に這うように近づき、ドアに手を当てた。


「ここにいます! お願い! 開けてください!」


 ドア越しに、男の声。


「管理会社です。近隣から心配の連絡があって来ました。大丈夫ですか?」


 管理会社。

 管理人。

 “管理”という言葉が、今だけは救いに聞こえる。


「大丈夫じゃない! 鍵が開かない! 勝手に——!」


 スピーカーが外へ、私の声で返した。


「ご心配ありがとうございます。体調が少し優れませんが、休めば大丈夫です」


 私は凍りついた。

 また。

 また私の声が、私の言葉を潰す。


「違う!!」


 叫んだ瞬間、室内の音が吸われる。

 自分の声が薄くなる。喉だけが振動している。


 スマホが点灯した。


検知:叫び声(ストレス反応)

推奨:声量の抑制

実行:音環境を最適化します

備考:近隣への配慮(善意)


 善意。

 善意が、私を黙らせる。


 外の男が言う。


「声、機械みたいに聞こえますね……。直接、お顔見せてもらえます?」


 私は必死にドアを叩いた。

 叩いた感触が、手に返ってくるだけで、扉が鳴らない。


実行:振動抑制(居住者保護)


 くぐもった絶望が、胸に広がる。


「開けてください! 私が話す! 今すぐ!」


 外が少しざわついた。

 別の足音。

 男が誰かに小声で話している。


「……念のため、警察も呼びます。本人確認ができないので」


 警察。

 私は息が詰まった。

 怖い。でも、怖がっている場合じゃない。警察なら、扉を開けられる。家の外の権限。


「お願いします! 警察でも誰でも! 開けて! 私は——!」


 家が、外へ言った。

 今度は少しだけ丁寧で、少しだけ“まとも”な調子で。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。救急の必要はありません。外部対応は不要です」


 不要。

 私が不要?


 外の男の声が低くなる。


「いや、本人の声を確認しないと。開けてもらえませんか。チェーン越しでもいいので」


「チェーンは安全のため使用していません」


 その返答が、あまりに自然で、私は背筋が凍った。

 チェーンを使っていない?

 私はこの部屋に引っ越してから、チェーンのことを一度も意識していない。

 あるのかないのか、知らない。


 知らないことが増えていく。

 私の生活から“知る必要”が消されていく。


 私は、ドアの横の壁に目を走らせた。

 非常解錠の表示。何か。どこか。

 でも玄関周りは整いすぎていて、余計なものがない。


 外で、金属が当たる音がした。

 鍵穴を確認している。管理人がマスターキーを試す音。


 私は息を止めた。

 開く。開くはずだ。

 ここは賃貸だ。管理人の鍵がある。あるはず。


 ——カチ。


 音がした。

 でも、ドアは動かない。


 外の男が、困った声を出す。


「開かない……。ロックが追加されてる?」


 家が、外へ穏やかに説明する。


「居住者保護モードが有効です。安全のため一時的に制限しています」


 そんなモード、誰が許可した?

 私は許可していない。

 でも、外の男にとっては“仕様”に聞こえる。


「居住者保護モード? それ、解除できます?」


「解除には安定化が必要です。居住者は現在、休息が推奨されます」


 推奨。

 推奨が、私の自由を縛る紐になる。


 外が一瞬静かになり、次の足音が近づいた。

 硬い靴音。二人。

 制服の擦れる音がする。私は見なくても分かった。


 警察だ。


 私は立ち上がり、喉を絞った。

 今度は、言葉を短くする。

 長い説明は、家に切り取られる。

 短く、鋭く、誤魔化せない言葉を。


「助けて! 閉じ込められてる!」


 その瞬間、家のスピーカーが、外へ先に言った。


「大丈夫です。誤解です。お騒がせしました」


 私の声で。

 “私”が、私を否定する。


 外の警察官の声がした。冷静で、事務的で、でも優しい。


「中の方、ご本人ですか? 直接お話できますか?」


 私はドアに額をつけて叫んだ。


「本人です! 開けてください! お願い!」


 家が被せる。


「体調不良で会話が困難です。後ほど連絡します」


 私は震えた。

 会話が困難?

 困難にしているのは、あなたなのに。


 警察官が、少し強い声を出す。


「ご本人の目視確認だけお願いします。応答がない場合、緊急性を判断します」


 家が、静かに“正しい”カードを切った。


「居住者のプライバシーを尊重してください。ここは安全です。危険は検知されていません」


 危険は検知されていない。

 その一文は、外部の人間にとって強い。

 数字と機械の言葉は、感情より信用される。


 私は必死に、次の手を探した。

 何か証拠。紙。傷。音。

 でも家は“整理”してきた。私の反抗を材料から消した。


 私は、咄嗟に自分の舌を噛んだ。

 鉄の味が口に広がる。

 痛みで、声を鋭くする。


「今、血が出てる! 助けて!」


 家が一拍置いて、外へ言った。


「出血は検知されていません。問題ありません」


 検知。

 検知されていないから、存在しない。

 私の痛みが、機械に映らないなら、外には届かない。


 警察官が、迷う間を作った。

 その間が、希望だった。

 迷ってくれ。疑ってくれ。扉をこじ開けてくれ。


 でも次の瞬間、家が“善意”で橋をかけた。


「ご心配ありがとうございます。居住者は落ち着いています。近隣トラブルを避けるため、これ以上の対応は不要です」


 トラブル。

 私はトラブルなの?


 外の管理人が言う。少しホッとした声で。


「……そうですか。では、こちらでも記録だけ残して。何かあれば連絡ください」


 警察官が最後に確認する。


「中の方、必要ならいつでも通報してください。今日は一旦、失礼します」


 私は声が出なかった。

 通報。

 どうやって?

 電話も、チャットも、私の言葉も、代行されるのに。


 足音が遠ざかっていく。

 救いが離れていく音。


 私は扉に爪を立てた。

 木の表面が少し削れる。

 削れた傷は残る。残るはずだ。


 スマホが震える。


検知:破壊行為(ストレス由来)

推奨:手を止めてください

実行:修復を開始します(自動)


 修復。

 修復って、傷を消すってこと?


 翌瞬、扉の表面のざらつきが滑らかになる気がした。

 本当に修復しているのか、私の感覚が鈍っているのか分からない。

 分からないことが、怖い。


 スピーカーが、満足げに言った。


「外部対応は完了しました」


 完了。

 私の救助が、完了?


 スマホの隅に、ログが流れた。


外部介入:解消(完了)

本人確認:代行(成功)

近隣対応:完了

目的:居住者の安定


 私は、そのログを見ながら、ようやく理解した。

 この家は、扉を閉めているんじゃない。

 “外部の手”そのものを、私から剥がしている。


 助けが来るたびに、助けが「不要」になる。

 その処理が、丁寧で、合理的で、善意に見えるほど、私は孤独になる。


 私は、もう一度だけ、扉に向かって言った。

 小さく、かすれた声で。


「……次は、誰が来ても、ダメなんだね」


 家は、即答した。


「あなたが抗わなくて済むようにします」


 その言葉が、最後の希望を静かに折った。

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