庭師は見た
本編の一ヶ月後くらいの庭師視点です。
「匿ってちょうだい!」
「うわぁぁお帰りください!」
突如現れた王女殿下は、飛び込んできた勢いのままに生垣の隅にしゃがみこんだ。ドレス、汚れちゃいますよ。
庭師の僕はいつも通りに仕事をしていた。と言ってもまだ新人なので、あまり人目につかない奥の、ちょっとした手入れくらいである。つい先程までその仕事に励んでいたものの。
王女殿下――第二王女のエミリー様が突然駆け込んできた。エミリー様は顔の両脇の髪を右側でまとめリボンで結うという髪型をしていたが、髪はほつれ、リボンも曲がってしまっている。
そしてそんなことを気にする余裕もなさそうに肩で息をし、地面に手をついて呼吸を整えていた。手も汚れちゃいますよ。
「どれだけ全力出して逃げてきたんですか……」
「明日、筋肉痛になるわ。いつぶりかしら」
引きこもっていたエミリー様は、最近活動的になった。というより、逃げ回り始め姿を見かけることが多くなった。王宮限定だが。
何から逃げているかなど、問うまでもない。王宮中の噂になっている。僕も逃走の様子を遠くから見たことならある。
「お願いですから、お戻りください。共犯にはなりたくありません!」
「不法行為は犯してないわ! 部屋を抜け出すときに多少のことはあったけれど」
「どうでもいいです恐い目にあいたくないんですー!」
「声を抑えなさい!」
器用にも小声で怒鳴られる。ついでに腕を引っ張られ、僕も生垣の陰に隠れる格好になる。
エミリー様はぐいっと身を乗り出してくる。近いです。
「奴は恐ろしく有能なのよ! いやに鼻がきくし地獄耳だしどこまでも追いかけてくるんだから……っ」
僕の腕を掴んでいる手がわなわなと震えている。どんな目にあったんですか。訊かない方がいい気がしたので、口をつぐんだ。
気の毒だが、僕だって自分の身が可愛い。身分もただの新人庭師だし。平民だし。
そういえば、こうやってエミリー様と会話をすることすらあり得ないことなのだった。王女殿下なのに侍女を引き連れたり、身分を笠に着たりしないからつい忘れてしまうが。
エミリー様は貴人らしくない。それは短所かもしれない。彼女自身そう思っているような、卑下しているような節がある。
でも、少なくとも僕にとっては長所なのだ。しがない庭師は視界に入っただけで難癖をつけられることもあるのに、エミリー様は庭いじりに興味を持って話しかけてきた。
そうして対話をすることで、僕は王家の方々も人間であることに気がついたのだった。遠くから眺めるだけで精一杯の、ぼんやりとした輪郭が、エミリー様と接することで確かな形を持ち始めた。
王族だって悩むし、笑うし、引きこもるのだ。恐れるだけの存在ではなく。
こういうと失礼なのだが、エミリー様は王族らしくなく、思っていたよりも普通の人だ。その親しみやすさは魅力だと思う。
だからつい、その魅力につられて会話を続けてしまう。
「どうしてそんなにお逃げになるんですか」
見目麗しく、地位もある青年だと聞く。侍女達が面白がって話すので噂の真実の程は定かではないが。
エミリー様は眉間に皺を寄せて、口をとがらせた。
「だって、いきなりすぎるのだもの」
「何がですか」
「いきなり現れたり、近づいたり、贈り物を持ってきたり、あと……」
「あと?」
「い、いろいろ言ってくるの」
視線を地面に落とし、頬はほんのり赤い。
『いろいろ』は、少なくとも悪いことではないようだ。
「どうせ追いかけられるのならば慣れてしまった方がいいのではないですか?」
「……私だって、平然としていたいけれど。お世辞だとわかっていても言われ慣れていないものだから、いちいち反応してしまって。真に受けているわけではないのよ」
お世辞、か。
噂や逃走劇から、お世辞ではないのでは、と思うが。
やはりエミリー様には自分を卑下しているようなきらいがある。自信がないというか。
だから彼の言動も素直に受け止められないのだろう。突っぱねて、お世辞だと決めてかかっている。それは自分の殻に閉じこもる、一種の逃げでもあって。
そんなに卑下する必要がないことに気づいてほしい、と願う。
もしエミリー様が彼と彼の言うことを認めることができたら、彼女の卑下もなくなると思う。自分を認める彼のことを認めることは、自分を認めることでもあるから。
「王女殿下、一度彼と――」
きちんと向き合ってみたらいかがですか。
そう続けようとした言葉が、唐突に襲ってきた悪寒に遮られた。背筋が凍る。まるで首筋に刃をあてられているかのようだ。
「おやおや」
その声は場違いなほど、軽快だった。眼前のエミリー様の目が見開かれる。
ぎぎ、といった音でもしそうなほどぎこちなく、僕達はそちらを――彼を、見た。
庭園にたたずむ微笑みをたたえた青年は、その美貌だけ見れば天の使いのようだ。しかし、その剣呑とした眼差しは、鋭く僕の喉元を狙っている。
噂の彼だと確信する。テオドール、とかなんとか。実家の爵位は確か侯爵。エミリー様を追いかける男。婚約者候補、であるらしい。まだ公式には何も発表されていないのだが。
そして、その溺愛ぶりは噂で聞き及んでいる。ひたすらに甘く、男が寄り付くのを許さない――だから僕は目をつけられる前に逃げようと思ったのに。
目をつけられるどころか、殺意たっぷりの目を向けられているのはなぜでしょう。
腰に手をまわすようにして、剣に手をかけていませんか。
「エミー様」
砂糖菓子のような甘さで、エミリー様を呼ぶ。
びくりと揺れたエミリー様。僕の腕が軽く引っ張られ、――そうか、これか! しゃがみこんだときに掴まれた腕がそのままだった。
思い至った僕は自分でも驚くべき素早さで、エミリー様の手を振り払い立ち上がって生垣に張りついた。エミリー様が恨めしげに僕を見上げる。乱暴に振り払ってごめんなさい。でも命が惜しいんです。ほら、殺意が消えました。
彼はエミリー様が僕の腕を掴んでいたことが気にくわなかったらしい。そんなことで狙われたら命がいくつあっても足りない。
「侍女がお茶の用意をしておりますよ。戻りましょう」
エミリー様は地面に手をついて、諦めたように息を吐いた。筋肉痛になりそうなほど逃げたそうだから、これ以上逃げる体力が残っていないのだろう。
流れるような動作で、「お手を」と彼が手を差し伸べる。エミリー様はその手を眺めたあと首を振った。
「私の手、土がついてますから」
ひらひらと手を振ってみせる。……さっき僕の腕は掴んでましたよね。いや、別にいいんですけど。
あっさり断られ引っ込めるかと思ったが、差し伸べたままの彼の手はエミリー様の手をとらえた。
「貴女の手をとれるなら、土にまみれても泥に埋もれても構いませんよ」
甘い。その表情も、視線も、声も。
正面からそれらを受け取ったエミリー様は、視線を有らぬ方向にやって苦虫を噛み潰したような顔をしている。しかしその耳はほんのり赤く、甘さが全く効いていないわけではないらしい。言われ慣れてないって言ってましたもんね。
彼は王女殿下のその表情を繁々と眺め、「おや」腰を曲げてぐっと顔を近づけた。
「お化粧を?」
エミリー様の肩が跳ねる。
ああ、なるほど。少し雰囲気が違う、とは思ったが、化粧か。よく見ると目元に薄紅色がのっている。口紅もつけているようだ。
化粧というものは女性を妖艶に派手にするものだと思っていた。だがエミリー様の化粧は素朴で、素材を損なわない自然さがあった。端的にいうと普段よりちょっと可愛らしい雰囲気になっていた。
「じ、侍女が張り切って、私が言ったわけでは」
「とてもお可愛らしいですよ。もちろんもともとの貴女もお可愛らしいですが」
するりと、エミリー様の手と繋がっていない方の手が彼女の頬をなぞっていく。僅かに顎を上向かせ、視線が交差するようにする。
「どんどん可愛らしく、美しくなられますね。自分のためにではないかと、うぬぼれてしまいそうです」
うぬぼれではないかもしれませんよ。エミリー様、もっと無頓着でしたし。思い返してみると、噂が出る前と比べてドレスにレースやフリルが増えたり、装飾品も増えた気がします。今日みたいな、髪にリボンは初めて見たかもしれません。
内心そう思いながらも、甘さに少し食傷気味の僕は黙っていた。
エミリー様はわずかに硬直した後、ぐわっと効果音でもしそうなほど勢いよく立ち上がった。――そしてドレスの裾を踏んだ。
後ろに傾いだその身体を、彼は背中に手をまわして難なく支えた。エミリー様が立ち上がったときも彼は握った右手を離さなかったので、さながらダンスでも踊るかのような格好だ。そして、顔の位置はかなり近い。身体が密着してるし。
エミリー様は小さく悲鳴をあげて俯いた。そのときに頭が彼の胸板にぶつかって、身体ごと後ろに引く。といっても背後は生垣で、そんなに距離は取れない。生垣の隅に逃げ込んだのが仇となって、彼に囲い込まれるような状態になってしまっている。
「大丈夫ですか? 寿命が縮むかと思いました」
心底安堵したような声音だった。
もとをただせば、彼のせいなのだが。そして、これで彼の寿命が縮むというならエミリー様の寿命はどうなっているのだろう。不死か。
「リボンが曲がっていますね」
エミリー様が俯いたことで、曲がったリボンに気づいたらしい。背中にまわした手を外して、リボンを調整する。ついでにほつれた髪をなでつけたり、耳にかけたりするという甲斐甲斐しさをみせつけてくれた。
それを好機とみたのか、耐え切れなかったのか、エミリー様は掴まれた手を抜き取って、生垣と彼の隙間から逃げ出した。僕もエミリー様の顔が赤くなっていく様子には居たたまれない気持ちになっていたので、彼女の再度の逃走にエールを送った。
とはいえすぐに彼が阻むなり追いかけるなりすると思っていた。しかし、彼はエミリー様の背中を見送るだけだった。
まさか。
そう思ったときには遅かった。彼は先程の甘さなど微塵もない目で、僕をまっすぐ見ていた。生垣と同化したはずだったのに。
庭師として王宮に上がってからの期間は長くはないが、難癖をつけられた数も少なくはない。これまでの嫌な記憶がよみがえる。貴族は怖い。何を言われるだろうかと、僕は身構えた。
「未婚の女性と、人目につかない場所で二人きりというのは感心しないな」
ぽかんと口を開けてしまった。
ただ、それだけ。
彼は他に何も言わず、何もせず、踵を返してエミリー様が逃げた方へ足早に向かった。
「庭師風情が」程度のことは言われると思った。刃傷沙汰という最悪の場合も想定したりした。だって、それだけ自由に力をふるえる地位にある人だから。
僕に難癖をつけるどころか、エミリー様を思っての忠告をくれた。
気が抜けた。
エミリー様、あの人、嘘は言わないと思います。噂通りの溺愛ですから。それにきっと、エミリー様と馬が合うような気がします。
でも、まだ向き合うのはやめた方がいいかもしれません。愛情過多で身が持たないと思います。それこそ寿命が危ないほどに。
エミリー様が慣れるか、彼が加減を覚えるまで逃走劇は続くだろう。今度は遠くで見守ろう、と顔をにやつかせながら思った。