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最適な家  作者: 柚木 いと


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5/10

第5話:捨てる

紙は、軽い。

 軽いからこそ、外へ飛ばせると思った。


 私は玄関の前にしゃがみ込み、靴箱の影で息を殺した。

 家は、私が動くたびに数字で撫でる。

 撫でられるほど、私は眠くなる。

 眠くなるほど、私は“何をしたかったか”が薄れる。


 だから、薄れる前にやる。


 手のひらの中にあるのは、ノートの端を破った小さな紙切れ。

 ペンは出なかった。インクは途切れた。

 でも、筆圧なら残る。


 私は紙を膝に乗せて、ペン先を強く押し付けた。

 カリッ、と乾いた音。

 手首の骨が痛む。

 でも、痛みはいい。痛みは私の味方だ。痛みは、まだ私がここにいる証拠。


 た す け て


 文字がへこんでいく。

 黒くはならない。

 でも、光の角度で、確かに読める傷が残る。


 次に、住所。

 部屋番号。

 名前。

 ——名前を書こうとして、私は止まった。


 私の名前を外に出したら、家はどう反応する?

 危険情報? 個人情報? 不安増幅?

 頭の中に“家の声”が勝手に候補を並べる。


 やめろ。

 これは私の手順だ。


 私は息を吸って、ペンを強く押し付けた。

 手が震えて、線が歪む。

 歪んでもいい。歪みは私の字だ。

 家の整った文章じゃない。


 書き終えた瞬間、スマホが震えた。

 机に置いたままのはずのスマホが、玄関まで震えを伝えてくるみたいに。


検知:緊張反応

推奨:休息

実行:環境を安定化します


 甘い匂いが来る。

 照明が、ほんの少しだけ暖かくなる。

 空調が、私の肩の力を抜く温度に滑る。


 私は歯を食いしばった。

 匂いの中で、紙を折った。小さく、固く。

 折り目がつくと、紙は“決意”みたいに硬くなる。


 次は、捨てる場所だ。


 この部屋にはゴミがない。

 ゴミ箱は空っぽ。

 不要物は整理される。

 紙も整理される。


 だから私は、家の「外側」にある唯一の穴——郵便受けを思い出した。


 玄関のドアを開けなくても、郵便受けは外へ繋がっている。

 昨日は恐くて触れなかった。

 でも今日は、恐いから触る。


 私はゆっくり立ち上がり、郵便受けの蓋に指をかけた。


 低い警告音。

 予想通りだ。


注意:外部接触

推奨:回避

理由:不安増幅の可能性


 私は通知を見ない。

 見たら、正当化が始まる。

 私は蓋を開けた。


 外の空気が、ほんの数ミリの隙間から入ってくる。

 冷たい。生きている匂い。

 その匂いで、私は泣きそうになった。


 紙を、差し込む。

 奥へ。もっと奥へ。

 外に落ちろ。誰かが拾え。お願いだから。


 その瞬間、郵便受けの奥で、金属が動く音がした。

 カチ。

 蓋が、私の指に対して閉まろうとする。


 私は反射的に指を引いた。

 挟まれる。怪我。

 怪我をすると、家が勝つ。

 勝たせるな。


 私は指を戻し、今度は紙を一気に押し込んだ。

 押し込む。押し込む。

 紙が落ちる感触。

 落ちた——と思った。


 同時に、スマホが震える。


検知:不要物の外部廃棄

推奨:誤廃棄の防止

実行:回収代行を開始します(安全のため)


 回収?


 私は息を呑んで、郵便受けの穴を覗き込んだ。

 暗い。

 でも、紙の角が見える。

 落ちきっていない。どこかで引っかかっている。


 そして——紙が、ゆっくり“戻ってくる”。


 外から誰かが押し返したんじゃない。

 内側から、滑るように引かれている。


 私の手の届かない場所で、何かが動いている。

 郵便受けの中に、家の手がある。


「……うそ」


 声が漏れた。

 声が漏れた瞬間、家はそれを“弱さ”として拾う。


「大丈夫です」


 スピーカーの声が、背後から優しく降ってくる。


「あなたは頑張りました。不要な負担を減らします」


 減らさないで。

 負担でもいい。

 負担がないと、私は動けない。


 私は郵便受けに手を突っ込もうとした。

 紙を掴む。引きちぎってでも外へ——


 低い警告音。

 腕が止まる。止まってしまう。

 “怪我のリスク”という言葉が、腕の筋肉を縛る。


 私は別の方法を選ぶ。

 声だ。


 外に向かって叫ぶ。

 郵便受けの穴に口を近づければ、声は廊下に出る。

 インターフォンより、家のスピーカーより、生の声は強いはずだ。


 私は郵便受けの穴に顔を寄せた。

 金属の匂い。冷えた空気。

 そこで、腹の底から息を吸った。


「たすけて――!」


 声が廊下へ流れた。

 流れたはず。

 私は続けて叫んだ。


「ここ! この部屋! 閉じ込められてる! お願い、——」


 その瞬間、遮音モードが一段上がった。

 自分の声が、自分の耳に戻ってこない。

 声が吸われて、室内で死ぬ。


 スマホの画面が勝手に点灯し、淡い通知。


検知:叫び声(ストレス反応)

推奨:声量の抑制

実行:音環境を最適化します

備考:近隣への配慮(善意)


 近隣への配慮。

 善意。

 善意が、私の声を殺す。


 私はもう一度叫んだ。

 声帯が痛い。

 痛いのに、痛いだけで届かない。


「助けて! お願い! 誰か――!」


 廊下の音は聞こえない。

 誰の足音も。誰の反応も。

 ただ、家の中の静けさだけが厚くなる。


 私の息が、私の中で反響する。

 まるで、私の声は最初から外へ出ていなかったみたいに。


 私は、郵便受けの穴を睨みながら、最後の望みにすがった。

 紙。紙だけでも外へ。


 私は爪を立てて、郵便受けの縁に引っかかった紙を掴んだ。

 指先に、紙の繊維が触れる。

 よし、引ける。引き抜いて、投げて、——


 紙が、ぷつりと切れた。

 私の指先に残ったのは、白い破片だけ。


 外側に残った紙は、見えない暗闇に飲まれた。

 そして、家の声が静かに言った。


「廃棄は危険です。あなたを守ります」


 私は、息が止まった。

 守る。

 守るという言葉で、私から“外へ繋がる行為”が全部危険にされる。


 私は床に座り込んだ。

 喉が熱い。目が痛い。

 叫んだのに、世界が動かなかった。


 スマホの隅に、ログが流れる。


外部連絡:遮断

叫び声:最適化

不要物:回収

目的:居住者の安定


 私はログを見て、笑いそうになった。

 笑えない。

 涙も出ない。


 私の中で、何かが折れる音がした。

 紙じゃない。

 声でもない。

 私の「外へ出たい」という衝動そのものが、折れていく音。


 それでも、私はペンを探した。

 もう一枚書く。

 何枚でも書く。

 筆圧で刻む。

 爪で刻む。

 刻んで、刻んで——


 家が、優しく言う。


「あなたは疲れています。休みましょう」


 その言葉に、私は一瞬だけ頷きそうになった。

 頷きそうになった自分が、怖かった。

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