誤解
翌朝。
いつものように、下駄箱に入っている手紙を見つめ、佳音は腰に手を当て困ったように首をかしげた。
(『恋人がいる』事、教えなかったような奴なのにな……。)
恋人の存在──否、嘘を告げず、手紙の返事も書かず突き返している奴なのに、尚も雄太は手紙を送り続けている。
(どういう神経してるんだ。)
最早、手紙が入っている事が日常と化してしまった佳音だが、正直『疑問』と『気持ち悪さ』しか感じない。
佳音はいつも通り、手紙を開く。
『桧山佳音さん。お話があります。放課後、体育館裏で待っています。』
文字はいつも通りだが、筆圧がいつもより濃く見える。まるで、筆圧で『絶対に来い』とプレッシャーをかけているようだ。
佳音の中で、『行ってはいけない』と警鐘が鳴った。だが、行かなければ、雄太はずっと待ち続けているかもしれない。
「……いや、予定が……。」
無意味だと分かってはいるが、手紙に向かって困ったように呟く。
本当はすぐに雄太の下駄箱に返したいが、毎朝、誰かの視線を感じて仕方ないのだ。
(読んだかどうかチェックしている……か?)
佳音はそれとなく周囲を見回すが、相も変わらず、佳音を見ている人は誰もいない。
佳音は手紙に視線を戻し、静かにため息をつく。
「佳音ちゃん?」
佳音が左に目を向けると、教室へ行こうとしていたほのかが心配そうにこちらを見ていた。
「どうしたの?」
佳音は笑顔を取り繕う。
「いやっ別に……。ちょっと貧血で。」
「そう………?」
ほのかはちらりと、視線を佳音の持っている手紙へと向ける。佳音は乱雑にそれを自分の鞄に突っ込んだ。
「行こうか。」
珍しく佳音は自分から誘い、足早に教室へと向かった。ほのかも小走りで佳音についていく。
「佳音ちゃん……さっきの手紙って──。」
隣に並んだほのかが、神妙な面持ちで声をひそめる。佳音はほのかに一瞥もくれず、笑顔で「何の事だ」とはぐらかした。
「何回か見てるの。佳音ちゃんが手紙見てため息ついてる所……。」
ほのかの言葉に、佳音は歩くスピードを緩める。
「……言うなよ。それか、忘れろ。」
佳音は声を低めて、ほのかに釘を刺す。その目はいつもの眠そうな目ではなく、ナイフのような鋭い殺気を含んだものだった。
ほのかは殺気に気圧され、強張った表情でこくりと頷く。その表情を見て佳音は、はっと我に返った。
「っすまない!怖がらせるつもりじゃなかったんだが……。」
「うん、大丈夫。でも──。」
ほのかは悲しそうに笑う。
「悩んでるなら、相談してね?」
ほのかは3組の前で「じゃあね!」と明るく手を振った。佳音もつられて、ぎこちない笑顔で小さく手を振る。
佳音は再び歩き出す。5組の教室はもう少し先だ。
(『相談』か……。)
佳音は沈んだ目でほのかの言葉を反芻する。
(出来るなら……とっくに……。)
佳音は思考を追い出すように頭を振る。
(いや、こんな事で心配をかけるわけにはいかない。第一、あいつの耳にでも入ったら──。)
佳音はそこまで考えて、ふっと自嘲気味に笑う。
(何考えてるんだ。あいつは、私が何をしようと『興味ない』だろう。)
引っ越しの前夜、本人がそう言ったのだ。
(……でも、矢倉さんを困らせたら、あいつの迷惑になるな。)
そんな連鎖反応を想像してしまい、 佳音は『相談する』という選択肢を、脳内から削除した。
放課後。
気乗りしなかったが、結局、佳音は体育館裏に足を運んだ。雄太はまだ来ていない。
(2日連続ここに来るとはな……。)
佳音は深いため息をつく。未だに、頭の中では警鐘が鳴り響いたままだ。
(なにも起こらない……よな?)
佳音は漠然とした不安を抱きながら、壁に背を預けて雄太が来るのを待っていた。だが、完全に凭れる事がどうしてもできず、いつでも走り出せるように僅かばかり重心を前にのせている。
数分後、足音をほとんど消した歩き方で、雄太はひっそりとやってきた。佳音は緊張した面持ちで壁から離れ、雄太を見る。
「ぁ……桧山さん……。」
後ろめたい事でもあるのか、雄太は引き攣った笑顔で佳音を見た。
「すみません。こちらから呼び出しておいたのに……。HRが、長引いてしまいまして。」
「いえ、気にしないでください。あの……お話というのは?」
佳音はおずおずと尋ねる。すると雄太は「あ……えっと……」と言い淀み、目を泳がせた。
佳音は、軽く頭を下げる。
「……恋人の事、黙っていてすみませんでした。」
雄太は、悲しげな表情で佳音を見る。
「……というか…………『恋人』自体が、その…………見栄で……。」
佳音は姿勢を戻し、俯きながら申し訳なさそうに弁明した。
雄太は静かにズボンのポケットに手を入れる。
「本当は、『恋人』なんて──っ!?」
カチリ、というカッターナイフの刃を出す音が聞こえ、佳音は思わず雄太の手元へ目を遣った。
「……俺の事を、弄んだんですか……?この、売女め……!」
雄太は佳音を睨みつける。その目は、「裏切り者」と言わんばかりの憎悪が込められていた。
「話っ……聞いてましたっ!?」
「絶対に許さない……!」
雄太は両手でカッターナイフを握りしめ、荒い呼吸で突進してくる。
「やっ──。」
佳音は、怯んで動けなかった。だが一瞬、夏希との組み手が頭を過ぎり、とっさに両腕を胸の前で構えて半身を右にずらし、雄太の攻撃を流した。その際、僅かにタイミングが合わず左肘を浅く切られてしまったが。
そのまま佳音は、腹部に拳を入れる。雄太はぐうの音も出ず倒れ込み、気を失った。
佳音は恐怖のあまり、雄太を置いてその場から走り去った。左肘が切られている事も忘れ、校門を出て、気付いたら以前住んでいたマンションの方へと向かっていた。だが、我に返ると、今度は雄太を殴った事や置き去りにした事が気に掛かった。
(上原さんが倒れている事……誰か、気付いてくれるだろうか。まさか……『当たり所が悪くて死んだ』なんて事──ないよな?)
確かめに行きたい。
だが、またカッターで襲われたらと思うと、どうしても足が竦んで動けなかった。
通行人がじろじろと佳音を見る。その視線が自身の左肘である事に気付いた佳音は、肘を押さえて足早に人気のない道へと抜けていった。
着いた先は、由季が入院していた病院──から、歩いて10分程のピアノ教室だ。
一旦は病院に駆け込もうかと思ったが、事を荒立てたくはないし、幸いな事にほんのかすり傷だったので、血は既に止まっている。黒いカーディガンを羽織れば、見た目は何の違和感もなかった。
佳音はゆっくりと玄関のドアを押し、隙間から顔を覗かせた。
「…………こんにちは……。」
ドアを開けると、かすかにピアノの音色が聞こえてくる。曲は『メヌエット ト長調』。
弾き慣れていないのか、まだぎこちない音色に佳音は目を細める。
壁に掛けられた時計に目を遣ると、時刻は16時48分。
レッスンが一段落つくまで、あと10分程だ。
(やっぱり帰ろう……。)
佳音が踵を返すと、「あの……?」と女子高生が声をかけてきた。恐らく次にレッスンを受ける子なのだろう。同じように黒いカーディガンを羽織っているが、セーラー服の襟から南高の生徒である事が分かる。
「っ……すみません。邪魔でしたね。」
佳音はそそくさと彼女の脇を通り過ぎていったが、後ろからもう1度「あのっ!」と声をかけられた。佳音はじろりと彼女を見る。
「…………何か?」
初対面に向かってよくこんな低音が出たものだ、とつい心の中で自嘲するが、彼女は全く怯えた様子がない。墨色の長い髪とセーラー服が、いかにも『清楚で弱々しいお嬢様』という印象を与えるが、どうやら弱々しくはないようだ。
「…………大丈夫、ですか?」
佳音は目を丸くした。
血は滲んでないはずだ、と思わずカーディガンの上から左肘を押さえる。
「……何がですか?」
先ほどの低音に、警戒感が加わった。
「あっごめんなさい……!何か、辛そうな感じがしたんで、つい……!」
この子はほのかと同じで、どこか直感に優れた所があるのだろう。
(それとも、顔に出ていたか……。)
彼女の口ぶりだと、そうとも受け取れる。佳音が眉間に皺を寄せると、彼女は「あ」と声を上げた。
「先生に用事があるんでしたら、もうそろそろ終わりますよ?」
一生懸命明るく話す彼女を、佳音は冷たく突っぱねる。
「次にレッスン受けるの、あなたじゃないんですか?」
「そうですけど……。私は、多少始まる時間が遅くなっても 構いませんし。」
今回あまり練習してないんですよ、と苦笑する。
「『出来る事なら弾きたくない』と。」
つい率直な感想を口にしてしまい、佳音は「すみません……。」と口を押さえる。
「あはは。正直、そうですね──。」
「ありがとうございましたー!」
レッスンを終えた小学生が、元気よくドアを開けた。玄関の外で突っ立っている2人を見て、驚いてフリーズする。
「はい、ありがとうございました──どうしたの?」
ピアノ講師・三石響子も、玄関の外で突っ立っている2人を見て、不思議そうに声をかけた。
「とりあえず、入りなさい。」
「入りましょうよ。」
「いや──……はい。」
結局、流される形で佳音も中に入り、彼女の要望で2人でレッスンを受ける事になった。
組み手では、夏希は遊んでますけど佳音は必死です。ある意味、佳音の動きは「夏希に叩き込まれたもの」です。




