第六十三話
誠二郎は戦艦五号艦の甲板上で右手遠くに聳える名護屋城を見ていた。
(朝鮮釜山から対馬・壱岐を経てこの名護屋の湊に着いたのは確か…文禄二年五月のことだった、あれからもう七年も経つのか…)
誠二は何の因果か朝鮮黄海道海州の地に落ちた、その地は何と400年も前の文禄の役 真っ只中にあった、誠二は情けなくも素っ裸で厩に落ちて以来 戦役で疲弊した兵らの憂さ晴らしの対象として虐めや日常化した暴力に晒された。
そして草を食むような飢餓の淵を彷徨っていた下人時代、誠二の唯一の能力である工学技術を駆使し MP5短機関銃や無煙火薬、そして9x19mmパラベラム弾を製造した、当時最新鋭の兵器を窮乏していた黒田長政にその能力を認められ上級武将の証である母衣衆の称号が贈られた。
その後 大殿如水から「主税奉行」に取り立てられ本国豊前の中津に行き富国強兵を成せと命じられた、それから七年 今は慶長五年九月、誠二は名を誠二郎と改め黒田家三番老中の御役に就いた。
この有り得ぬ出世劇の裏で、誠二郎は元世では絶対経験できぬ狂おしいまでの技術探求と各種政策の施策を履行、それらから派生する諸問題の解決に奔走し、着実に実績を積み重ねいった。
また小大名の黒田家が天下に覇を唱えるには現状の旧態依然の兵役や軍制度では限界を感じ、時代を一気に三百年も飛び越える昭和初期の近代軍政を布こうと重臣らに軍政教育を施し、陸・海軍大綱を編纂すると陸・海軍操典をも策定し練兵場を建設した。
そして塹壕陣地や機関銃使用といった全く新しい軍事技術の教育を行い、短機関銃や重機関銃、迫撃砲、無反動砲などを使用した実際調練を行いつつ、陸・海軍操典に沿った調練教育を将兵らに施していった、また各師団には古来よりの戦闘戦法を改めるべく、時流と持てる兵器に合った戦闘方式を研究するよう促した。
それら教育と調練は黒田家の強兵カテゴリーを確固たるものにし、「黒田家 陸・海軍大綱」や「陸・海軍操典」に基づいた軍政組織(陸・海軍本部)・軍令組織(参謀本部)・軍事司法・軍隊組織・階級制度などこの時代では類を見ない近代軍政組織を黒田家に根付かせていった。
また強兵カテゴリーの内 兵器開発においても この九州統一戦でその兵器性能を実証すべく第一から第四師団に敵地で実際運用させ、誠二郎率いる第四師団だけでも師団が踏み通った筑後の久留米と柳川、肥前の佐賀、肥前の日野江、肥後の宇土のことごとくの城を粉砕焼却せしめ、陥落を以てそれら兵器性能を実証した。
やがて第一~第三師団から軍政及び兵器実証成果が誠二郎の元に届けられよう、これにより黒田家強兵カテゴリーの 軍政・操典・兵器の包括システムがこの日の本で比類無きものと実証され将兵らに認知されれば軍政の定着と未だ増産中の各種兵器や銃砲弾はこれより京大坂に上り黒田家が全国に覇を唱えるに必須となろう軍事要件として 将来の黒田幕府開設と幕府永続に重要な役割を担って行くことだろう。
また富国カテゴリーとして農業政策、海産政策、殖産政策を推進、また鉱山開発や製鉄工廠・銃工廠・火薬工廠・肥料農薬工廠を発展させると共に一部民営化を図り領内の工業立国化を推進、また民営模範工廠として市中に多くの綿織物工場・絹織物工場・製塩工場・鋳物工場などを展開し租税収入を激増させ黒田家財政を飛躍的に向上させた。
これら富国強兵の実質成果は大殿如水があの釜山・東莱邑城で誠二郎に命じた「富国強兵」のレベルを遥かに超える成果として如水には映っているはずと誠二郎は自負している、だがこればかりは大殿如水に直に聞いてみないと分からぬだろうが、会社に就職後僅か八年そこそこで 取締役常務クラスに大出世したのだからわざわざ聞くまでもないだろうか。
誠二郎は戦艦五号艦甲板上で西に沈み行く夕陽を見ながら朝鮮の地に落ちてから今日までの出来事を長い時間をかけ反芻していた、そのとき艦上後部の煙突が一際大きく黒煙を噴き上げるとガクっとした艦の揺れに驚き誠二郎は我に返った、響灘に入り横波が静まったためか戦艦は速度を上げたようだ、これなら四半時で門司と下関の狭隘を抜けるはず、そうすれば暮れ五つ半(21:10)には中津軍港に帰還できるだろう。
(中津から出陣して早や九日か、今夜にも多恵に逢える…)そう想うと戦の疲れなど一瞬に消えてしまうから不思議だ、当然多恵に会えることは嬉しいが今年二つになる可愛い盛りの由紀乃に会うことも楽しみで (だがこの分だと屋敷に着くのは深夜か…由紀乃はとっくに寝ているはず、艦速をフルパワーにしていれば夕刻には帰れたものを…)
五十を過ぎて出来た女児は誠二郎にとって可愛くてしょうがない存在だ、それゆえ由紀乃の笑顔を思い出すだけでつい顔を綻ばす誠二郎である。
九月二十日朝、大殿如水は帰還した各師団の師団長と副長を二ノ丸奥書院に集めると予め提出された各攻略地での戦況・戦果報告書の評価を下すと皆に慰労の言葉をかけた、しかし肝心の琵琶湖湖畔瀬田での戦況報告は未だ中津には届いておらず、その話になると座は沈んだ。
「九月十五日の美濃関ヶ原での戦況は二日前に中津に届き、東軍家康方の圧勝ということは皆も周知のところ、そうなれば瀬田での徳川軍急襲作戦は十六~十七日ごろに実施されていよう、さすればその報告は瀬戸内早飛脚であれば昨日か今日にも中津に届くはず…じゃが未だ何の報告も届いてはおらぬ、ここ数日は颶風も吹かず瀬戸内は穏やかと聞く、やはり家康は佐和山城を攻めあぐね大坂行きが遅れておるやもしれぬ…」と如水は首を捻った。
だが天下取りの時系列戦略からすれば今日にも豊前中津より兵七千を大坂に送り出し九月二十三日夜には長政軍の後詰めとして淀川と大阪城に布陣を終えねばならず。
「ふむぅ、まずは長政が家康軍を殲滅したは間違いないところ、瀬田からの報告をいつまでも待っておったら機を逸する、よって明日明け四つ半(10:30) 第一師団・第二師団・第三師団の兵七千は瀬戸内航路で大坂へ発て、船は戦艦を含め二十隻が既に用意を終えておる。
それと安田中将率いる第四師団は中津の留守居として残すが、九州平定の降伏勘状の返書を送ってよこさぬ大名が未だ三大名ほどおるがいずれも五万石以下の小大名ゆえ放っておけばいずれ送ってくるじゃろう、だがもし逆らうのであれば安田中将の出番となろう。
また薩摩の島津じゃが七日前に鹿児島の都邑を全滅させたが…以降は何の音沙汰も無しよ、栗山中将の報告書によれば陥落した内城の検分で城主の島津義久と義弘の子の忠恒の遺骸は遂に発見できずとあったが、死んだのかそれとも当時鹿児島にいなかったかは判断はつかぬ、ゆえに今は島津の出方を静観するしかあるまい、まっ薩摩には多くの間諜を送ったゆえ近々のうち報告が送られてこようぞ。
それと銃砲弾じゃがこの度の大坂行きに多くの弾を輸送するゆえ銃砲弾倉庫の備蓄量は寡少となろう、誠二郎よ製鉄工廠と機械工作工廠の人員の一部を銃砲弾工廠に移動し至急増産体制を敷いてはくれぬか。
以上で会議を終えるが 第一から第三師団は早急に渡航の準備を整えよ」
如水は誠二郎に振り返ると「誠二郎、ちと相談したき事があるゆえ夕刻七つにはそちを呼びに行かせる、よってその時分には老中部屋におるようにの」そう言うと如水は奥書院を出て行った、その後 部屋に残った各師団長らは兵器性能の談義に花が咲き昼までその談義は続いた。
昼から誠二郎は銃砲弾工廠に赴き久々に増設された実包ラインに見入った、その後 全工廠長を呼び寄せ「大至急無煙火薬と銅板の増産を急がせよ、それと実包・砲弾の増産化のため各工廠相互に協力し合い、二ヶ月間でこの命令書に書かれた銃砲弾製造を完遂せよ」そういって誠二郎は命令書を工廠長らに手渡した、その命令書には
・9x19mmパラベラム弾六百万発。
・12.7x99mm NATO弾三百万発。
・迫撃砲弾二万発(榴弾一万発・焼夷弾一万発)
・無反動砲弾二万発。
・80mm艦載砲弾一万発(徹甲榴弾六千発・焼夷弾四千発)
「お前らには苦労かけるが黒田家が幕府を打ち立てるに重要な弾である、昼夜交代で是非にも励んで欲しい、それと設備修理工十人ほどもラインに張り付かせ長時間のライン停止が無きよう配慮致せ」そう言うと工廠を出て老中部屋へと帰ってきた。
夕刻、取次衆が誠二郎の部屋を訪れると「大殿様が御待ちに御座ります」と言い、誠二郎は先導されて二ノ丸奥書院の扇の間に案内された。
「誠二郎よ、弾の増産の件は何とかなろうの」と念を押され「相談とは幕府開設の段取りの事もあるが…加藤清正の事よ、彼奴を今後どう処遇すべきかを悩んでおっての、以前おぬしが言っておった歴史上に於いては清正の肥後熊本藩はこれより三十二年後に改易され領地は細川殿に下賜されたと聞いたが、彼奴は秀頼公を見捨て家康に重宝されたようじゃが、結局は一代限りの恩顧と言う事よな、ならばどうせ家系が続かぬのなら儂が消し去っても罰は当たるまいよ。
しかし長政のことを考えるとのぅ…儂が清正を誅殺したと知ったら烈火の如く怒るであろうし、生かしておけば結局長政が後々苦労することは見えとるでな、さてさてどうしたら良いものか悩んでおっての、貴公の忌憚なき意見を聞かして貰おうとこうして呼んだのじゃ」と顔を顰め誠二郎の目を覗き込んだ。
大殿如水が誠二郎を呼んだのは大方そんなことだろうと予想はついていた、それゆえ以前にも話した徳川家康が征夷大将軍に任官した後の苦労話をくどいようだがもう一度語り出した。
「徳川家康が帝の将軍宣下を受けたあと幕府を江戸に開きまするが、新幕府の政治的支配に対し秀吉が創設した「関白型公儀」の政治体制は依然解体されず慶長二十年までの十五年間継続したままで、その間 豊臣秀頼はこの関白型公儀に君臨する権威を依然保持していたのでござるが大坂夏の陣で豊臣宗家が滅ぼされるとようやく名実ともに新幕府の政治的支配が有効となりもうした、この顛末詳細は以前大殿様には御話し致したゆえ省略いたしまする。
この例を踏まえれば殿が瀬田の戦いで徳川家康を含む徳川合同軍を滅ぼし天下に覇を唱えたとしても、これより家康流、つまり秀吉恩顧の大名衆と豊臣宗家に諂う政治体勢を続ければ実権取得に最低十五年は係りましょう、いや殿であれば個人の武将としての器量と言う点で誠に失礼ですが家康殿を凌ぐとは言い難く、十五年以上は係りましょうぞ、但し豊臣恩顧の全大名を敵に回し、今月にも大阪城の豊臣秀頼という豊臣宗家をまるごと潰す御覚悟があれば話は別でござるが。
その御覚悟が無いとあらば後々時勢が到来し豊臣秀頼様を廃する時に邪魔になろう急進的豊臣系武将、特に福島正則・加藤清正・浅野行長・加藤嘉明・池田輝政・細川忠興らを生かしておくことは決して殿のおためにならず、これまで何度も申しましたが天下取りの必須要件としてこの豊臣恩顧の武将らは早期に排除しておくが肝要と心得まする」
誠二郎はここまで語って大殿如水の顔をのぞいた、やはり渋面のままに何事かを考えているようだ。
しばらく沈黙が続き、如水はおもむろに口を開くと「儂は秀吉様に見いだされ、その恩顧に報いるがためこれまで一心不乱に働いてきた、じゃがその秀吉様はもうこの世にはいない、そうとなれば秀吉様一代限りの恩顧として働いてきた我に秀頼様や淀殿には恩も借りも感慨も無し。
ならば豊臣宗家を潰さねば天下に覇を唱えることかなわずとあれば十五年も待ち、チマチマ大阪城の堀を埋めるは我の性には合わず、いっそのこと瀬田で家康軍を潰したついでに大阪城も潰してしまう…長政には出来ずともこの儂には出来る!、それこそが戦国の世の習いとは思わぬか誠二郎!」
(おいおい大きく出たよこの人は…)
そう想うも誠二郎は以前よりこの時代特有の大名跡を賜った恩顧とか、義理だ人情などの機微など分からぬため、豊臣宗家など早く潰してしまえば何の苦労もないのにと、もしそれで恩顧の大名集が激怒し襲ってくるなら相手になってやろうじゃないのと常々思っていた。
考えてもみれば土豪上がりの大名衆や、百姓上がりの秀吉など現世流に解釈すれば、村のチンピラが腕っ節と知略が優れていることに気付き、まずは暴力で成り上がって子分を誘引する、次いで周辺の荒くれ者らを襲いこれらを屈服させそのシマを分捕り、次いで地方の弱小ヤクザのシマを簒奪し巨大化していく、そこまではチンピラで終わらぬ知略が備わっていたから為せた技であろう。
だがさらなる巨大化には抵抗勢力(民衆)らの支配が必要になってくる、ゆえに彼らはヤクザという反社会的集団の組織実態を隠蔽すべく武士道という不可思議なる概念を創出し、武士階級の倫理・道徳規範と価値基準を儒教や朱子学を総動員し格式化することで醜悪実体を隠蔽し詭弁的論理手法で正当性を醸し出し、時には神格化さえも可能にしてきた。
その根底に流れる彼らの醜悪さを看破すれば秀吉も家康も如水でさえも同じ穴の狢であり、恩顧だの義理だ人情などは己の上っ面の虚飾に過ぎず洞察すれば本来の醜悪たる己の本性を見いだすはず、つまり如水はいまその本性に目覚め覚醒した境地にあると誠二郎には見えた。
「想い通りにやってみるか…」如水はそう呟き後は黙ってしまった、己の思索に入ってしまったらしい。
次の日、予てよりの計画から一日遅れたが黒田軍第一師団から第三師団までの七千と海軍五百の将兵らは鉄甲戦艦六隻と黒田廻船十四隻に分乗すると兵器や銃砲弾を満載し二十一日に豊前中津の軍港を発っていった。
その次の夕刻、誠二郎が退城しようと書類を整理しだしたとき取次衆が「大殿が火急の御用でお召しに御座ります」と老中部屋にやってきた、誠二郎は取次衆の慌てぶりから何が出来したのかと急ぎ奥書院の扇の間へと向かった。
部屋に入ると如水が一人書状を見ながら頭を抱えていた。
「大殿、何か問題でも出来いたしたのでござろうか」と如水の膝元へにじり寄る。
「長政め二十日に家康とその合同軍を急襲し殲滅したはよいが、何と殲滅前に福島正則・浅野行長・加藤嘉明の三大名を家康合同軍より離反させその将兵一万三千五百を己の指揮下に従属させたとある、誠二郎よこれどう見る!」
「…………従属させたのなら宜しいが、あの福島正則殿が誠に殿に従いましょうか…こればかりは直に聞いてみないと何とも…お答え出来かねまする」
「そうであろう、儂とて長政が福島正則・浅野行長・加藤嘉明の三名を膝下に敷くなど有り得ぬ事と思うておった、「それを従属させた」と軽く言うは納得いかぬ、それとも小倅の器量を儂は見誤っておったというのか…いやそれはない、海千山千の福島正則の腹の内など坊ちゃん育ちの小倅めに解ろう筈もない、んんどうするか、どうするか、下手をすれば危険極まろうが、早ように善助めが大阪に着けば良いが」
大殿如水は苛立つように立ち上がると座敷を歩き回った、そして譫言のように何事かを呟き瞑目しては歩き出す、その時ピタっと足が止まり急に誠二郎に振り返ると。
「これより儂は早船でここより対岸の宇部・八王子の浦へ向かい、そこから陸路を騎馬で大坂へ向かおうと思う、至急騎馬隊百騎ほどを整えてはくれぬか!」
「大殿、この豊前に瀬田の戦況が伝えられたということは当然陸路大阪への街道筋にある毛利・宇喜多・木下の諸勢力にもその状況は伝えられ、今や黒田軍の来襲に怯え迎撃を整えつつあると考えるが自然、黒田家は東西両軍を敵に回したということをお忘れ無きよう、たかが百騎そこそこで敵領地を突破するなど自滅行為としか思われませぬ!」
「では儂にどうせよと申すのだ!、放っておけば長政は福島正則に誅殺されるやもしれず、ここでのんびり過ごしてなどおられようか」
「殿、未だ試乗調整中でござるが哨戒艇が一艘ございまする、乗員最大二十名と小型にござるが一刻辺り二十八里も進み、鉄甲戦艦の倍ほどの速度ゆえ大坂までなら今宵九つ(23:40)に中津軍港を出港したとしても明日の明け五つ半(8:10)には大坂湊の淀川を遡上しておりましょうぞ」
「なに!明日の朝に淀川を遡上しておるだと、そのような早船をいつ造ったのじゃ!」
「はっ、その高速船は哨戒艇と称し中津沖周防灘を警戒すべく高速艇として鉄甲戦艦建造と同時に製造着手致しましたが鉄甲戦艦に多くの人工を投入したため遅れ、一昨日ようやく試運転を開始したところにございまする」
「此奴、そんな優れものを隠しておったとは、よし分かった至急出港の用意を整えてくれ、乗員は二十名までじゃな、して哨戒艇と言うたかな…装備はどうなっておる」
「船首・船尾に各一門ずつ、船側両側に各二門の計六門の機関砲を搭載しておりまする、但し砲は装備していないため無反動砲五門を携行致しまするが」
「まっ、高速主体ゆえ艦載砲までは無理よの、それとまだ試運転中の状態と言うたが…まさか途中で止まることなどないわのぅ、その場合は毛利か宇喜多の領地沖合ということよ、その時は儂の運もそれまでということか…」そう言うと如水はニヤッと笑い誠二郎を見た。
「ではそれがしこれより哨戒艇準備のため軍港に向かいまする、出港は今宵九つ(23:40)丁度と致しまするゆえその刻限に軍港の方にお越し下さりませ」そう言うと如水を一瞥し平伏すると扇の間を辞去し老中部屋に向かった。
(さて…事は思惑通り急展開の様相を見せたが…如水に豊臣秀頼が殺せるだろうか…)




