第4話 迷子のルゥ
市場広場の端で、小さな女の子が泣いていた。
年は五つか、六つくらい。
両手で服の裾を握って、必死に涙をこらえようとしている。けれど、こらえようとするほど、余計に涙が出ている。
周りの子どもたちは、少し離れたところで困った顔をしていた。
「迷子でしょうか」
私が言うより早く、遥斗は動いていた。
速い。
勇者の力、というより、体が先に動いた感じだった。
「こんにちは」
遥斗は女の子の前でしゃがんだ。
目線を合わせる。
その動きが、妙に自然だった。
「お母さん、いない……」
「そっか。はぐれた?」
女の子は小さくうなずいた。
「怖かったね」
「こわくない」
「そっか」
遥斗は真面目な顔でうなずいた。
「じゃあ、怖くないまま泣いていいよ」
女の子は、さらに泣いた。
私は少し離れて見ていた。
泣き止ませようとしない。
急かさない。
ただ、そこにいる。
ああ、と思った。
こういうところは、変わらない。
「名前、言える?」
遥斗が聞いた。
女の子は鼻をすすりながら答えた。
「ルゥ」
「ルゥちゃん。俺はハルト」
「はると?」
「そう。昨日この街に来たばかり」
「きのう?」
「うん。新入りです」
「しんいり」
「だから、街のことはルゥちゃんの方が詳しいかもしれない」
ルゥが少しだけ顔を上げた。
「ほんと?」
「本当。焼き菓子のおいしい店も、まだ知りません」
「しってる」
「じゃあ、あとで教えて。その前に、お母さんを探そう」
うまい。
泣いている子に、泣くなと言わない。
代わりに、小さな役目を渡している。
私は何も言わずに見ていた。
「リシアさん」
遥斗がこちらを見る。
「はい」
「迷子を預かる場所って、ありますか」
「広場の南側に警備詰所があります」
「じゃあ、そこへ」
遥斗は立ち上がり、ルゥの手を取ろうとして、少し止まった。
一瞬迷ったあと、自分の手ではなく、腰に付けていた布紐の端をルゥに渡す。
「これ、持てる?」
「うん」
「じゃあ、俺が前を歩くね。リシアさんも一緒に来てくれるから」
ルゥは布紐をぎゅっと握った。
私は隣に並ぶ。
「勇者様」
「はい」
「その紐、装備品では?」
「あ、そうなんですか」
「はい。たぶん、剣帯の補助紐です」
「返した方がいいですか」
「今さら返されても困ると思います」
「ですよね」
遥斗は少し困った顔で笑った。
ルゥは、きょとんとしている。
「はると、ひもなくなったらこまる?」
「ちょっと困るかも」
「かえす?」
「お母さんを見つけたら返して」
「うん」
ルゥは真剣にうなずいた。
歩きながら、ぽつぽつと話し始める。
母親と市場に来たこと。
焼き菓子の屋台を見ていたこと。
気づいたら母親がいなかったこと。
泣いたら怒られると思ったこと。
遥斗は一つずつ聞いた。
短く相づちを打つだけで、余計なことは言わない。
「泣いたら怒られるの?」
「お姉ちゃんが、もう大きいんだから泣かないって」
「そっか」
遥斗は少し考えた。
「でも、大きくなっても泣くよ」
「はるとも?」
「泣きます」
ルゥは驚いた顔をした。
「大人なのに?」
「大人でも」
「勇者様なのに?」
「勇者様でも」
「へんなの」
「そう?」
「うん」
遥斗は少し笑った。
「じゃあ、変でもいいよ」
ルゥはしばらく布紐を握ったまま歩いた。
それから、小さな声で言う。
「泣いても、お母さん怒らない?」
「たぶん、怒らないと思う」
「たぶん?」
「俺、ルゥちゃんのお母さんに会ったことないから」
「そっか」
「でも、すごく探してると思う」
ルゥは鼻をすすった。
「泣かない人が強いってわけじゃないよ」
遥斗は言った。
「泣いても、ちゃんと歩けたら、それで十分だと思う」
ルゥは何も言わなかった。
ただ、布紐をさっきより強く握った。
私は横で聞いていた。
たぶん、この人は同じことを現世でも言っていたのだろう。
私の知らない教室で。
私の知らない子どもたちに。
そう思ったら、少しだけ息が詰まった。
でも、嫌ではなかった。
*
警備詰所に着く前に、ルゥの母親が見つかった。
向こうから走ってきた女性は、顔を真っ青にしていた。
「ルゥ!」
「お母さん!」
ルゥは布紐をぱっと離して、母親に飛びついた。
母親はその場にしゃがみ込み、ルゥを抱きしめる。
「どこ行ってたの、もう、ほんとに……」
「ごめんなさい」
「いいの。いいから。いたから」
母親の声が震えていた。
ルゥは最初、我慢しようとしていた。
でも母親の服を握った途端、また大きく泣き出した。
遥斗は少し離れて、それを見ていた。
さっきまであれだけ自然に話していたのに、母親が来た途端、すっと引いた。
親子の間に入らない。
そういうところも、うまい。
「勇者様、ありがとうございます」
母親が何度も頭を下げた。
「俺は、ほとんど何もしてません」
「そんなことありません。本当に、ありがとうございます」
遥斗は困ったように笑う。
ルゥが母親の服をつかんだまま、顔だけこちらに向けた。
「はると、泣いてもいいって言った」
「うん」
遥斗はうなずいた。
「でも、泣きすぎると疲れるから、ほどほどにね」
「ほどほど」
「そう。あと、焼き菓子の店」
ルゥは思い出したように顔を上げた。
そして、広場の奥を指差す。
「あそこ」
「ありがとう」
遥斗は本当に助かった、という顔で礼を言った。
ルゥは少し得意そうにした。
母親に抱きついたまま、小さく手を振る。
「ばいばい、はると」
「ばいばい」
「ひも」
「あ、忘れてた」
遥斗は自分の腰を見る。
補助紐はルゥの手から離れて、いつの間にか地面に落ちていた。
ルゥが拾おうとする前に、私は杖を軽く振った。
紐がふわりと浮き、遥斗の手元へ戻る。
「ありがとうございます」
「いえ。装備品は大切にしてください」
「はい。すみません」
「勇者様が初外出で剣帯を分解した、と記録されたくなければ」
「それは嫌ですね」
「ノエルなら書きます」
「誰ですか、ノエル」
「書く人です」
「説明が怖い」
遥斗が笑った。
それにつられて、私も少し笑ってしまった。
ルゥが不思議そうに私たちを見る。
「リシアお姉ちゃんとはると、なかよし?」
笑いが止まった。
遥斗も一瞬固まった。
「え」
「ちがうの?」
ルゥは首を傾げている。
悪気は一切ない。
それが一番困る。
「違います」
私は早口で答えた。
「勇者様と私は、案内役と召喚者です」
「しょうかんしゃ」
「昨日この街に来た人です」
「しんいり?」
「そうです」
ルゥは納得したようにうなずいた。
「じゃあ、なかよくしてあげてね」
今度は私が黙った。
遥斗が少し笑う。
「はい。してもらってます」
「私が、ですか」
「違います?」
「……案内役ですので」
「便利ですね、案内役」
「便利です」
私は前を向いた。
子どもは怖い。
王都の噂より、たぶん少し怖い。
*
ルゥに教えてもらった屋台は、広場の奥にあった。
焼きたての丸い菓子が、木の板に並んでいる。
生地には蜂蜜と木の実が練り込まれていて、近づくだけでかなり甘い匂いがした。
「これですか」
「はい。王都では人気です」
「甘そうですね」
「甘いです」
「もう分かるんですね」
「匂いで分かります」
遥斗は少し迷ってから、一つ買った。
屋台の店主は勇者様だと気づいたらしく、最初は代金を受け取ろうとしなかった。
遥斗は困った顔をして、結局、私が間に入ることになった。
「受け取ってください。勇者様が困ります」
「でもよ、勇者様から金を取るなんて」
「取らないと、次から勇者様は何も買えなくなります」
「それは……困るな」
「困ります」
店主はようやく代金を受け取った。
遥斗が小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。勇者様に食ってもらえるなんて光栄だ」
「まだ何もしてないので、普通に扱ってもらえると助かります」
「そ、そうか。普通に」
店主は少し戸惑った後、妙に真剣な顔でうなずいた。
「じゃあ、普通にうまいぞ」
「ありがとうございます」
遥斗は笑って、焼き菓子を一口食べた。
そして、微妙な顔をした。
「甘いですね」
「甘いものは苦手ですか」
言ってから、少しだけしまったと思った。
私は知っている。
遥斗は昔から、甘すぎるものが苦手だった。
でも、リシアは知らない。
遥斗は焼き菓子を見つめたあと、正直にうなずいた。
「少し」
「では、半分もらいます」
「いいんですか」
「はい。王都案内料です」
「安いですね」
「次から上げます」
「値上げが早い」
「王都なので」
「王都、便利ですね」
「便利です」
遥斗は笑って、焼き菓子を半分に割った。
その手つきが、妙に見慣れていて困った。
私は受け取り、すぐに一口食べる。
甘い。
かなり甘い。
でも、好きな味だった。
「リシアさんは、甘いの好きなんですか」
「好きです」
「じゃあ、よかった」
ただ、それだけの会話だった。
焼き菓子を半分もらっただけ。
それなのに、なぜか返事に困った。
私は焼き菓子をもう一口食べる。
甘い。
とても甘い。
今は、それだけを考えることにした。




