第六十五話 完結
慶長五年九月二十三日昼四つ半(10:30)、黒田混成軍一万二千は第二軍に遅れること半刻 毛利秀元の先導露払いで大坂城北詰に到着した、到着と同時に本陣を布き戦闘態勢が整ったのは昼九つ頃だった。
長政は本陣に毛利秀元を呼んだ、父如水が彼と昵懇の間柄であることは知っていた、だが長政にしてみれば秀元などは一回りも年下で朝鮮の役で彼の軍が苦境にあるとき助けてやった想いもあり つい高飛車な態度に出てしまった。
「貴公に毛利家所領安堵の誓言書を発給したが それは仮書に過ぎぬ、真に所領安堵して欲しくばこれよりの貴公の働き如何と心得よ!」
秀元はこの大着な口利きに腹が立った、我も秀吉の繋累にして長門・周防・安芸17万石余の当主としての自負は有る、武功だけで成り上がった田舎大名風情に詰られるは腹に据えかねた、しかしながら関ヶ原で圧勝した家康軍を瀬田で瞬殺・殲滅せしめた情報に「あの長政が…」と震撼し大阪城に籠もり戦う方に同調した。
だが長政軍が守口辺りまで進出してきたことを聞くや恐怖心より己が関ヶ原で戦わずして引いた屈辱の方が勝り、従兄弟の毛利輝元・吉川広家らが止めるのも聞かず自軍一万五千を率い守口まで出張ってきた、だが夜風に当たり冷静さを取り戻すと「長政に勝てるわけがない」そう思えてきた、あの徳川軍五万余を一瞬で焼き殺したという砲の存在は既に知れ渡り、持てる連発銃も当たれば肉が四散する恐るべき凶器を黒田軍の全兵が携行していると聞いた。
そんなとき長政の降伏勧告状と毛利家安堵の誓言書が使者により届けられたとき、情けなくも「助かった」と思った、そのとき朝鮮で会った黒田長政の貌を思い出した、あの怖ろしげな加藤清正や福島正則ら武闘派連中と同じ獣臭を漂わせていた奴だと。
「ではそれがしに何をしろと申されるのか!」
「分からぬとな…なら教えてやろう、おぬしの従兄弟ら毛利諸侯と関ヶ原から城に逃げ込んだ奴儕を儂の前に引き据えよと申しておる、貴公 軍門に降るとは屈辱と引き換えに命と領地を安堵するにある、そんなことぐらい覚悟して軍門に降ったのであろう、さぁ仏頂面せずにとっとと大坂城へ行って参れ!」
そのとき陣幕を跳ね上げ本陣に入ってくる人影があった。
「お、親父殿…なんでまたここに…」
「何でまたは無かろうが、それより もそっと優しゅう声がかけられぬか、見てみよ秀元殿の膨れっ面を、当方の軍門に降った悔しさは誰とてあろう、それを頭ごなしに詰るものではない、のう秀元殿」と微笑む如水だが目は笑ってはいない。
「さぁ秀元殿、輝元殿以下 城に籠もっておられる御歴々の領地は安堵するよって、安心して城を開城しそれぞれの領地に直ぐさまお帰り下され、そう輝元殿にお伝えして下さらぬか」
如水の登場で一触即発の座はしらけ、秀元は怒りを収めると「分かりもうした、ではこれより城に参内し掛け合って参りまする」そう言うと長政を一瞥し憎々しげに睨み付け陣幕を跳ね上げ出て行った。
「親父殿、彼奴は昔から優しゅうするとつけ上がりますよって今日は手厳しく対処したのでござるに…」
「まぁ怒るでない、彼奴はこれほど呆気なく領地が安堵されるとは思うてはおらぬはず、そう方便に過ぎぬのよ、ククッしかしこれまでは儂が叱っておぬしがなだめる役じゃったが…知らぬ間に逆転してしまったな、まっ儂もこの方が楽じゃによってこれからはこの手でいこうぞ」
「親父殿……それはそうと豊前から第一~第三師団が到着するのは計画によれば本日の夜のはず、何でまたこれほど早ように到着できましたのか、それと親父殿は九州の抑えで豊前にて誠二郎と留守居の筈ではござりませんでしたか」
「そうよ、そのつもりじゃったが昨夜おぬしからの書状で福島・浅野・加藤の三大名を軍門に降らせたを知り、あの癖のある三大名がお主の意のまま動くとは思えぬでな、心配で心配で中津なんぞで遊んでもおられず昨夜遅く中津を発って今朝方大阪に着いたのよ」
「昨夜発って今朝方大阪に着くとは…そんな馬鹿な、早馬を飛ばしても無理な話…」
「いやなに誠二郎が哨戒艇なるものを造ってくれての、その早いことには驚かされたわ」
「では栗山中将らの戦艦を追い越し単独で見えられた事になりましょう、なんと危ない真似を…虎の口に頭を突っ込むようなもの、淀の川番所をようも無事にくぐり抜けましたなぁ」
「まぁその話はよい、それより福島・浅野・加藤の三人をここに呼んでくれぬか、未だあの三人が黒田の軍門に降ったとは俄に信じられぬ、直に会って確かめたいのじゃ」
「親父殿、彼らからは誓詞も取っておりますゆえ間違いなどござりませぬ、ご安心下され」
「ええから呼べ、彼らを安堵すれば清正も何とかせにゃならんだろう、三人が黒田の意に従うこと間違いないのなら、儂等が清正に交渉するより福島あたりにやらせた方がうまく事が運ぶと思わぬか」
長政自身 六つ年上の加藤清正には正直子供の頃より苦手でどう軍門に降らせたらよいか悩んでいた、だが如水の福島正則にやらせてみよは妙手と思った。
さすが親父殿と思い、一方如水も関ヶ原で活躍した長政に久々に会ったが顔つきも変わり、何より威厳が備わっていることに驚いた、貫禄というか…今の長政であれば あの海千山千の三武将を膝下に押さえ込んだというのもあながち眉唾でもなかろうと思えた。
昼八つ半(15:10)大坂城より兵らが続々と出てきた、その行軍は京橋から長政の本陣背後を回り西に向かって粛々と行進していった、その数およそ四万 だが各軍の将は誰一人として長政の本陣を訪れ挨拶も無く去って行く、もしこの場に大殿如水がいなかったら長政は決して彼らを許さず、この地で四万人全てを焼き尽くしていただろう、長政は(彼奴ら いずれ俺の面前で土下座させてやる)そう思い拳を強く握った。
その日の夕刻、長政合同軍二万一千五百は大坂城に入った、入城してすぐに如水と長政は二ノ丸に行き淀殿と御年七才になられる秀頼公に面会を求めた、だが本日は気分すぐれぬゆえと柔らかく断られた。
如水は秀吉に重宝されていたため淀殿や秀頼公には何度も会い淀殿とは長年親しんできた間柄であった、だが長政は御二人には二度ほど御会いしただけで相手からすればほぼ面識ゼロといったところか。
「淀殿はそうとう御立腹の様子じゃのぅ、まっ信頼しておった家康を殺されたとあっては俄には御愛想も言えぬが本音よ、じゃが儂等に知らぬ顔がいつまでも通るとは思ってはいまい、この儂を知る淀殿であれば殿下の威を借り毛利輝元の様に意のまま操れるとは思うてはおらぬはず、この城も豊臣宗家も今や儂等の掌の中にあることを何と思うておるのやら…、淀殿の出方次第では今すぐ潰すことなど造作もなきこと、田舎大名と侮っておるなら痛い目に遭おうものを…まっ明日になれば向こうから会いに来るだろうよ」
如水は涼しげな貌で笑っていたが長政にすれば面白くはない、長政はその昔 人質ではあったが秀吉公や正室おね様から我が子のように可愛がられて育った、その母とも慕うおね様(北政所)は殿下と共に豊臣宗家を築いてきたというに、殿下亡きあと秀頼公を慮りまた淀殿に遠慮し大阪城を出て京の新城に住まわれたと聞く、長政にしてみれば殿下は側室淀殿に色狂いし正室を蔑ろにしたという想いは強い、よって淀殿が憎くもあり今や生殺与奪の権を握る我らを事もあろうに門前払いする勘違いは許せぬと憤り、廊下を殴るように歩き如水に窘められた。
あれから十日が過ぎた、依然 淀殿のからは何の音沙汰もない、落剥した権威にいつまでしがみついているのだろうか、こうなれば常識を疑うよりほかはなし、如水の「明日になれば…」は見当外れに流れ如水も面目を潰され良い気はしていないだろう。
そのころになると全国各地から黒田家に仕官したいという者が大坂城虎ノ口に市を成すように連日行列が出来ていた、仕官希望者は東は南部領から西は島津領と広範囲で面接官は特に名の知れた武将らを優先的に内定していった。
戦国時代に於けるの主従とは契約関係で成り立っていた、仕える主君が凡庸であれば家臣らは牢人となるを辞さず。有能な武士であれば何度でも主家を代え立身出世に精出す者は多く、恩賞・俸禄の多寡で主君を見限り他家に仕官を願ったり、この度のように西軍に与し大敗した大名家の家臣らが引きも切らず押しかけていた。
そんなある日、如水は「機は熟したゆえ各諸将を一堂に会し会議を開く、すぐにも本丸に皆を集めよ」と下知した。
集まった諸将らは以下の如く。
黒田家
黒田長政大将、栗山善助中将、母里太兵衛中将、黒田三左右衞門中将、後藤基次少将・黒田直之少将・井上之房少将・久野次左衛門少将・吉田長利少将
臣下
福島正則、浅野幸長、加藤嘉明の他 彼らの陪臣六名。
「本日集まって貰ったは豊臣宗家の今後の行く末のことじゃが…」と如水は切り出した。
大殿如水が「少しの間 大坂に行ってくる」と言い残し出来たばかりの哨戒艇に乗り込み深夜大阪に発って早三ヶ月が過ぎた。
その間に九州統一は進み、多くの大名家が中津に来訪し領地安堵の条件で軍門に降ることを約した、また十月福島正則が中津に訪れ誠二郎に面会すると軍事大綱について教えを請いたいとの申し出があり、正則は五日ほど滞在し黒田家の陸・海軍事大綱の概要を学ぶと、これより加藤清正に会い黒田家の軍門に降るよう説得して参ると肥後へ発った。
その半月後、今度は加藤清正が中津に訪れ福島正則と同様に黒田家の軍事大綱を学ぶと、黒田家の軍門に降るとの誓詞を差し出した、誠二郎は予てより清正の誓詞と引き換えに小西行長の宇土領及び相良頼房の人吉領を加藤清正に下賜し肥後一国を与えよという長政の命に従い論功加増証書を発給した。
また十月終わりに薩摩の島津家が中津に来訪し黒田の軍門に降ることを約した、そのとき誠二郎は我が軍門に降るは大隅と日向は召し上げ、薩摩一国の安堵となるがそれでも良いかの下問に、謹んで承ると応えた。
これによりほぼ九州は平定され、百二十万石ほどの大名家が取り潰されこれら召上領は黒田家の直轄領とした。
十一月に入ると中央では豊臣宗家が元の羽柴姓に改名され、小早川秀秋の備前・美作五十一万石を改易し その後へ入府させることになった、この豊臣宗家落潮は東北の諸大名に反感を買い、特に伊達と上杉が あろう事か連合を組み一時は大坂を攻めると意気込んだが、周辺の南部・最上・相馬・佐竹らが黒田家の軍門に降り領国安堵を願う誓詞を差し出したとの噂が流れ伊達と上杉の勢いは消滅した。
そして予てより関白九条兼孝に長政の将軍宣下の下工作が進められていたが十一月にその功が奏し、十二月に将軍宣下を執り行うべく長政は宮中に参内した、その宣下は以下の如く。
内大臣源朝臣
左中辨藤原朝臣光廣傳宣 權大納言藤原朝臣兼勝宣 奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
慶長五年十二月五日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉
(訓読文)
内大臣源朝臣(黒田長政三十二歳)
左中弁藤原朝臣光広伝へ宣のり、権大納言藤原朝臣兼勝宣のる。
勅を奉うけたまわるに、件くだんの人、宜よろしく征夷大将軍と為すべし者てへり
慶長五年十二月五日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉うけたまわる。
これを受け黒田幕府は大坂に布かれ以降 大坂幕府とも呼ばれる、また全国の大名領地が幕府の御威光により編成されていった。
一方豊前中津の誠二郎は依然中津を動かず工廠で兵器生産に明け暮れていた、だが長政からは幕府開設の大功労者につき一家郎党引き連れ上京せよとの命令書は何度も届いていた、だが「未だ周辺の不穏ただならず、暫しの猶予を願い奉ります」と遠慮していた。
その年は暮れ行き、新年は慶長六年になるはずであったが長政の将軍宣下を記念し慶政元年とされた。
正月三箇日も過ぎ、誠二郎は老中部屋で一人物思いに耽っていた。
(天下も取ったし殿を征夷大将軍に任官することができた、これで朝鮮で交わした大殿官兵衛と長政との約束はこれでひとまずは終了か…なにやら呆気なさ過ぎて終わった気分にはなれぬもの、しかし中津での七年より朝鮮での一年の方が長く感じるのは…やはり毎日が死に直面していたからか。
さてこれからどうなる…役目が終わったというなら元世に戻ることができるのか、いや戻ったなら海州沖の海面に叩き付けられるということ…いやそれはマズイ。
それとも大阪に行って上様に強請り、故郷の尾張小牧辺りに城と領地をいただきそこで多恵や子供と優雅に暮らすか、それもいいが ここに残り工廠で造りたいものを誰に遠慮すること無く思い切り造ってみる…まっ上様には後者の方が受け入れやすいかもしれぬな)
(やはり自動車と航空機は絶対に造りたいところ、それにはまず内燃機関を開発することが先決だろう、ガソリンエンジンか…クーッ造ってみたい、それと軽飛行機を造り尾張小牧辺りまで飛んでみようか)誠二郎の夢想はどんどん広がり果ては尽きぬようだ。
……終わり




