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この宿は個室単位で、給仕をしているようだ。数人の客を個室に案内し、順に料理を運んでくるらしい。カルザスが席に着いてから、幾らか待たされておる。
十名程度が入れる小部屋に、三名程度の給仕の者。案内されるまでに幾つかの部屋の前を通ったが、どの部屋も静かなものだった。おそらくもう食事が運ばれてきておるのか、終わってしまっているのだろう。
ようやくテーブルに前菜が運ばれ、それでもカルザスはしばらく待っておったが、シーアが来るような気配はない。仕方なく一人でそれらに手を付けようかと迷っておった時に、やっとシーアがきた。
ほう、このまま来ないかと思っておったが、食事ぐらいはしようという気になったらしいな。相変わらず陰気臭い顔をしておるが。
「ああ、良かった。シーアさんが来なかったら、僕ずっとお預けでしたね。おなかペコペコですよ」
肩を竦めておどけてみせると、シーアは小さく頷いてぎこちない笑みを浮かべる。愛想笑い、か。
「……本当はあんまり……喉を通らないと思うんだけど、カルザスさんならきっと、ずっと私を待ってるかなって思って……」
ほう……他者を気遣う余裕は残っていたか。つまりまだ奴には手を差し出し、救いを求める気持ちがあり、俺やカルザスはその手を掴まえてやれる余地があるという事だ。
透き通った綺麗な水はウラウローでは値の張る代物だ。そんな高額な水の入ったグラスを客の人数分、各テーブルに用意しているという事は、この店はかなり繁盛しているという事だ。適当に選んだ割には当たりの宿を引いたらしい。
前菜には手を付けず、グラスを口許へ運んだシーアの表情がふいに険しくなる。無気力だった眼差しが、鋭く鋭敏なものへ。
グラスを傾けて水を一口含み、そのままグラスをテーブルに置く。シーアは考え込むように口許を抑えていたが、ふいに何かに思い当たったかのように顔を上げた。
そして今にも前菜の根野菜のサラダをフォークを口へと運ぼうとしていたカルザスの腕を、すっと掴んで動きを封じてきたのだ。
「シーアさん?」
ただならぬものを感じたカルザスだが、どうも事情がよく分からん様子。むろん俺もだ。
シーアは店の者たちの目を盗み、皿に盛ったサラダにたっぷりと掛けられているドレッシングを指先に付けて嘗める。
「あの……」
シーアは微かに首を振り、料理を口にするなと目配せしてくる。
考えたくはないが……料理に何か仕込まれているのだろうか? でなければシーアが過敏に反応するはずがない。
「ね、カルザスさん。部屋に忘れ物したんだけど、一緒に取りに来てくれない? 食事の途中で中座っていうのも行儀悪いんだけど」
背後を通り過ぎる従業員にも聞こえるような声で、シーアが目を細めて言う。作り笑いか……間違いなさそうだ。
「はい、構いませんよ」
カルザスもシーアの意図に感付いたらしい。即、了承の返事をする。
シーアはカルザスの手を引き、小走りに階段を駆け上がって、自室へと入る。ドアを閉めた刹那、そちらを背にして外の物音に聞き耳を立てた。
「シーアさん……一体何が?」
「命が惜しかったら、下手に料理に手を付けない方がいいわ。もちろん飲み物もね」
外の物音を気にしながら、シーアはカルザスをちらりと一瞥し、腕を組む。そして指先を唇に当て、先ほどの事を思い出すように首をもたげる。
「限りなく無味無臭に近いけど、水に弛緩剤が混ぜられてたわ。料理の方は分からなかったけど、まだ前菜だしね。これから運ばれてくるものに含まれてないとは言い切れないわよ」
「ど、どういう事ですか?」
さすがにうろたえるカルザス。
「あの程度の量なら私には効かないけど、カルザスさんや普通の人たちには充分効果があると思う」
「シーアさんって弛緩剤とか毒物とかって、平気な体質なんですか?」
ごく稀に、そういった体質の者がいるとは聞くが……。
「少しくらいならね。小さい頃からごく微量ずつ摂取していれば、耐性ができるわ。普通の人じゃ気付かないような量でも、臭いや味で分かるようにもなるし」
「ははぁ……ちょっと味音痴の僕には真似できそうにないですねぇ」
心底感心したように声をあげるカルザス。
「……暗殺術に関してもだけど、薬物に関しては徹底的に仕込まれてきたから。だから私、少しなら摂取しても平気なの。養父が私に望んだものは“完璧な暗殺者”だから」
“完璧な暗殺者”か……。
シーアの育てられた環境にも驚くが、なぜこんな普通の店の食事に弛緩剤など入っているのだ? いや……普通の店ではないのではあるまいか? つまりベイにもあったような暗殺者の仕事の斡旋の……。
当たりは当たりでも、そちらの当たりを引いてしまったようだ。
シーアと出会ってから、まさに息吐く暇もないとは、まさにこの事だな。
「あの、もしかしてここって、ベイにもあったような……別の顔を持つっていうお店ですか?」
カルザスも俺と同じ事を考えておったらしく、遠慮気味にシーアに問い掛ける。
「いえ。ウェールみたいな小さな町にはそういうのは無いはずよ。もしカルザスさんがそういうお店を選んだら、その時点で私が止めてるわ。ここは私の記憶にはないお店。だけど、そういう事実のあるお店。いろいろときな臭いわね」
眉を顰めて呟くシーア。奴の言う事はもっともだ。
「シーアさん」
カルザスはにこりと人懐っこい笑みを浮かべる。シーアは一瞬驚いた様子でこちらを見た。
「シーアさんは僕の恩人ですね。ありがとうございます」
「……恩人?」
シーアが首を傾げる。
「はい。僕一人だったら、きっと何も気付かずにパクパク食べちゃってました」
惚けたようにカルザスを見つめていたシーアだが、胸元を押さえて唇を噛み、眉を寄せて苦渋に満ちた表情になる。
「……私も同じものを使って……人を殺した事があるから……」
薬で動きを封じ……殺したのか? 同じ手口だから気付いたというのか? 俺が戸惑っておると、カルザスはすっとシーアの手を取った。
「どこで吸収した知識であっても、別の形で生かす事はできますよ。今回だって結果的に僕を助けてくれたじゃないですか」
シーアが驚いたように顔を上げる。カルザスはにこりと微笑みかけ、肩を竦める。
「残念ですけど、今夜もゆっくり休む事は難しいみたいですね。すみません、変な宿を選んでしまって」
カルザスはいつも持ち歩いている護身用の小剣に触れ、その手触りを確認する。さすがにその日の宿にと決めた場所へ、しかも食事時に、わざわざ長剣を持ち込むというような無粋な真似はできんからな。
ウラウローでは傭兵と言えど、酒場以外で、剣を食事の場へ持ち込む行為は礼儀知らずだと指摘されるのだ。小剣程度ならば、目立つものではないので、何も言われはせんのだがな。
「いつまでも席に戻らないのも怪しまれますし、かといって食事に手は付けられませんし、どうやってお店の方の目を誤魔化しましょうか?」
「あ、あの……私が一度毒見して、カルザスさんはそれを食べるようにしてくれれば大丈夫だと思うわ。前菜には入ってないみたいだったし、さすがに全部には仕込んでないと思うから」
「本当に大丈夫なんですか、毒なんか食べちゃっても?」
「ええ、致死量でなければ……」
「頼もしいですね」
シーアの表情が、一呼吸おいて微かに和らぐ。
ほう。さすがだな、カルザス。
何気ない一言で相手の気を静め、穏やかにさせてしまうのだからな。俺には到底真似できん。しかも本人は無意識だというのだから、天性の特技と称してやるべきか。
「……あっ……あの、ね。カルザスさん……私から……離れないで」
「はい。離れたら毒見できませんものね。よろしくお願いします」
「そういう意味じゃないんだけど……ふふっ。任せておいて」
ドアを開け、シーアが肩越しにこちらを見つめ、笑みを浮かべる。
──お前のやり方が、一番の近道なようだな。
カルザスは答えず、だがおそらくは俺に対して小さく頷き、シーアの後を追って階段を降りた。




