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第6話 学園の危機管理

 大樹の木陰を出ると、道の向こうに洗濯物が見えた。


 白い敷布が、並んで風を受けている。


 その奥には、校舎によく似た石造りの建物があった。


 窓の内側に小さな鉢植えが置かれ、開いた窓から誰かの笑い声が聞こえてくる。


「こちらが、生徒の宿舎です」


 セレナが言った。


 玄関の脇で、警備員が長椅子を持ち上げていた。


 一人で。


「そこ、掃けたか」


「はい。もう少し右をお願いします」


 箒を持ったメイドが答える。


 警備員は長椅子を抱えたまま、半歩ずれた。


「……お邪魔しても、大丈夫でしょうか」


 レオンが尋ねると、警備員は顔を上げた。


「どうぞ。足元だけ気をつけてください」


 声は穏やかだった。


 腕の中の長椅子が、少しも揺れない。


     


 玄関を入った先は、談話室になっていた。


 長机で課題を広げる生徒がいる。窓際では、二人が盤を挟んで向き合っていた。


「今、そこ動かした?」


「まだ考えてる」


「手、離したよな」


「離してない」


 レオンは通りながら、盤の上を見た。


 片方の生徒が、駒を指で押さえ直した。


 レオンの視線が、盤の隅で止まった。


「……その駒、少し見せてもらえますか」


 生徒が差し出した駒は、一つだけ木の色が違っていた。


 ほかより少し背が低く、底の縁が斜めに削られている。


「ああ。まだ、これを使っているんですねえ」


「先生、知ってるんですか?」


「私がいた頃に、なくなった駒の代わりに作ったものです。


 同じ寮の友人が、ずいぶん苦労していましたよ」


 レオンは駒を指先で回した。


「倒れないように削っていたら、だんだん小さくなってしまって」


 生徒が、ほかの駒と見比べた。


「だから、こいつだけ低いんだ」


「ええ。見分けやすいでしょう」


「それ、何年前ですか?」


「二十年以上になりますね」


 生徒は、受け取った駒を改めて眺めた。


 それから隣の椅子を引いた。


「先生も、一局どうですか」


「おや。では、少しだけ――」


 レオンの手が、椅子の背にかかった。


 隣で、セレナが小さく咳払いをした。


「今度は、こちらで足止めですか?」


「……案内の途中でしたね」


 生徒たちが笑った。


「また今度、お願いします」


「ええ。その駒も、大事に使ってくださいね」


 盤の隅へ、小さな駒が戻された。


「お部屋以外にも、こうして過ごせる場所があります」


 セレナは、廊下の先へ目を向けた。


「宿舎は男女別になっています。基本は二人部屋で、上級生と下級生が同室になります」


「私も、同室の先輩によく教わりました。洗濯物を出す日を、なかなか覚えなくて」


「ええ。授業に必要なものや、洗濯物を出す場所。食堂の混む時間も」


「最後のは、ぜひ教わりたいですねえ」


「先生は、もうご存じでしょう」


 レオンは笑った。


 そこへ、籠を抱えた小柄な生徒が通りかかった。


「先輩! これ、まだ使いますか!」


 開いた扉の向こうへ声をかける。


「どれ?」


「椅子の背にかかってるやつです!」


「ああ、洗濯に――」


「では、出します!」


 返事を待つ間に、籠へ一枚増えた。


 レオンは、その背中を見送った。


「頼もしいですねえ」


「今の子は、一年生ですよ」


「……おや」


     


 廊下へ入ると、メイドが戸口で帳面を開いていた。


「先生方、こちらならご覧になれますよ。今、空き部屋のお掃除が済んだところです」


「ありがとうございます。お仕事の邪魔にならないようにしますね」


 セレナが答えた。


 部屋には、寝台が二つあった。


 机と衣装棚も二人分。窓のそばには、小さな共用の卓が置かれている。


 レオンは扉のところから中を見た。


「私たちの頃より、机が広くなっていますね」


「勉強する時間まで、相談して決めるのは大変ですから」


「確かに。試験前は特に」


 窓からは、庭の端が見えた。


 校舎ほど天井は高くない。


 それでも窮屈な感じはなく、寝台の間には二人がすれ違えるだけの幅があった。


「お掃除は、どこまでお願いしているんですか?」


「普段の片づけは本人たちに。私たちが入る日は決まっていますけど、


 机の上まで全部片づけてしまうわけにはいきませんから」


 メイドは、空の机へ目を向けた。


「こんなふうに空いていると、助かるんですけどね」


 廊下の向こうで、扉の開く音がした。


「先輩。片づけてくださいって言いましたよね」


 三人が、そちらを向いた。


 さっきの一年生が、洗濯籠を足元に置いていた。


「片づけたよ」


「僕の机に移しただけです」


 メイドが帳面を閉じた。


「ちょっと失礼しますね」


     


 二人が談話室へ戻ると、階段から数人の生徒が下りてきた。


 先頭の上級生は、紙を一枚持っている。


「今夜の点呼、部活で遅くなる人は先に言ってね。戻ってから探すことになるから」


「同じ階なんですから、だいたい分かるでしょう」


 後ろの下級生が言った。


 上級生は足を止めた。


「昨日、お風呂に行ったあなたを探したのは誰?」


「……それは、すみません」


「万一のとき、誰がどこにいるか分からないと困るでしょう。声をかけ合って、指示を聞くのは大事よ」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 その返事を聞いて、上級生は満足そうにうなずいた。


「各階のフロアリーダーです」


 セレナが、小声で説明した。


「普段の相談や連絡の取りまとめをしてくれます。


 先生や職員に話すとき、一緒に来てくれることもありますよ」


「今の方は、先生が選ばれたんですか?」


「いいえ。その階の生徒たちの投票です」


 レオンは、紙に書き込みをしている生徒を見た。


「信頼されているんですねえ」


「おかげさまで」


 聞こえていたらしい。


 上級生が顔を上げた。


「先生からも言ってください。自分がどこへ行くかくらい、伝えてほしいんです」


「そうですね。探す方も心配しますから」


「ほら」


 下級生が、少し首をすくめた。


「ただ、いつもいる場所も、たまには確かめないといけませんねえ」


 レオンが続けた。


「私は時々、本を探しに行って、そのまま読み始めてしまいますから」


「先生もじゃないですか」


 下級生の顔が明るくなった。


 隣でセレナがうなずいていた。


「今日も、少し」


「……お互いに、では?」


「ええ。お互いに」


 図書館で過ごした時間については、二人ともそれ以上言わなかった。


     


 窓のそばに、簡単な宿舎の見取り図が貼られていた。


 セレナは、その脇で足を止めた。


「緊急警報の魔術が空に上がったら、見物に出ないでくださいね。


 フロアリーダーや職員の指示に従うこと」


「入寮のときにも聞きました」


 下級生が言った。


「それなら、覚えていますね」


「はい。先生たちが来るまで、避難する」


「ええ。先生たちは必ず駆けつけます。それまでは、安全な場所へ。


 勝手に戻らず、諦めずに逃げること」


 生徒はうなずいた。


 その後ろから、メイドが顔を出した。


「お話が済んだら、お部屋に戻っていただけますか」


 フロアリーダーが、下級生を見た。


「ほら。あなたも片づけを――」


「あなたのお部屋です」


 紙を持った手が止まった。


「……私の?」


「廊下に出した箱は、どちらへ運びますか」


「あれは、一度中を整理してから」


「では、今お願いします。通れませんので」


 下級生が、ゆっくり先輩を見上げた。


「万一のとき、困りますもんね」


 レオンは、白縁の眼鏡を押し上げた。


 セレナは口元に手を添えていた。


     


 箱は、階段の踊り場に置かれていた。


 古い教科書と、使わなくなった筆記具。それに、畳んだ布が何枚か入っている。


「全部、捨てるんじゃないんです」


 フロアリーダーが言った。


「下の学年で使えるものを分けようと思って」


「それはいいですね」


 レオンは、一番上の本を見た。


 表紙の角は擦れているが、紐で丁寧にまとめられていた。


「こっちは譲るもの、そっちは捨てるものです」


「なら、先にそう書いておけ」


 背後から声がした。


 玄関にいた警備員だった。


 その後ろから、作業着の生徒が二人、空の荷車を押してきた。


「その箱も運びますか?」


「ああ。本だ。二人で持て」


 一人が前へ出かけ、もう一人と箱の両側へ回った。


「どこへ置く」


「談話室の、棚の横にお願いします」


「分かった。床に置きっぱなしにはするなよ」


「はい」


「それから、部屋の片づけは自分でやれ。メイドさんたちにも、下の子にも押しつけるな」


「……はい」


 下級生が、口を結んだ。


 肩が少し揺れている。


 警備員は、その顔も見た。


「お前も手伝え。同じ階だろ」


「はい」


 今度の返事は、一回だった。


 箱を運ぶ二人に続いて、下級生も布の束を抱えた。


「お手伝いの生徒さんもいるんですね」


 レオンが言った。


「ボランティア部です。今は、三十人ほどいますよ」


「そんなに。助かりますねえ」


「ええ。庭仕事や荷運びも。慣れた子が、新しく入った子に教えてくれますから」


 談話室へ箱を下ろした二人に、メイドが声をかけた。


「ありがとう。今日はたくさん運んでもらったわね」


「いえ、まだ大丈夫です!」


 返事が重なった。


 一人が、空になった荷車をさっと引き寄せる。


「次は何を運びますか?」


「では、洗濯室の籠をお願いできる?」


「はい!」


 二人は並んで廊下へ向かった。


 警備員が、その背中へ声をかける。


「走るなよ。帰りは重いぞ」


「分かってます!」


 セレナは二人を見送り、少し笑った。


「毎年、熱心な子が入ってくれるんです」


「よい伝統ですねえ」


 レオンが言うと、警備員も口元を緩めた。


「ええ。よく働いてくれますよ」


     


 譲る本が棚の横へ並ぶと、談話室にいた生徒が寄ってきた。


「これ、もらっていいんですか?」


「いいけど、書き込みがあるよ」


「それがいいんです」


「間違ってるところもあるからね」


「そこは直しておいてくださいよ」


 レオンは、本を開く生徒の横を通り、玄関へ向かった。


 廊下の奥から、また声がする。


「先輩、これも洗いますか!」


「それは今日着る!」


「では、掛けてください!」


 セレナが笑った。


「どちらが先輩か、分からなくなりますね」


「得意なことは、それぞれですから」


 玄関の長椅子は、元の場所に戻っていた。


 床には塵一つ残っていない。


 レオンは敷居をまたぎ、建物を振り返った。


 開いた窓の向こうから、椅子を引く音が聞こえる。


「セレナ先生も、こういうお部屋で暮らしていたんですか?」


「ええ。最初は、先輩にいろいろ教わりました」


「後輩ができてからは?」


「……朝、起こしてもらったことはあります」


 レオンが顔を向けた。


「おや」


「試験前に、少し夜更かしをしただけです」


「今でも、遅くまで準備をなさっていますものね」


 セレナは、一瞬黙った。


「先生こそ。職員室に最後までいらっしゃるでしょう」


「本を読み始めると、つい」


「知っています」


 返事が早かった。


 レオンは、少し照れたように笑った。


「では、お互いに声をかけたほうがよさそうですね」


 セレナは隣を見た。


「……ええ。ぜひ」


「一人だと、気づかないこともありますから」


「そうですね」


 歩き出した二人の後ろで、警備員の声が響いた。


「そこの二人! 廊下は走るな!」


 レオンとセレナは、そろって振り返った。


 洗濯籠を持った一年生と、その先輩が、廊下の途中で足を止めていた。


 レオンは胸をなで下ろした。


「私たちでは、ありませんでしたね」


「走っていませんもの」


 そう答えたセレナも、少しだけ背筋が伸びていた。



――第6話・完――


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