9.欲張り
詩音先輩は、本物の人形のように美しい顔立ちだった。
0.5の視界からですらすぐに分かるほど美人だった。
当然、誰から見てもその美しさは歴然だ。
「シオン先輩見た?」
「見た! やっぱりカッコいい~!」
「寝顔まで美しいって何事?」
「彼女とかいるのかなー」
教室の中央でクラスメイトが詩音先輩の話をしている。
学年も性別も違う、遠いこの場所でも話題の的。
「誰、シオン先輩って」
「ああ、2年に規格外の美人がいるらしいぞ。マジで神秘って聞いたけど」
「え、なに、芸能人?」
「じゃないらしいけど、普通にモデルより顔いいらしい」
「見たことねえな」
「学校来んの気まぐれらしいぞ。先生に怒られてるの俺見たことある」
女子だけではなく男子まで詩音先輩の話をしていた。
私と桃ちゃんは部屋の隅でその様子をただ見守るだけ。
知らないふりをするのは、とても気を遣う。
「げ……明日の宿題まだやってない」
桃ちゃんはそんなフリが得意なようだ。
もう慣れたものだと笑いながら、視界の外に詩音先輩の話題を追い出す。
そうして荷物を整理しながら心底嫌そうな顔をしていた。
「理子ちゃん、古文の訳できた?」
「古文……、あ、36ページの」
「そう、それ! なんか全然分からないやつ」
「何、とか……合ってる自信は、ないけれど」
「今日時間まだ余裕ある? お願い、ちょっと見せて! 前半でつまづいて後半訳わかんないの。一緒に答え合わせしよ?」
「う、うん。私で良かったら」
「ありがとう! 代わりに英語困ってたら教えるからさ! 得意なの」
「ほ、本当? ありがとう、私英語……少し苦手で」
「まかせて!」
時間は放課後、まだまだ明るい時間帯。
ざわざわと賑やかな教室の隅で、2人教科書を広げる。
「あ、あー! そっか、ここ熟語か」
「そうなの、私も気付くまで時間かかったの」
「だとしたら意味通じる! なるほど、そういうことか」
「よ、良かった……、私も不安なところ確認出来て安心した」
なんだかとても青春っぽい。
狭い机の上にお互いのノートを広げて見せ合うなんて。
少しずつ夕陽が差し込んできて人の数も減って来て、そういう教室の空気が何だかとても新鮮だ。
今までは終業と共に飛び出すように教室を出ていたから。
週に1回だけある美術部以外は、どこにも寄らずに真っすぐ家へと帰っていた。
「理子ちゃん、ありがとう! 助かったよー」
「私こそ、ありがとうだよ」
「うん? 何で?」
「すごく、楽しいから。憧れだったの、こういうの」
桃ちゃん相手には、きちんと会話が出来る。
どもらず、動揺せず、自分らしいペースで、自分らしい言葉をきちんと伝えられる。
そういう空気を桃ちゃんが作ってくれた。
笑顔で受け入れて当たり前のように友達として接してくれる。
私が何年も欲しかったものだった。
当たり前のことじゃないと分かるから、なおさら嬉しい。
「……うう、理子ちゃんが暴力的に可愛い」
「桃ちゃんの方が可愛いと思うけれど。それにすごく優しい」
「女神! 可愛い!」
ガタンと大きく椅子を鳴らし桃ちゃんが立ち上がる。
ぐるりと私の方へと回り込んでギュッと抱きしめてくれた。
少しずつ理解してきたけれど、桃ちゃんは感情表現がとても素直で大きな人だ。
桃ちゃんの性格なんだろう。
優しくて穏やかで明るくて、そして素直で大胆。
ひとつ知れたことが嬉しくて、私も抱き返せるかなと手を回す。
「ストップ。流石に駄目」
けれど、その手は他の何かに遮られた。
耳に届いたのは、涼やかな男の人の声。
「ちょっと詩音! どうして邪魔するの、良いところだったのに」
「……桃、ここ日本。理子が戸惑うだろ」
「えと、戸惑っては」
「戸惑うよね? 理子」
「え、えっと……」
「戸惑うんだよ、理子。だから駄目」
「……人の可愛い友達を洗脳しないでくれない、詩音」
いつものように仲良く言い争っている。
私は桃ちゃんに抱きしめられたまま。
背中に回そうとした手は何故だか詩音先輩の両手に包まれている。
手、手が。
汗が……。
気付いた途端に焦ってしまって、私は相変わらず石のまま。
「それより、すっごい騒がれてたけど詩音大丈夫なの?」
「いつものことだし今更」
「ふーん、少しは脱出してきた?」
「かもね。なに、心配してくれたの」
「一応。何だかんだお兄ちゃんですし」
「それはどうも。妹さん」
詩音先輩は、桃ちゃんの前だと私の時よりもうんと饒舌だった。
すらすらとテンポよく話している。
美術準備室で会う時の詩音先輩以外知らない私には、普段の詩音先輩がどういう風なのか分からない。
けれど桃ちゃんにはとても気を許しているのだと、すぐに分かった。
ちくんと、胸に小さな針が刺さる。
モヤモヤと胃もたれのような気持ちが起きる。
詩音先輩と桃ちゃんの仲が、私と先輩の仲以上に良いことなんて当たり前なのに。
桃ちゃんはとても優しくて良い人で、私には勿体ないくらいの友達だ。
なのにモヤモヤと胃もたれが広がってしまう。
私だけが知っている詩音先輩は、もしかしたらいないのかもしれない。
詩音先輩と特別な時間を過ごせているのは、私だけではないのかもしれない。
当たり前のそんな話にチクチクと胸が痛い。
とても傲慢な気持ちが湧いてきて、私自身がびっくりしてしまった。
「わ、わたし」
「……理子ちゃん?」
「私、そろそろ、帰らないと」
「あ、じゃあ送」
「だ、大丈夫! です。大丈夫……あの、また、また明日っ」
処理しきれなくなって、慌てて距離を取る。
目が熱くて、情けない。
このモヤモヤを、せっかく話せるようになってきた2人にぶつけてしまいそうで怖い。
大急ぎで荷物をかき集めて鞄に詰めた。
「理子」
「は、はい!」
「宿題」
「しゅく、だい?」
「待ってるから、楽しみに」
私のことを詩音先輩は引き留めはしない。
私の行動も挙動不審な言葉も否定しない。
代わりにそうやって私に言葉を繋げてくれた。
私達にしか分からない、その話題を。
気を遣わせてしまっただろうか。
私のこの自分勝手な気持ちを悟られてしまっただろうか。
そうヒヤヒヤしながらも、私との会話を覚えてくれていたことが嬉しい。
「はい」と言葉にはならず、代わりに深く頷く。
「あ、理子ちゃん! ばいばい、また明日ね!」
「ば、バイバイ桃ちゃん! また、明日」
こんな酷い態度を取り続ける私に桃ちゃんは変わらず温かく声をかけてくれた。
同じように返してブンブンと手を振り返す。
詩音先輩をちらりと見上げて、恥ずかしいやら情けないやらでやっぱり言葉にならず頭を下げた。
「……桃、近づきすぎじゃない? 俺の、なのに」
「だから何よその俺様発言、私の友達ですー。というか、何したの。理子ちゃん戸惑ってたけど?」
「…………何も、してないはず」
「え、なに今の間」
「自惚れて良いのか自制しなければいけないのか、どっちだろう……」
「……さあ」
残った教室で、そんな会話が交わされたことを当然ながら私は知らない。
ただただ私はぐるぐると目まぐるしい自分の感情に振り回されて、訳も分からず走っていた。
息を切らしながら、重く揺れる鞄を両手で抱えながら。