#110 トーラス・ドラフォイ。(1)
◇◆◇およそ二時間程前・ベクール王城◇◆◇
パンを食べながら一国の王に向かってくしゃみを吹きかける。
そんな、エチケットを司る神様なら聞いただけで卒倒してしまいそうなリエルの所業により、混乱に包まれた謁見の間。
状況を打開するのは難しい。そう思った時、メル含む五人は眼を擦っていた。本来であれば眼を擦るのは一人でいいにも関わらず、五人全員で。
シンクロナイズドスイミングさながらの揃った動きで、五人同時が同時に眼を擦る、という不自然な行動に誰も気付かなかったのは、騎士達の視線全てがベクール王に集まっていたからであろう。
伝信を発動させる為の合図として決めてあった【眼を擦る】という行動を起こした五人を特別な空間から確認したレコード・ルーラーは、「ふぅ」と小さく溜め息を吐き、開いておいた魔法の本に手をかざした。
当然、混乱したままの現場では、伝信発動までの時間は僅かな間にも周章狼狽する騎士達が落ち着きを取り戻すわけも無く――。
「陛下!申し訳ありません!私が側に居りながら、このような屈辱を受けさせてしまうとは!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
謁見の始まる前、ヤハスからの嫌みにもあれほど平然を装っていたムアーカだが、ベクール王の顔面に吹き付けられたパンくずを拭き取る今の彼には一欠片の余裕も無かった。
リエルも半べそをかいている。
「その者をこちらへ!例え天使が伝説に名のある種族だとしても、この行いを黙って見過ごす訳にはいきません!」
「キャッ!」
右側の最前列に位置していた騎士もムアーカと同時に駆け出すと、ベクール王の膝からリエルを強引に引き剥がした。
大きな体はワナワナと震え、今にも剣を鞘から引き抜き、リエルの首を跳ねてしまいそうな形相である。
「リエルーッ!!」
悲鳴ともとれるメルの叫びを聞き、慌てて隣に振り向いたヤハスだったが、メルの姿は既に無く、くしゃりと穴の空いた赤絨毯と、ハラリと舞う赤い布切れだけがそこに在った。
ハッとしたヤハスが前方へと視線を移す。と、リエルを庇うように騎士の間に割って入るメルが居た。
自分が助けに入らなければリエルが殺されてしまうと思ったのだろう。
「メル様!待って!」
一同の頭の中にレコード・ルーラーの声が響いたのは、この直後であった。
“人界・東の地に住まう者達に告ぐ。かの悪魔王と同種、あらゆる魔力を自身の魔力として取り込む事を可能とする幻魔族の再来が確認された。
対処を為違えた時、消失は王都ベクール領地・フスカ村だけに止まる事は無いだろう”
「「「――――ッ!!」」」
「なんという事だ……!」
「黒ノ王の次は幻魔族だと!?一体どうなっているのだ!」
レコード・ルーラーの声に一瞬シンとした謁見の間が、再び混乱に包まれた。
「ええい!静まれ!!」
突として、ドンと肘掛けを叩いたベクール王。その怒声に、騒いでいた騎士達が押し黙る。
静けさを取り戻した謁見の間が、ヒック、ヒック、というリエルの出す情けない音だけになると、ベクール王は再び口を開いた。
「これしきの事態で狼狽えるとは、今のイーストランスはそんなものか?先も、ワシがたかだかくしゃみ一つかけられたくらいで取り乱しおって。お前達はワシをそれほどまでに器の小さい男だと見せたいのか?」
(実際、君は器の小さい男じゃないか)
ヤハスは思ったが、もちろん口に出すつもりは無い。
「出過ぎた真似を致しました!どうか、お許しを!」
氷のようなベクール王の言葉に、直ぐ様立て膝をつき、謝罪を述べたムアーカ。内心、思うところもあったのだが、言い訳は逆効果になると理解した上での行動だ。
「下がれ」
「ハッ!」
ムアーカを左側の最前列に戻し、もう一人の騎士を睨み付けたベクール王。その眼光は凄まじいもので、真っ直ぐに目を合わせた騎士の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「イーストランス団長・ハーリッド!」
「ハッ!」
「貴様、ワシが六人に、今後は友人として接しても良いと、そう言っていたのを聞いていなかったのか?」
「いえ…………ッ!」
「ならば何故、リエルを斬ろうとした?」
「まさか、斬ろうなどとは!厳重に注意をしようとしただけです!せめて、くしゃみの時には口に手を当てよと。ただ、手荒くなってしまった事は深く反省しております」
「下がれ」
「ハッ!」
ド正論だ。五人は思った。
「あの、私からも謝らせてください!リエルがとても失礼を働いた事、それと、ビックリして飛び出してきちゃった事、本当にごめんなさい!ほら、リエルも頭を下げて!」
「うびぇ、ごべんなばい……」
「うむ、気にするな。さて、これ以上時間を無駄にする訳にはいかんな。幻魔族はイーストランス総出で迎撃に当たるとしよう。それについて、ヤハス殿の見解は?」
「イーストランスが強いのは知っているつもりだけど、幻魔族の強さが黒ノ王より上だと考えるなら、十分とは言えないかもしれないね」
「ほぅ。シャルティは何処へ行った」
「ここに。遠征に出ているマークの隊から二名が戻ったが、後にせよと伝えておいた」
混乱時に奥の出入口からこっそりと抜け出していた魔導師だったが、ベクール王の呼び掛けを聞き、しれっと玉座の斜め後ろに位置づいた。
「今更か……まぁいい。シャルティ、幻魔族とやらの魔力は感知できるか?」
「俺の感知でハッキリ捉えられるのはせいぜい二十キロ圏内が限界だ。遥か遠くに大きな魔力の塊があるのはぼんやりと分かるが、流石に距離がありすぎる」
「そうか。シャルティは魔導師団と共に王城へ残り、守りを固めよ。国民の混乱回避、避難誘導は子爵以上の貴族を集めて対策を練らせると良い」
「良いのか?」
「ワシとて時と場合くらいは選んでいるつもりだが?使える貴族を見極めるにも良い機会かもしれぬしな。有事の際に動けぬ貴族が居たならば、爵位を剥奪するまでだ」
「ふふ、了解。ああ、そう言えば、マークの隊からの情報によるとチャロに中規模のローグの一団が滞在していたらしい。レコード・ルーラーの声を聞いて迎撃に向かうかもしれない」
「チャロにローグの一団……ドーガの洞窟を攻略していたとすると、それなりに腕の立つローグ共なのだろうが、そやつらを当てにするのはリスクが大きいな」
「確かに」と一言残し、再び奥の出入口から姿を消した魔導師。結局最後まで深いフードに隠れ、メル一行が顔を見知ることは叶わなかった。
「ハーリッドはイーストランス総員を引き連れ、幻魔族を討て。魔物が大量発生する可能性も考慮し、上級兵士のみで編成した兵団も二つほど連れて行くがいい」
「ハッ!では失礼して、早速準備に取り掛かって参ります!ムアーカにはライネルホースと兵団の為の軍馬の手配を任せる」
「北門に揃えておきましょう」
「私もバックス卿への言伝、兵団の編成が終わり次第にすぐに北門へ向かう」
ベクール王とメル一行に軽い一礼をして謁見の間を後にしたハーリッドとムアーカに連なって、慌ただしく退室してゆく騎士達。
謁見の間に残ったのはベクール王トーラス・ドラフォイとメル一行だけとなり、途端にガランとした大広間には静寂が訪れた。
「メル」
「ヒァイッ!」
静けさの中、不意にベクール王に名前を呼ばれた事でメルの返事が裏返る。




