レナスの変装 潜入作戦 二
「ヘール・メナスさん……? 何かどこかで、聞いたようなお名前ね……?」
時間にするなら約三十分後。私はティレロ邸の一室に居た。
おそらく客間の一つだろうか、赤を基調とした派手な部屋だ。
私は今、テーブルを正面にソファーに腰かけて話しをしている。
テーブルを挟んだ向こうには、同じくソファーに座った女性が居て、私の偽りの名前と経歴を、手にしたメモに書き込んでいる。
女性の年齢は三十半ばか、或いはそこから過ぎた程度。予測であるがこの屋敷のメイドを束ねる長だと思われた。
「……分かりました。あなたを採用します。真面目そうだから期待して居るわね」
「あ、ああ。よろしく頼む、じゃない、よろしくお願い致します……」
幸いな事に採用されたが、これでは先がかなり危うい。
言葉遣いは特にだが、意識して気を付けないとまずい事になる。
主人――この場合はティレロになるが、奴の頼みに「うむ」等と言おうものなら、一発で私をバレかねないだろう。
「じゃあまずは基本的なマナーね。お礼を言う時には席から立って、両手をおヘソの上につけて、四十五度でお辞儀をするのよ。はい、早速やってみて」
「あ、はい……」
どうやら早速始まったらしい。なるほど、こういう流れになるのか。
そこには妙に感心をして、言われた通りにやってみる。
「そうそう。いいわ。筋が良いわよー。じゃあ次はお辞儀をした時に、「かしこまりました。ご主人様」と言って見て」
「なっ……!?」
これはかなり……レベルが高い。言おうとするだけで鳥肌が立つ。
しかも相手がティレロなのだから、私の嫌悪感も相当の物だ。
「か、か、かしこ……まりました……ご、ごしゅっ……ジン……サマ……」
辛うじて言った。言ってやった。鳥肌もそうだが脂汗が凄い。
本当に嫌な事をやろうとすると、人間は一瞬でここまでに行けるのか。
「ちょ、ちょっとぎこちないわねぇ……もう一度言って見て」
「殺す気か……!」
「えっ?」
「あ、いや、何でも無い……です」
これも自分で選んだ道だ。茨だらけでも退く訳には行かない。
顎に伝った汗を拭き、息を整えて再挑戦する。
「か、かしこまり……ました……ごしゅじん……さまあああ……ッ!」
「殺す気なの!?」
今度は逆に女性が叫ぶ。歯を食いしばり、目を剥いた結果が、殺意として彼女に伝わったようだ。
だが、それくらいの気迫で臨まねば、簡単には克服する事は出来ない。
「兎に角もう一度、リラックスして?」
「あ、ああ……」
言われた為に深呼吸をする。胸が苦しい。服のせいもあるが……
兎に角、少し落ち着いた私はそこからはひたすらに練習をした。
そしてその結果。
「カシコマリマシタゴシュジンサマ……」
無表情で、感情を込めなければ言える事が分かり、それでとりあえず合格となった私は別の部屋へと案内される。
天井が高く、やけに広い。
長いテーブルがいくつも置かれた、王宮の食堂宛らの部屋である。
「じゃあ次はお掃除の仕方ね。ここを一時間で終わらせましょう」
普通に無理だ。三時間でもキツい。私は正直そう思ったが、「カシコマリマシタゴシュジンサマ」と、感情を込めずに言葉を返し、女性に「メナスさん!?」と驚かれるのである。
館の主、ティレロ・アルバードに帰って来たのは、雇われてから二日が過ぎた日の事だった。
「おい! 旦那様がお戻りだぞ!」
そんな声は調理師の物だったか。邸内がにわかに騒がしくなる。
私はその時、ベッドメイキングの方法をメイド長――フォルトに教えて貰っていたが、直後に「来て!」と彼女に引っ張られてティレロを迎える列にと加わった。
場所はロビーで、玄関は左手。私の列と前の列とで主人のティレロを出迎えるらしい。
並んでいるメイドは合わせて十程で、私は列の一番右に居る。
「(いよいよだが、まさかバレまいな……)」
少々の不安で眼鏡を押し上げ、玄関が開け放たれる音を耳にする。
「お帰りなさいませ! ご主人様!」
「!?……んさま!」
そして、皆から遅れて言って、フォルトに倣って頭を下げた。
言うなら言うで合図が欲しかった。練習も無しに揃う訳が無い。
危うく落としかけた眼鏡を押さえ、皆から遅れて頭を上げる。
「なっ!?」
すると、立ち止まっていたティレロと目が合い、私は思わず動揺するのだ。
見抜かれたのか!? それも一目で!?
そう思うが故の動揺だったが。
「見ない顔だな? 新入りか?」
どうやらそうでは無かったようで、それだけを言ってティレロは歩き出す。
「二日前に採用しました。ヘール・メナスさんと申す者です。メナスさん、ほら、ご挨拶を」
「め、メナスです……どうぞよろしく……」
言われた為に挨拶するが、ティレロは止まらず「うむ」と言うだけ。
そのまま階段を静かに上がり、二階のどこかの部屋へと向かった。
感じが悪い。それも相当だ。私だから良いが普通の娘なら、初対面で心が折れてしまうだろう。
だが、逆に、気さくに対応されて、握手の一つも求められて居たら。
……私は多分反射的に、その手を払い退けていたかもしれない。
そういう意味ではあの対応で良かった。助かったと思って小さく息を吐く。
「ほら、メナスさん! 次のお仕事よ!
厨房に行って種火を借りて、食堂の蝋燭に灯をつけて来て!
終わったらすぐに食堂に戻って、他の子達と料理を運ぶの!
十分で戻って! はいはい! 早く!」
「あ、ああ……」
「ああじゃなくて!」
「か、かしこまりましたぁ!」
矯正は進む。マズイ程に。このままではヤールに何かを言われても「かしこまりました!」と返してしまいそうだ。
無心。そう、無心にならなければ。あっという間に染められてしまう。
私はそう思い、フォルトに返事して、言われるがままに厨房に向かった。
それから銀色の皿に乗せた種火を貰って食堂に移動。
食堂は先日掃除した、天井が高くてだだっ広い部屋で、薄らと暗くなりつつある外の風景を尻目に、一人で蝋燭に灯を点けて回る。
「メナスさん! もう十分経ったわよ!」
半分程を明るくしたか、料理を持ってフォルトが現れる。他のメイドもその後ろに居て、彼女と共に食堂になだれ込む。
「まるで戦争だな……」と、密かに思うが、口には出さずに作業を続け、ようやく終わらせて厨房に行くと、料理は全て運ばれていた。
「三十点よメナスさん。次はもっとスピードを上げてね?」
「あ、はい……すみません……」
基本的には私が悪い。分かって居るが何だか辛い。最初から出来る物なのか? と、疑問もしたが答えは無かった。
「ふぁいと♡」
「次があるわよ♡」
「あ、ああ……」
同僚達に軽く叩かれる。悪気は無いのだろうが逆にキツい。
「あたしなんてマイナス六十点よ! それからしたらメナスさんは凄いわ!」
と言う、ツインテールの同僚については「何をした!?」と聞きたい所だ。
「それじゃ次はお料理の配膳よ。今日はお客様が来られるらしいから、粗相の無いように皆、気を付けて。
メナスさんには私が付きます。言われた事だけして下さいね」
が、フォルトが口を開いた為に、疑問を飲み込んで「はい」と返答。
その後にはメイド達全員で移動して、食堂の端に待機する事になった。
目の前には二本の長テーブルがあり、そこには色とりどりの料理が並ぶ。
「(マズイな……)」
そんな物を目にした為か、私は空腹を覚えてしまい、心の中だけでそう呟いて、両目を瞑って耐えるのである。
願う事はただ一つ。「腹よ鳴るな」と言う物だけだ。
同僚、即ち他のメイドは、私の本当の性格を知らない。
それ故にここで腹を鳴らせば、腹ペコキャラとして認定するだろう。
この歳で、この性格でそれはキツすぎる。逆に、明らかに聞こえて居るのに、無視をされるのも来るものがある。
兎に角マズイ。相当の危機だ。
仮病を装って抜け出すのも手だが、それでは「客」が誰だか分からない。
ティレロが誰と接しているのかは、極めて重要な事柄なのだ。
ならば最早、耐えるしか無い。腹が鳴らない事を祈りつつ。
生唾を飲んで誤魔化していると「いらっしゃいました」と誰かが言った。
目を開けると全員がお辞儀をしていたので、私も慌てて頭を下げる。
そしてティレロと、誰かが通り過ぎ、広い食堂の一画に着く。
気配で察するに右手最奥。向かい合うようにして座っているようだ。
皆に倣って頭を上げると、ティレロの顔が右正面に。客、と思われる誰かの側面が、視界の中に映り込んで来た。
赤に近い茶色の髪に、同色の口ひげには見覚えがある。
それに加えて聞き覚えのある声が、ある知り合いを特定させる。
……誰かと言うならドーラスだったが、私はそれを信じられない。
奴にはティレロに濡れ衣を着せられ、相当の煮え湯を飲まされた過去がある。
そんな奴が食事に同席し、向かい合っている理由がさっぱり分からない。
もしや奴も共犯なのか? 或いは引き込まれてしまったのか?
「ただいまお伺いいたします」
そう思っていると、ベルを鳴らされ、メイドの一人が近くに向かう。
そして、何かを言われた後にフォルトの前に移動して来た。
「お肉と野菜とお魚を少々。ワインは赤をご所望されているわ。
お肉はメナスさんにやって貰うから、その他はいつもの担当でお願いね」
「かしこまりました」
フォルトの指示でメイドが動く。向かった先は料理が殆どで、おそらくワインを取って来るのだろう、一人は食堂の外へと消えた。
私の担当は、多分、肉で、すぐにも呼ばれてフォルトに近付く。
「まずは一つを枕にしてから、左から順番に置いて行くのよ」
「あ、はい……」
それから始まった肉の講義には、適当な言葉を返して凌ぎ、ティレロとドーラスの会話の方にこそ聞き耳を立てて内容を伺う。
「良く生きて戻って来れたな」
これはドーラスで、ティレロは微笑する。
「私には女神がついていますので……
尤もそれは思い込みで、純粋な「運」で助かった気もしますが」
その後にそう言って小さく笑い、私とドーラスを疑問させた。
「さ、それではメナスさん、やってみて」
「……良い所なんだ。邪魔をしないでくれ」
「メナスさん……?」
「あ、いや、何でも無い……! 盛れば良いんだな……盛れば……」
間が悪いが仕方ない。彼女は仕事をしているだけだ。
悪いのはむしろ素性を偽って潜入している私なのだ。
考え直して素早く動き、適当に、大雑把に肉を盛って行く。
そして、皿を「そら」と突き出して、その動作のままで二人を伺った。
「まぁ、それは良いとしてだ……そろそろ教えて欲しいのだがな。
こんな所まで足を運んだのは、貴殿の言葉に一理を見たからだ。
誰に聞かれるか分からんと言う、貴殿の周囲への警戒の言葉にな」
「……単刀直入。まさにそれですね。
良いでしょう。ドーラス卿の御心配を一つ取り除いて差し上げましょう」
教えて欲しい。と、ドーラスはそう言った。
という事はティレロが知りえる事の、何かを教えて貰いたいのだろう。
「メナスさん! これは何!? 私がこんな事を教えたかしら!?」
良い所なのにフォルトが五月蠅い。このままでは二人に怪しまれてしまう。
「持って行けばいいんだな」
「ちょっ!? メナスさッ……!?」
そう思った私は皿を奪い、二人の元へと静かに接近。
料理を置くどさくさで聞き耳を立て、ティレロが教えた内容を知る。
「レーヌ・レナス。鮮烈の青は行方不明ですが生きてはいます。
ヘール諸島のコールドの街で、見かけたと言う情報を入手しています。
ただ、その後の消息は不明で、現在の居場所もそれと同様。
ドーラス卿もご存知のように、簡単に死ぬ方ではありませんよ」
そう言って、ティレロは食器を握る。
それから止まったのは肉の配膳――私の取り分けを待っている為で、気付いた私は若干慌てて、ティレロの皿に肉を乗せた。
何の事は無い、私の生死をドーラスはティレロに聞いていただけだ。
そして、話の通りであれば、コールドの街では見つけられていたらしい
或いは変装を見抜いている可能性も、こうなるとゼロでは無くなってしまう。
「そう……か。いや、そうだな。レナス卿が簡単に死ぬはずが無い。
情報に感謝する。気持ちが晴れた」
こいつ……本当にそれだけの為に来たのか?
ドーラスの言葉に少々呆れ、食器を両手に私が固まる。
「ドーラス卿にも」
「あ、は、はい」
しかし、直後には取り分けを促され、鶏肉の腿のカットに移った。
ぐぅぅぅ~……
直後に鳴るのは私の腹の音。
思わず「あぁぁぁ~……」と、誤魔化しの声を出す。
が、二人とも気を遣って私に何も言って来ず、むしろそれが心に堪えて、眼鏡の奥の両目を潤ませる。
何か言え! むしろここは!
そうは思うが流石に言えない。仕方なく作業を続けていると、ティレロが唐突にドーラスに聞いた。
「……ちなみにドーラス卿にとって、レナス卿とはどういう存在で?」
勘弁してくれ。と、切りながらに思う。もしも悪口でも出て来ようものなら、後の付き合いに影響が出る。
勿論、この場に私が居ると思っていないから聞いたのだろうが、分かって聞いているのであれば、ティレロは本当に嫌な男だ。
せめてそう。「同僚だ」とか、「最近はちょっと見直した」とか、そういう言葉が出て来て欲しい。
肉を斬りながら思っていると。
「それこそ女神だな。愛していると言って良い。
尤も、歳の差を鑑みるに、本人には決してそんな事は言えんが」
とんでもない事をさらりと言って、ドーラスは横を見て遠い目をした。
「あ、あ、あ、愛だと!? 貴様! 何を言っているのか……ッ!?」
あまりに驚いた事もあり、私は思わず口走る。
二人の怪訝な顔を見て、不覚に気付くがもう遅い。
「あああっ! 手が! 手が滑りましたぁぁぁン!!」
と、切り分けた肉をドーラスに投げ、顔面にぶつけて素早く逃げた。
ドーラスとティレロ、そしてフォルトが「待ちなさい(て)!」と言っても私は止まらない。
結局そのまま厨房にまで逃げて、ドーラスが帰る時を密かに待った。
そして、約一時間後。
ドーラスが帰って片付けが始まる。
やがてフォルトに見つけられた私は当然の如くに説教をされ、なぜ、あんな事をしたのかの理由を質問されるのである。
「あー……その……昔付き合った事があるダメオにそっくりだったもので……」
勿論それは口から出まかせ。その場を切り抜ける為だけの嘘だ。
「……ふぁいと!」
「……次があるわよ!」
が、フォルトを「含めた」同僚達に、肩に優しく手を置かれ、何となく惨めな気持ちになった私は、引きつった笑みをその顔に浮かべた。
恋愛関係には好意的な同僚達……
と言う訳で旅立ちます。
予定では月曜には戻ってきますが、或いは何日か過ぎるかもしれません。
お待たせしてスミマセンが、よろしくお願い致しますです。