20.今日も美術準備室で
ベージュで小花柄の眼鏡。
変わったのはたったそれだけ。
けれど不思議と見える世界が少しだけ明るくなった。
丸まった背で地面ばかりを見つめていた視線がまっすぐ前を見られるくらいの、そんな小さな変化。
「え、ねえ、あれ。あの子、ちょっと印象変わった?」
「あれ? もっと暗い感じじゃなかったっけ」
「あ、眼鏡変わったんじゃない? 目元ちょっと明るくなった」
相変わらず視線は突き刺さった。
色々な声もまた届く。
けれどそれを前ほどには怖いと思わなくなった。
どうしたって自分に向けられた言葉に肩は跳ねてしまうけれど。
少し強張った顔にもなってはしまうけれど。
それでも、これは勲章だから。
自分がこうありたいと願ってきちんと行動できた証。
そう思えば、少しだけ胸を張れる気がするのだ。
『理子』
思い出すのは好きな人の、柔い声。
一昨日、人生初の彼氏になった人の瞳の色。
……彼氏。
意識してしまうと、妙に恥ずかしい。
告白に後悔なんてないけれど、言ったことにも偽りは全くないけれど、あの空気でなければ言えなかったかもしれない大胆な言葉達。
……だ、駄目。
思い出しただけでふわふわして意識が遠のいてしまう。
自分の両手を頬に当てて顔の熱を下げようと試みた。
効果はあまり、なかったけれど。
「理子ちゃーん! おはよう!!」
「え? あ、も、桃ちゃん! おはよう」
校舎に入るすぐ前で、後ろから勢いよく抱き付かれる。
勢いに押されて少し前のめりになる私。
桃ちゃんは今日も元気だ。
ふっと笑いながら振り返って顔を見る。
いつも通りのはじけた太陽の笑み。
躊躇いなく「おはよう」も「また明日」も言える大事な人。
ぎゅっと抱きしめ返せば、桃ちゃんも抱きしめ返してくれた。
「……桃」
そうして響いた声に、今度は驚く。
いつも桃ちゃんと話す時のように、少しだけ拗ねた声。
桃ちゃんと抱きしめあったまま見上げた先には、彼がいる。
「何よー、親友との挨拶邪魔しないでくれる」
「挨拶の域、越えてる」
「越えてないよ。ハグは友好と親愛の証でしょ」
「ここは日本だけど」
「ははは、いちいち日本とかアメリカとかフランスとか、どうでも良いじゃない」
相変わらずの仲良し喧嘩。
私達を遠巻きに見つめる視線も、何かを噂されるような声も、倍増だ。
その中で穏やかに笑えてしまう自分が不思議だった。
さっきよりも怖くない。
怖いよりも、もっともっと嬉しいが勝る。
ぱちりと目が合って、どちらともなく微笑んだ。
「おはよう、理子」
「はい、おはようございます詩音先輩」
きっちり1メートル離れた距離感でも、はっきり見える詩音先輩の表情。
精巧な顔の、目元が和らいで細くなる。
左右対称に持ち上がる口角と、少しだけ垂れて柔くなる眉。
1.0の視力で見える詩音先輩は今日も美しい。
ザワザワ耳に届く言葉達が少しだけ遠のく。
突き刺さる視線だって、もうそこまで鋭く感じない。
「今日も授業、がんばるね」
「はい。私も頑張ります」
朝の会話なんて、たったそれだけ。
あとは時間に追われて、離れ離れ。
けれどやっぱり詩音先輩は私に元気をくれるのだ。
「笹部さんメガネ可愛いじゃん!」
「原さん、おはよう。あ、ありがとう」
「うううう、複雑。めっちゃ複雑だけど、本当理子ちゃん可愛い」
「……ははーん?」
「桃ちゃん、笹部さん、詳しくお話聞こうか」
少しずつ賑やかになり始めた世界で、今日も1日が始まる。
前よりもほんの少しだけ教室の中央寄りで私は笑う。
私に向けられる視線達は、そんな時間のなかに溶けて気にならなくなった。
「こんにちは、詩音せん、ぱ……」
いつものようにそっと扉を開く。
声が尻すぼみになる時は、決まって詩音先輩が眠っているとき。
相変わらず積み上げられた芸術品に紛れ、静かに寝息を立てていた。
左右対称の顔。
ひたすらに整った、綺麗な肌。
“人形さん”と呼んでいた時そのままの、詩音先輩。
ほとんど上下しないその胸が心配になってそっと手を当てる。
トクトクと感じる脈に、どうしようもなく愛しくなって顔は緩みっぱなしだ。
“人形さん”だけど、人形じゃない。
綺麗な人だけど、本当は可愛いの方が強い。
器用そうに見えるけど、とても不器用な人。
知ることが出来て嬉しかったことが、雪崩のように流れてくる。
「ん……理子?」
「あ、えっと……」
身動ぎするその動きで慌てて手を離し距離を置いてしまうのは、相変わらず。
臆病なままの私だけれど、少しずつ少しずつ変わっていく。
「おはよう、ございます。詩音先輩」
「うん、おはよう。理子」
お互い笑い合って、そっと手を取る。
時間はいつもお昼ど真ん中。
今日も美術準備室は、優しくて温かだ。
完結です。お読みくださりありがとうございました。




