1話の④
せっかく勇気を出して精神科を受診したのに、と貴明は膝を叩く。
周りの声が一斉に聞こえてきた。
「何、あの人」
「貧血か?」
皆、声を出しているわけでもないのに、直接耳に聞こえてきて貴明は大きく息を吐き出した。ついでに、耳を押さえてなるべく聞こえないようにするのだが、神が貴明を馬鹿にしているのか、声が聞こえなくはならない。
「やだ、あの人。耳がおかしいのかしら」
「精神科から出てきた。頭でもおかしいの?」
「ちゃんと診てもらったのか?」
色々な声が聞こえて、貴明は首を振る。やっぱり、来るんじゃなかったと後悔する。階段はやはり、貴明しか見えないようだった。
重い足取りで貴明は何とか動く。夏が近いからか、外はもわっと蒸し暑い温度にさらされていた。
「くそ! くそ! くそ!」
道路を蹴ると、周囲の人間が怪訝そうな顔をする。誰だってそんな顔で見られたら、傷つくに決まっている。貴明は下を向くと、足早に病院を後にした。
アパートに戻ってきた。ここまで来るまでに、人の心の声が聞こえて気持ちが悪くなった。「うえっ」と吐き出す音をさせて、お腹から胸にかけて擦る。
「何で俺だけ」
理由は分からなかった。妻殺しはバレていないが、警戒するにこしたことはない。
職場には嘘をついて、何とか休ませてもらっていたが、こんな姿で誰かに会いたくはない。
足早に部屋に向かうと、誰かが立っていた。「まずい」心の中の危険信号を鳴らすと、向こうがこちらを向いた。
「あ、お前」
貴明がカラカラの声を出すと、相手も気づきこちらを見てくる。
「よう」
手を挙げてた人物ははにかんだように笑った。親友のAだった。貴明はかなり焦った。何でいるんだよと心の中で毒づく。Aは痩せてガリガリだった。彼の心の声が聞こえてくる。
「こいつ、酒臭い。仕事はどうした?」
その声に答えずに、貴明は無視した。「何の用だ、何の用だ、何の用だ!!」心の中でグルグルと言葉が回る。
Aは大学時代からの付き合いだった。一緒に笑い、一緒に楽しみ、青春を謳歌した人物だった。
信頼しているのだが、妻殺しや階段がバレないかヒヤヒヤする。背中に冷たい汗が流れた。Aは鋭い視線を向けてくる。こいつは厄介だと心の中で舌打ちする。Aは勘が冴えている人物だった。
「お前…」
Aが何か言いたそうに口をパクつかせる。貴明は無視をして鍵をドアノブに差し込む。
「おい、ちょっと待った」
Aが焦る。手首も細かった。何か事情があって、こいつは具合が悪いのだろうかと推測する。
貴明は空咳をすると、ドアを開ける。遺体は溶かしてあるから、異臭は放っていないはずだった。
「…何? どうしたの?」
俺もお人好しだと思い、Aに声をかけた。ここで完全無視をすれば怪しまれると思ったのだ。
「話があるんだ。上がっても良いか?」
「何の話? 長いの?」
「長くなるかもしれない」
Aは目を細めていった。ちょうど視線は階段の辺りだった。貴明は急いで部屋に入ると、Aを招き入れる。
「短めに頼む。具合が悪いんだ」
そう言うと、Aは鋭い視線を向けてきた。何かバレたのだろうか。心配になって、唇を噛むと、Aはドアに手を入れてきた。
「上がらせてくれ」
それだけ言うと、貴明を押して勝手に上がり込んだ。何だ、こいつと思いつつ、貴明はドアを閉めた。




