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第六十四話

 慶長五年九月二十三日の深夜、如水は哨戒艇の船首に立ち 暗い海を見つめていた、時刻は宵八つ(1:20)中津軍港を発ってまだ一刻も経っていないというに前方には周防大島が見えた、この距離を黒田家所有の千石廻船で行くとなれば一日行程というに…如水はその速さに舌を巻いた。


九月二十三日は新暦に直せば10月29日で初冬にあたる、時速56kmの船首に立てば水飛沫と風圧で体感温度は如何ばかりか、如水は顔にかかる飛沫に堪らずとばかり後ろを向いた そのとき満月に照らされた哨戒艇の全景が目に映った。


その細身の船体は濃い灰色に塗られ 厳めしい鉄製外殻を隠していた、船の居住空間は中央辺りが少し盛り上がりを見せるだけでそれ以外に突起物といえるものは機関砲の銃眼ぐらいで艇全体は優美な流線形フォルムにまとめられていた。


また小さな窓が前面と側面及び後面に切られ、工廠で造られたという透明硝子なるものが嵌められていた、そして出入り口は艇左右と後部に「ハッチ」なる鎧戸が設けられている。


如水は寒さに堪え暫し哨戒艇の流麗なフォルムに魅惚れると再び前方を見た。

「哨戒艇の速さには驚かされるばかりじゃ、さてこの速さなら一昨日発った戦艦に途中で追いつきそうじゃな、栗山中将と母里中将に会っていくか…いや、やめておこう時間が惜しい」そう思うとブルッ震え肩をすくめるとハッチに向かった。


船室に戻ると寝ていた兵らが慌てて立ち上がりかけた、如水はそれを制し「寝ていよ」と小さく声をかけ操舵手後方の座席に座った。


(儂も少し寝ておくか)と目を閉じた、だが船の激しい縦揺れとレシプロ蒸気機関の振動や騒音が酷く寝られたものではない、いくら哨戒速度重視で造られたとはいえ長時間航行にはとても向かぬと呆れ、船体の流麗と真逆の荒馬にでも乗る感覚に(まだまだ開発には時間が係りそうじゃな)と苦笑いを浮かべた。



 一方黒田長政は九月二十日、瀬田と草津宿を繋ぐ中山道を行軍する家康軍を襲い、圧倒的新鋭火器を駆使し街道筋で敵三万余を焼き殺すと残る敵兵を琵琶湖湖畔の矢橋へと追い詰めた、この追い込み中に敵兵の殆どは短機関銃や無反動砲の餌食になり矢橋に辿り着いた者は僅か二千にも満たず、水辺で進退窮まり入水し溺れる者や自決する者が相次いだが半数以上は武器を捨て降伏した。


俘虜となった将はその場で射殺し、兵らは武装解除しその場で放免した。

黒田長政軍は敵の遺体実検に軍監ら百名ほど残すと軍列を整え黒田軍八千を先頭に福島正則・浅野行長・加藤嘉明ら将兵一万三千五百を引き連れその日のうちに矢橋対岸にある大津城へと入った。


この大津城は越前・美濃・伊勢方面と大坂を結ぶ交通の要衝にあり、過ぐる九月七日この城を西軍の毛利元康を大将に立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州諸大名の軍勢一万五千が取り囲んだ。


城主京極高次は兵三千と共に城に籠もり反抗に及んだ、だが西軍側の数次にわたる苛烈な包囲攻撃に城を出て応戦したが多勢に無勢ついには城へと押し込まれ、天守閣に砲弾を撃ち込まれるに至り京極高次はこれまでかと九月十五日遂に降伏し開城した。


城主高次は一命を赦され高野山へと護送された、こうして大津城は西軍に落ちたがこの日は奇しくも大津から十八里東の関ヶ原で天下分けての大合戦が行われた当日でもあった。


立花宗茂らは大津城を開城させるとその日のうちに西軍を援助すべく関ヶ原へ軍勢を進めた、だが草津で西軍の壊滅を知り毛利元康、小早川秀包、筑紫広門らは逃げるように大坂城へと引いた。


その次の日、黒田三左衞門ら三千の黒田遠征軍が新鋭兵器を満載しこの瀬田・草津に進軍したのだから、三左衞門がもし遅れず計画通り十五日に到着していたなら…当然この西軍一万五千と瀬田で遭遇し戦いにおよんだに違いない、だが戦えば多分黒田軍が快勝しただろうが家康軍は瀬田を抑えられたことを知り戦略を練って対処してこよう、さすれば練りに煉った徳川軍急襲作戦は失敗していたかもしれない。


大津城に入った黒田長政は翌日各諸将を集め軍議を開いた、長政は一段高い上座に座ると各諸将を睨め回した、長政の貌は関ヶ原で見せた憔悴顔ではなく、今は自信に満ち溢れ貫目はただならず、長政はここに至り本性を曝け出したのだ。


集まった諸将らはその貫禄に圧倒され萎縮した、それはあの関東二百五十万石を有す正二位右大臣にして東軍総大将の徳川家康と秀忠、それに世の武将らに怖れられる徳川四天王の本多忠勝・井伊直政が率いる徳川精鋭軍を瞬殺し五万六千余もの将兵を無慈悲にも焼き殺し逃げ惑う兵らを琵琶湖の淵に沈めたのだ、そうとなればもうこの日の本に長政に対抗出来る大名などはいようはずもない。


軍議の座は静まりかえり咳一つ漏らす将はおらず、全員が長政が発する言葉を固唾を呑んで待っていた。


この軍議に参集した諸将は。

黒田軍から黒田長政大将・黒田三左衛門中将・吉田長利少将・毛屋武久大佐・野口一成大佐・林直利大佐の六将

福島軍から福島正則・福島高晴・尾関正勝・可児吉長の四将

浅野軍から浅野幸長・浅野忠吉・浅野氏重・村井勝信の四将

加藤軍から加藤嘉明・長島佑行・伊東永吉・立谷義治の四将


以上の十八名を数えたが、浅野幸長の父 浅野長政は中山道行軍時 徳川秀忠軍に随行していたため離脱が遅れ迫撃榴弾の破片を背に受け重傷、今朝方大津城で死去していた。


長政は諸将を見渡すと徐に口を開いた。

「皆の者御苦労であった、太閤殿下の遺言大義を蔑ろにした憎き家康は瀬田に於いて誅殺せしめた、よって明日にもここより進軍し大阪城で秀頼公を惑わす西軍総大将 毛利輝元と大阪城に巣食う狢らを退治仕る、この義に異存ありし者はこの座より退出されよ、退出されたとて御恨みもうさぬ」


暫く待つも座は静まったままで席を立つ者はいなかった。

「では皆異存なきものと心得これより軍議に入る、その前に福島正則殿・浅野幸長殿・加藤嘉明殿の御三方、昨夜提出された誓詞通り黒田家の軍門に降り、以降は我の下知に異存なく従うということよろしいな!」


すると福島正則・浅野幸長・加藤嘉明の三名はその場で深く平伏し、次いでこの場の全ての武将らも長政の方を向き三名に倣い深々と平伏した。


昨夜長政は大津城に入るとすぐに福島正則・浅野行長・加藤嘉明の三名を呼び、黒田の軍門に降ることを承知させ、違約無きよう誓詞を差し出すよう命じた、だがこの時点では「豊臣宗家護持」を本意として大坂城を攻めると三人には約したが、それは名目に過ぎず秀頼公を「神輿に担ぎ奉る」が本音で実権は黒田家が握り近々天下に覇を唱え幕府を開くなどという企みはおくびにも出さなかった。


軍議を終えた次の日(九月二十二日)、黒田合同軍二万一千五百の将兵は大津城を発ち一路十二里西の大坂城を目指した、途中休憩を挟み大坂城到着は明日朝四つ半(10:30)とした。



 黒田如水は艦長の上野大佐に起こされ目覚めた、これほど騒がしい艇内でも寝られるものよと如水は目を擦りつつ窓から外を眺めた。


「今何時頃じゃ、でっもう大坂には着いたのか」


「はっ、現在四つ半にて予定より一刻程も遅れ 申し訳御座りませぬ、大坂湊は複雑で淀川河口を見つけるに難渋し時間が係りもうしたがこれより淀川を遡上いたしまする」


「ほぅ大坂に着いたか…では敵の関門をくぐり抜け大坂城まで行こうぞ、敵は火縄を射かけてくるだろうからこの先は注意して進むように」そう言うと窓辺に顔を寄せ右の河岸を見つめた。


暫く行くと前方右手に船番所らしきものが目に入った、見れば二十人ほどの兵が慌てた様子で動き回っている、如水は操舵手の後ろに進み前方の窓から川面を見た、すると吃水の浅い三艘の小船が哨戒艇の前進を阻むようこちらに迫ってきていた。


そのとき上野大佐が「窓を締めよ、前方と右側の機関砲用意!」そう叫ぶと乗組み兵らは艇内に突き出た握りを掴むと窓外の鎧戸を順次閉めていく、次いで三箇所の銃眼を開けスライド式の機関砲台座を前進させると銃身のみを艇外に突き出していく。


「大殿、前方の小舟程度なら体当たりで破壊は出来まするゆえ機関砲射撃は控えまする、またこの艇の外殻は鋼板構造につき火縄程度の弾なら貫通しませぬゆえこのまま進みまするがよろしいでしょうか」と聞いてきた。


「撃たずに済むならそれにこしたことはあるまい、じゃが体当たりしても当方に損傷はないのじゃな」そう念を押すと如水は椅子前の握り棒を強く握り身構えた。


そのとき艇の外殻に銃弾のけたたましい着弾音が鳴り響いた、艇側面の窓は鎧戸が締められ外は見えぬが操舵手の前面窓は鎧戸に無数の小穴があけられているのか朧に前方が見えた、そのとき小舟一隻の舳先が哨戒艇舳先の右側に接触した。


「ゴォーン、バキバキ」と異常な音を立て艇は左へ傾いた、敵小舟と接触し小舟の舷側部を破壊しながら擦過したようだ。


そのとき「全速前進!」と上野大佐が叫ぶ、その声に操舵手は舵輪横のパワーレバーを前方一杯に倒した、すると哨戒艇は舳先を少し持ち上げ叩かれた様に高速に移った。


機関音は艇内にけたたましく鳴り銃弾が着弾する音と相まって耳を塞ぐたくなるような甲高い音が艇内に籠もる、だがそれも一瞬のこと、銃弾の着弾音はすぐに消え哨戒艇は巡航速度に戻っていった。



 黒田合同軍は大津城を発つと途中で二つの軍に分け、第一軍は八幡・枚方・守口を進み、第二軍は山城南部から四條畷を経て共に大阪城を目指した。


定刻前の朝四つ(9:20)、先に大阪城に到着したのは第二軍九千余で、途中放出辺りで増田長盛率いる大坂城守備隊三千に西行きを阻まれたがその勢力は弱く、黒田軍の前衛を進む三千の短機関銃部隊が突出し、街道を封じる増田長盛の守備隊を襲った。


敵三千はその夥しい弾幕に殆どは数秒で倒れ蹴散らされた、黒田軍は逃げる兵らには目もくれず真っ直ぐ西を目指し朝四つに大阪城東詰の森之宮に到着、すぐに陣を布き戦闘態勢が整ったのが四つ半を少し過ぎた頃だった。


一方 第一軍は黒田長政が率いる混成軍一万二千の軍は守口を過ぎた辺りで街道前面を塞ぐ毛利秀元軍一万五千と対峙した。毛利秀元は関ヶ原の南宮山で家康と対峙するも、秀元の前に陣を布いた吉川広家に「参戦するな」と諭され渋々大坂に軍を引いた大名である。


長政は関ヶ原から大坂に逃げた毛利秀元が大坂城を出て我が軍に挑んでくるとは思ってもみなかった、徳川軍五万余を瀬田の地で殲滅した情報などとうに伝わっているはず、勝てるはずがないのに何故出張ってきたのか…。


ただの面子かそれとも毛利輝元の命なのか…毛利輝元・毛利秀元・吉川広家らは互いに従兄弟どうしで、毛利家大事と先日 吉川広家が黒田長政を通じ「関ヶ原では戦に参加せず」と家康に内通し、毛利領安堵の密約を取り交わしたばかりだ。


家康が死して密約が反故になり黒田家に滅ぼされるくらいならと毛利家で血の気の多い秀元が突出したのだろうと長政は判断した、ならば毛利家を安堵することを約せば降伏する公算は大きいとみた。


長政は部下で口の達者な安藤由右衛門大佐を呼び、降伏勧告状と毛利家安堵の誓言書を持たせ兵十人を付けて前方敵陣への使者とした。


すると四半時もしないうち前方の封鎖陣は街道を中心に左右へと引き 使者らも戻ってきた、長政は秀元の降伏文書を一瞥すると大きく頷き、使者に「毛利秀元に我が軍の先頭に立ち大坂城への先導露払いを命じる」そう伝えよと言いつけ再び秀元の陣中に使者を送った。

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