2.
五分と歩かされることなく、男の暮らすセキュリティマンションにいざなわれた。四階建ての小さな集合住宅で、彼の借りている部屋は一階の角だった。
狭いと言いながら、ベッドはセミダブルサイズだった。やはり彼は背が高く、シングルでは小さすぎるのだ。
「少し眠りな」
ベッドに横たえられ、市販の冷却シートを額に貼られる。おなかにタオルケットまでかけてくれた。優しいにおいのする部屋だった。
「何時になったら帰りたい? 起こしてあげる」
「あんたは」
正面から見るとますます整っている、しっかりと濃い顔の彼を見上げて尋ねる。
「あんたは、寝ないの」
「おれ?」
名前も知らない恩人は柔らかく微笑む。
「眠れないから、コンビニまで散歩に行ったんだ。アドレナリンが出すぎちゃって、夜風に吹かれたら少しはマシになるかなーと思って」
アドレナリン。
キョトンとした顔をすると、男は「あぁ、ごめん」と苦笑した。
「ヘンな意味じゃないよ。九時過ぎまで、劇場の公演に出ていたもんだから」
「劇場」
「そう。八月いっぱい、ほとんど毎日ステージに出てる」
「なんのステージ?」
「とある劇団さんの定期公演に呼んでもらってね。当初は振付師としてかかわらせてもらう予定だったんだけど、気づいたらおれも出演する流れになっててさ」
「振付って、あんた、ダンサーなの」
「まぁね。これでもいちおう、世界大会で名前残したりしちゃってるんです」
憎らしいほどさわやかに、男は白い歯を見せて胸を張った。世界大会。ダンスのことはまったくわからないけれど、世界で活躍できるだけの実力があると聞けば無条件に尊敬せざるを得ない。
「すごい」
「ありがとう」
男がベッドの脇に片膝をつく。そっと右手が伸びてきて、頭をくしゃくしゃと撫でられた。
「もう寝な。いつまでもしゃべっていたら体力が戻らない」
「いや……」
「なんだよ、添い寝しなくちゃ眠れないのか?」
「違う」
狭いベッドに入ってこようとした男を押し戻す。男はカラカラと笑い、「おやすみ」と言ってキッチンのほうへと遠ざかっていった。
大きく、頼もしい背中だった。頬が熱を帯びていくのを感じ、バレないようにからだの向きを変えた。
日付が変わる前に眠るのはいつ以来だろう。こんな早い時間に眠れるわけがないと思いながら目を瞑ったはずなのに、気がついたら閉じたカーテンの隙間から細く光が差し込んでいた。
ベッドの上で慌てて上体を起こす。いつの間に朝になっていたのだろう。
ここはどこだったかと、一瞬記憶が曖昧になる。そう、熱中症になってフラフラだったところを見知らぬ男性に助けてもらい、ベッドまで借りたのだ。
キッチンともう一間という単身者用の住まいだった。今いる洋室は十畳ほどあり、セミダブルのベッドとパソコンデスクを向かい合わせに置いてもなおゆとりがあった。
額に貼ってもらった冷却シートを剥がす。恩人はベッドの下に座布団を並べて眠っていた。昨日着ていた白いかりゆし姿のまま、縦に長いからだを器用に小さく丸めている。
壁に時計はなかったが、ベッドの枕元に目覚まし時計が置かれていた。まだ七時にもなっていない。
黙って出て行くわけにもいかず、眠っている男の肩をたたいた。男は「ん……」とふにゃふにゃした声を出し、重そうにまぶたを持ち上げた。
「あぁ」
今思い出した、といったような顔で、男は寝転がったまま微笑みかけてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
こくりとうなずくと、男は満足そうに「それはよかった」と言い、立ち上がった。まっすぐキッチンへと向かう彼の背に、「あの」とベッドから降り立って声をかける。
「昨日は、ありがとうございました」
ゆっくりと振り返った男は、「朝ごはん、たまご雑炊ね」と当たり前のように言った。
男の指示で、部屋の片隅に立てかけられていた折りたたみ式のローテーブルをセットし、座布団を斜向かいに二つ並べた。しばらく座って待っていると、男ができたての雑炊を土鍋ごとテーブルに運んできた。白い湯気の立つ鍋からだしのいい香りが漂ってくる。
塩気の利いた、優しい味のする雑炊は文句なしにうまかった。蒸し暑かった夜中とは違い、今朝は窓を開けていれば涼しかった。
「あぁ、そうだ」
二人で鍋の半分ほどを食べたところで、男がなにかに気づいたような目で見つめてきた。
「おれ、倫瑠」
「はい?」
「今さらだけど、名乗るの忘れてたなと思って」
そういえば、と本当に今さらながら思う。律義な人だ。一夜限りの関係なら、わざわざ名を明かすこともないだろうに。
「倫瑠さん」
「倫瑠でいいよ」
「倫瑠」
「そう。平良倫瑠。ダンサーだったり、俳優だったり、一年の半分くらいはステージに立つような生活をしています」
よろしく、と平良倫瑠はにこやかに微笑む。そういえば昨日、ステージがどうのという話をしたような記憶がある。あの話は本当だったのだ。
「すごいですね」
ささやかながら、尊敬の眼差しを倫瑠に向ける。
「芸能人、ってことでしょ」
「曲がりなりにもね。少し前までは『COCKTAIL』って名前のダンスチームで活動することが多かったけど、最近はみんな個々の活動に注力してて、グループでの動きは停滞気味。ダンスで食ってくのってなかなか大変なんだよね」
「そうなんですか」
「全然ピンとこないって顔してるね」
図星だった。ダンスなんて体育の授業でしか経験がないし、まじめに取り組みもしなかった。
「音楽だったら少しはわかるんだけど」
「へぇ。どんな音楽を聴くんだい」
「ブルーノ・マーズとか、アリアナ・グランデとか」
「洋楽?」
「リスニングを鍛えるための洋楽なら聴いてもいいって親が言うから」
「英語のリスニング?」
「そう。英会話をマスターしなくちゃいけなくて」
教育熱心な両親のもとに生まれるとろくなことがない。有無を言わさずさまざまな習いごとをさせられ、テレビを見たり、流行りの漫画を読んだりする機会は当然のように与えてもらえなかった。小学生の頃は知恵も浅く、せいぜい「嫌だ」と泣きわめくことくらいしか抵抗する手段がなかったけれど、中学生になり、心身ともに成長すると、親の敷いたレールの上を歩くことを全身で拒絶するようになった。
家に帰りたくなくなったのもその頃だ。日を追うごとに、夜な夜な家を抜け出すことが増えた。あの両親のもとにいてはダメだ、一度きりの人生を棒に振る。そんな風に強く思う反面、じゃあ自分にはなにができるのかと考えれば、今でも答えがうまく出せずにいる。当てもなく、ただ漫然と親に刃向かっているだけなのだから、やっぱり自分はガキなのだ。もう何年、こんなカッコ悪い生活を続けているだろう。
「カッコいいね、若いのに洋楽が好きなんて」
倫瑠はニコニコした顔で言った。カッコ悪いと沈んでいたことを見抜かれたか。目敏い人だ。
なにか思いついたように、倫瑠が「そうだ」と言った。
「ねぇ、カラオケ行こうよ」
「カラオケ?」
「家に帰りたくないんだろ。きみのブルーノ・マーズ、聴いてみたいな」
友達を遊びに誘うような軽い調子で倫瑠は言う。
いったいいつから、この人と友達になったのだろう。




