第六十二話
肥後の宇土の地は小西行長の領地である、今頃は加藤清正はこの宇土城を落とそう行動に移ったころであろうか、この宇土城は小西行長によって宇土古城の東に位置する丘に築かれた平山城である、また宇土城は城郭本体だけでなく城・武家屋敷・城下町が堀と運河により機能的に結合されることで「惣構」を形成するという防御的機能を有した堅固な城邑と聞く。
誠二郎は豊前中津を出る際、大殿如水より「宇土城は攻めるに難儀な城と聞く、もし中津に帰還するさい砲弾に余裕があれば宇土城とその周辺を完膚なきまで破壊し尽くしてはくれぬか、まっ 清正の小西行長への恨みは相当根深いゆえ 放っておいても近日中に清正めは宇土城に攻め込むじゃろう、だが出来れば奴に貸しを作っておくのも後々の策が講じやすいというもの…これもおぬしの受売りじゃがの」そう言って如水はニヤリと笑った。
戦艦二艦は対岸肥後の赤瀬沖合まで進むとそこより進路を北にとり、陸沿いを網田・長浜・住吉と北上し午刻九ツ半(12:50)に宇土の緑川に入った、緑川の河口は予想以上に広く優に五町もあったろうか、その川を遡上し半里ほども進むと河幅は一気に縮小し幅三町を切った、ここが南の宇土城から流れる浜戸川との合流点で水深も二間と浅くなりこれ以上の遡上は困難との観測から投錨に踏み切った。
ここから宇土城までは一里弱、艦載砲の射程圏内ではあるが空は黒く一刻前より小雨も降り出し視界は極めて悪かった、現に宇土城は白い靄の中にその姿を隠し肉眼では認めることは出来なかった。
「ふむぅ宇土城は見えぬなぁ、浜戸川が遡上できれば城との距離は十二町と間近に迫れるものを、城が見えぬとあれば艦砲などとても覚着かぬわ」誠二郎は肥後の宇土近隣の絵図を見ながら唸った。
「上田、何とか浜戸川を遡上できぬか」と隣りに立つ上田少佐に問うた。
「はっ、二町ほどは遡上出来ましょうがそれ以上は艦底が川底に乗り上げましょう、もし無理して遡上すればすぐにも進退は極まりましょうぞ」と渋面で応えた。
その時、艦の外で火縄銃の音が鳴り響いた、雨というに火縄銃…誠二郎は不審に思い「上田少佐、外を見て参れ」と命じ、窓に寄ると鎧窓を少し押し開いた。
するとその窓を狙ったのか甲板上に設えられた指令室の鎧窓付近に数発の弾が当たる音が鳴り響いた、誠二郎は驚いて鎧窓を閉めると思わず床に伏せた、しかし指令室廻りだけは9mmの鋼板で外殻が造られているため火縄銃程度の鉛玉では貫通しない事に気付き苦笑して立ち上がった。
その時、上田少佐が扉を開け指令所に飛び込んできた。
「中将殿、銃弾は右手の川岸に設えられた小屋から撃ち出されている様子、どうやら緑川の検問所ではないかと覚えまするが」
「して敵の数は如何ほどじゃ」
「はっ、銃声からして火縄はおよそ十五・六丁、現在小舟を仕立てている最中でその数は六隻、兵は三十人程が小舟に乗り込んでおるところにござります」
「小舟を仕立てておるのか…ではこの艦に乗り移る気じゃな…まぁよい 放っておけ、この雨では火縄も使えまい、槍や刀でいくら叩こうがこの鉄甲艦はビクともせぬよ」
「しかし…乗り込まれて艦載砲の機器など壊されたら…」
「そうか、艦載砲の照準器や水平器をいじられたら事よのぅ、仕方が無い 機関砲手には雨の中ご苦労じゃが小舟と検問所をすぐにも破壊するよう伝えよ」誠二郎がそう言うと少佐は敬礼し司令室内の鉄階段を兵の居住空間である船倉へと下りていった。
やがて司令室の外から機関砲の重低音が鳴り響くと机上の絵図面が細かく振動を始めた、
だがその機関砲声は三十秒ほど続いて鳴り止んだ、誠二郎は外を見るまでも無いとそのまま絵図面に目を落とし今度は城までのおおよその距離を目算しだした。
それから半刻ほど雨は激しく降っていたが やがて小降りとなり、一刻ほどで雨は上がった、誠二郎は司令室の鎧戸を大きく開け頭を出すと南の方角を見詰めた、すると微かながら宇土城の三重の天守が望めた。
「上田少佐、あと四半刻もすれば視界は良好となろう、砲兵を甲板にあげ 砲撃の準備を調えさせよ、して艦にはあと何発の砲弾が残っておろうか」
「はっ、五号艦には徹甲榴弾四十二発、焼夷弾三六発、六号艦は徹甲榴弾四十四発、焼夷弾二五発が残って御座る」
「何、そんなに残っておるのか…では本丸に徹甲榴弾二十発、二の丸・三の丸辺りには徹甲榴弾三十発と焼夷弾三十発を打込み、郭周辺には残る砲弾全てを撃ち込んで引き上げるとするか、それだけ撃ち込めば宇土城周辺は跡形も無くなろうぞ」そう言うと誠二郎は少し考えるような顔をし「いや、帰りの航路で敵船に遭遇するやもしれず、徹甲榴弾十発程度は残しておけ」そう言うと司令室から甲板上に移った、しかし宇土城は大殿如水から攻めるに堅固な城邑と聞いたが…艦載砲からしてみれば(でも、そんなの関係ねぇ)とつぶやき誠二郎は苦笑した。
艦の縁に造作された弾除けの楯板に手を付くと川面を見詰めた、艦より一町ほど離れた川岸に検問所と思しき潰れた小屋が見えたが死骸らしきものは見えなかった、また川面には小舟も見えず疾うに流されてしまったようだ。
その後、戦艦の五号艦と六号艦の艦砲射撃が開始され十分足らずで指定量の砲弾は全て撃ち尽くされ艦の周辺は濃い硝煙が立ちこめていた、誠二郎は一里先の光景を見ようと目をこらすも霧の中から見るように視界先に赤く燃える光は認めるも実態までは見えず硝煙が薄れるまで暫し甲板上で佇んだ。
(望遠鏡や双眼鏡それと距離計など早期に作りたいが…光学は子供の頃より好きで望遠鏡などよく作ったものだが…レンズから作れとなれば専門外につき試行錯誤は覚悟しなければならぬか…それより先に老眼鏡が欲しいところ)
やがて硝煙は晴れ一里先の宇土城全景が視界に入った、案の定 先ほどまで見えていた宇土城の三重の天守は既に跡形も見えず、本丸を中心におよそ五町範囲は火の海の中にあった。
誠二郎はしばらく天に噴き上がる真っ赤な炎を見ながら(あの炎の下でいま何百何千もの人間が逃げ惑い焼き殺されていることだろう…俺は何と怖ろしいことをしているのか、もう人殺しなどと言う生やさしいものではない…もはや殺戮者の所業)
そうは思うも元世の頃 日曜に息子と一緒にやった「城攻め戦略バトルゲーム」と同感覚で指揮していたのは否めなかった。
この戦に出るとき大殿如水は誠二郎の肩を叩き「その歳で初陣とはのぅ」と笑ったが、誠二郎はそのとき正直震える想いであった、戦に出るとは人殺しに出かけるということだ、下手をすればこちらが殺される可能性も大きい、三左右衞門とは違い脆弱者の誠二郎とって笑える話では無い。
そんな心情を慮ってか如水は「誠二郎は戦艦で行け、危険な陸戦は黒田利則に任せておけばよい」と言ってくれた、そんな如水の心遣いで殺人現場や血を見ることも無く、為に恐怖を感じることなく遠隔殺人をやってのけることができたのだろう、それはまるで近代戦の如く敵を間近にして戦うのではなく遠方よりミサイルや核のボタンを押すようなもので、まるで仮想空間のバトルゲーム感覚でこの数日間「戦いを演じてきた」と誠二郎には感じら、己の非情さを垣間見た想いだった。
それでも誠二郎はこれで豊前中津に帰れると思うと緊張がほぐれ肩の力が抜けていくのを感じた、しかし中津を出てから今日まで誠二郎が造った各種兵器により九州各地と琵琶湖の畔で一体何万人が殺されていったのか などと想い悩むことなどついぞ無く、己が作った兵器の性能に想いを寄せるばかりだ、いつの世も技術者とはそういった性質ものなのだろうか。
誠二郎を乗せた戦艦は緑川を脱し有明海に出ると島原湾から天草灘を抜けて北上を開始、今は前方左手に壱岐が見える位置にあり、遠くに対馬が朧に浮かんで見えた、行く手の玄界灘は干潮時であろうか潮は東から西へと激しく流れ戦艦の進みは遅かった。
誠二郎は甲板上に一人佇むと黒田三左衛門のことを想っていた、いまごろ琵琶湖・瀬田の地で家康と天下を賭け熾烈な戦闘を繰り広げているのだろうか、それとも既に戦勝に沸き大坂に向かっているのだろうかと思わず東の方角に視線を転じた。
十四日前、黒田如水は黒田三左衛門中将と吉田長利少将に三千の兵を託すと、安宅船に最新鋭の兵器や兵粮を満載させ瀬戸内航路で大坂へと送り出している。
三左右衛門らは大坂の淀川を遡上し摂津湊に着岸すると大坂・京を走り琵琶湖の西「瀬田」で関ヶ原の戦場より離脱した黒田長政と合流する計画であった。
三左衛門ら一行が途中何事も無く予定通りに瀬田に到着し長政と合流さえすれば…家康との戦は勝ったも同然であろう、これで世は大きく変わると誠二郎は右手遠くに聳える名護屋城を振り返った。
この戦国時代に落ちて十年近くが経とうとしている、そして朝鮮の地から豊前中津に派遣され富国強兵を旗印に主税改革・農政改革・殖産振興を進め、併せて製鉄・兵器製造・化学肥料や農薬の製造まで黒田家が近代化する原動力の整備充実、そして軍政改革までを黒田三左衛門らと共に推し進めてきた。
その成果がこの九州統一戦を圧勝へと導き、また天下を賭けあの巨人・家康にさえ戦いを挑むことが出来るまでになった、これで瀬田の戦いに勝利すれば黒田家はいよいよ近代的中央集権の国造りへと邁進できるだろう。
誠二郎は一時 天下を取ったら戦国時代から一気に三百年ほど下った明治維新と同様の社会が形成できないかと空想したことがあった、しかし社会変革の淘汰理論を慮れば、ロシアや中国、北朝鮮の如く革命や覇権戦争を経て一気に理想足る共産主義社会へ移行したものの、人間の本能である私有我欲を放棄させるには結局独裁者の圧政が必須で、共産主義にはほど遠い名ばかりの独裁国家になり果ててしまった。
やはり民衆から惹起される社会矛盾を引き金にした自然的社会変革でなければ長続きはしない、つまり封建制社会を数百年も続け社会矛盾を良い意味で醸成しなければ真の封建社会脱却は出来ないと想いは到り、そうであれば今は無理に時代を弄らず、なすがままに任せた方が合理であろうと考えるに至った、また黒田家が天下を取った暁は誠二郎は政治には一切関与せず好きな技術に勤しみたいと思うようにもなっていった。
誠二郎が政治に関与しなければ家康が江戸に幕府を開設したように、黒田家も何処ぞの地に黒田幕府を開設するだろう、しかし家康が関ヶ原の合戦で勝ったとはいえ天下の実権を我が物にするまで如何に苦汁を強いられたかは歴史が物語っていよう、それは幕府開設後も豊臣家に諂い、真の実権を握るには慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣宗家を滅ぼすまで待たねばならなかった。
あの従二位・権大納言(駿府左大将)である徳川家康でさえ実権を握るに十五年の歳月を要したのだ、それが九州の田舎大名で従五位下甲斐守という 大名では最低クラスの黒田家がそれを履行しようというのだから十五年どころか三十年かかっても覚束ない様に見える。
それゆえ誠二郎の提案で大殿如水と殿の長政、それと四老中のみで「黒田幕府開設の方法論」と題し、頼朝や尊氏らが幕府を起こした経緯を古書で調査したり論議する中、誠二郎は技術者が政治介入するのは憚られるとは思ったが江戸幕府創設や維新の大政奉還などを例に取り、政権交代時に惹起される諸問題を解説し黒田幕府開設に寄与できればと考えた。
特に誠二郎が現世で読んだ笠谷氏執筆の「徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制」を思い起こし、その辿々しい記憶を引用しつつ論説していった。
それを要約すれば幕府創設期の論点は自然と豊臣家との確執に絞られていく、だが黒田幕府とて今後徳川幕府と同様の道筋を辿ることは明らか、よって徳川幕府創設の成り行きを論説すれば対処も自ずと導かれると誠二郎は考えたのだ。
「関ヶ原の戦い」に勝利をおさめ徳川家康は世に覇権を行使しつつ征夷大将軍職に就任していった、この将軍任官により領地であった江戸に幕府を起こすと豊臣家に代わって徳川家の天下支配を制度的な形式を踏まえ徐々に確立していく。
だが家康の関ヶ原合戦での勝利は豊臣家の政治支配体制をただちに覆すものではなかった、家康は合戦以降も秀吉が構築した政治体制の枠組みを逸脱できず藻掻いていた。
それは関ヶ原合戦での家康の勝利は、豊臣系大名衆の軍事的貢献によりもたらされた勝利に過ぎず、関ヶ原合戦に於ける東軍の構成主力は豊臣系諸大名が主軸となり本来の主柱たるべき徳川軍の比重はきわめて小さかったと言よう。
合戦に臨む家康率いる徳川軍は東軍の主力に非ず、主力は子の秀忠が率いた三万八千余であろうが、秀忠は信州上田城の真田昌幸の抵抗にあい関ヶ原合戦に遅れるという致命的な失態を犯した。
そのため家康は徳川主力部隊不在のまま福島正則・浅野幸長・細川忠興・池田輝政・黒田長政らといった豊臣系武将を主力とした合同軍で戦わねばならず、それゆえ家康にとって関ヶ原合戦は軍事的には勝利したがその覇者としての地位は確固とは行かず…政治的な意味に於いても豊臣系武将の顔色を覗っての征夷大将軍任官と言えよう。
これは先に幕府を起こした源頼朝や足利尊氏と同様であり、これら先人の轍を踏まぬが幕府永続の新たな道筋となろう。
考えてみれば関ヶ原の合戦とは、ヤクザ風に言えば東軍西軍の主力メンバーは元々は豊臣一家の若頭や若頭補佐といった執行部の面々で、簡潔に言ってしまえば組長亡き後の御家騒動とか家督争いといった類いのものであろうか。
その執行部の中で徳川家康が組長と兄弟杯を交わした叔父貴で覇権力では群を抜いており、豊臣一家の正統跡継ぎを差し置き己が組長の跡を継ごうと野心を抱いたのが事の始まりで、徳川一家では秀頼を退けることなど単独で行う力は無く仕方なしに籠絡しやすい福島正則・浅野幸長・細川忠興・池田輝政・黒田長政らといった脳味噌が筋肉化した豊臣一家の武断派を仲間に引き入れ、秀頼護持という似非論理と若頭の三成を共通の敵にすることで行為の正当性を醸したに他ならない。
関ヶ原の勝利後、石田方の西軍諸大名から没収した総石高およそ六百三十万石余のうち、実にその八割にあたる五百二十万石余がこれら豊臣系の武将らへ恩賞として費やされたことを考えればいかに家康が彼らの顔色を覗って行動していたのかが知れようというもの。




