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第六十一話

 瀬田の唐橋を封鎖する黒田軍から二十門の機関砲が一斉に火を噴いた、その機関砲(重機関銃)は発射速度600発/分、銃口初速887m/s(マッハ2.5)、有効射程2,000m、最大射程6,700mという優れものだ、機関砲二十門から同時に発射される毎秒200発の弾幕とおよそ六百丁の短機関銃及び二百丁の歩兵小銃のフルオート連射の弾幕と相まって音は落雷が如く轟音に変わり、家康軍先頭集団をまるで将棋倒しのように粉砕していく。


そのころ家康軍後方の草津宿に陣を張った吉田長利少将以下一千の兵も攻撃を開始していた、兵の持つ装備は先頭に位置する三左衛門らの装備と同じである。


機関砲、短機関銃、歩兵小銃がフルオートに撃ち出される数万発の弾丸は家康軍の後端兵らに襲いかかる、それはまるで将棋倒しを見るようで瞬く間に五町ほどの奥行きに立つ全ての敵兵らは地に這った、黒田軍はひとしきり撃ち終えると軍を前進させ同時に山側を斜め背にするよう配置を変えた、これは機関砲の最大射程を考慮すれば撃ち出した銃弾が二里先の瀬田に布陣する自軍に当たるのを怖れたからだ。


この陣の移動に呼応し山側に潜む五千の伏兵も一斉に短機関銃・歩兵小銃を撃ち始めた、それにより家康軍の先頭・後端・山側の三方から猛烈なる弾幕が張られ家康軍が逃げる先は琵琶湖のみとなった。


また家康軍も敵の攻撃に対抗すべく銃を撃たんとするが肝心の銃や大筒の大半は荷駄隊の荷車に菰被りの状態にあり、兵らが荷駄に殺到するも敵弾は容赦なく荷駄隊に集中しその弾幕に押され弾が飛んでくる反対方向の琵琶湖側に逃避するしかなかった。


合計七千丁もの新鋭銃から撃ち出される弾幕は火縄銃にしておよそ百万丁以上に匹敵しよう、二里にも及ぶ家康軍七万の大軍はことごとく新鋭銃の餌食と化していった。


当の家康軍中央付近では山側から轟音が鳴り響くと、馬上の家康や将級旗本衆のことごとくが頭部を破裂させ鎧ごと吹き飛ばされて空中で肉は四散した。


それはバケツ一杯の血糊数杯分を一気に空中にぶちまけたと同じで、辺りの兵はその血糊に盲いたように半狂乱となり在らぬ方向へ走り出した。


十丁の狙撃銃から連射に撃ち出された銃弾は数十発の大筒砲弾にも等しく、撃たれた者の手足が引きちぎれるさまを見た兵らは悲鳴を放ち、周囲の兵を巻き込み我先に琵琶湖へと走り出した、その沸き立つ銃声音からすれば敵は数十万にも感じられ、怖い物見たさに振り返れば敵兵は見えず、それが一層の恐怖を煽り遁走に拍車をかけさせた。


瀬田の唐橋から草津宿までの二里半の中山道には身を隠すところは無い、ただ小川が五筋ほど有ったが身を隠すには浅過ぎた、そのため唯一の避難先は琵琶湖に駆け込むしか無い、そのとき異変が起こった、何と銃声が湧き上がる山側へ走る一団があったのだ、数にしておよ一万以上、死に物狂いの体で山側に走って行くのだ。


徳川の兵らは一様に琵琶湖に向け走り出したが反対方向に走り出す兵を見て一瞬躊躇するも、さすがに轟音を発し弾が飛んでくる山側に向かって走る狂人などいない。


この光景を堂山の小高い丘から眺めていた長政は、およそ一万程の兵がこちらの山側に向けて走りだすのを見て胸を撫でた、福島隊・浅野隊・加藤隊の三隊は長政が伝えた通り山側に退避してくれた、これでようやく敵殲滅に専念できよう。


すぐさま吉田重明大佐に二発目の信号弾を打ち上げるよう命じた、この二発目の信号弾は迫撃砲の発射合図である、信号弾は天に向け発射されると大きな放物線を描き白煙を噴きながら緩やかに西に流れた。


その時、瀬田の唐橋とその反対の草津宿、そして長政の前縁の林から幾条もの放物線が天空に舞い上がった、それらの筋は放物線を描きながら中山道の街道筋へ帯状に集中していく、やがて「ドドドドッ」とまるで導火線に火がついたが如く一条の巨大な連爆が街道上に現出したのだ。


その爆撃は横幅半丁 長手二里にも渡る絨毯爆撃となり、噴き上がる炎と黒煙は一町もの高さに膨れ上がった、その凄まじい光景は一里先で見つめる長政さえ恐怖に陥れた。


やがて絨毯爆撃は次第に街道筋から琵琶湖湖畔へと範囲を広げ、琵琶湖の畔近くまで炎や黒煙が天を焦がし始めたとき、黒田軍七千余は陣を払うと三方より琵琶湖に逃げ込む家康軍の生き残りを追い短機関銃と歩兵小銃をフルオートにし猛追していく、するとその後方より何十条もの迫撃砲弾が猛追する兵らの頭上を越え琵琶湖の岸辺や崖上で行き場を失った敵兵の頭上に無慈悲に落下していった。


その光景は長政のいる丘から見るに、まるで蟻が湖に雪崩れ込むようにも見えた。

長政は(何と呆気ないことか)と己のこれまでの悩みは一体何だったのかと思った、敵はあの弾幕では反撃の一発とて返せなかっただろうし、天空を焦がすあの業火の下に生き残れる者などいないだろう、それほどに作戦は完璧であり速攻苛烈を極めた攻撃だった。


一方山側に退避した、福島隊五千・浅野隊六千・加藤隊二千五百は目の前で天を焦がすほどの業火を見詰め震えていた、もし長政が懇願する「山側に逃げて欲しい」の言葉に逆らっていたなら我らもあの業火に焼き殺されていただろう。


これまで幾多の戦場を渡り歩いた三将だが…これほど凄まじい戦いなど見たことは無かった、その戦いは一方的に過ぎたのだ。


家康軍に反撃する暇さえ与えず、数十万発ともいえる大量の弾幕に為す術も無く家康軍五万七千は次々に倒れていき、そこへ天空から矢のように降り注ぐ砲弾が破裂し生き残った者らをことごとく焼き尽くしていく、それはまるで地獄絵図そのものだ。


家康軍の兵は数分で半数が死に絶え、半数は琵琶湖へと遁走し いま岸辺では嬲り殺しの状況にある、敵兵の選択は弾に当たって死ぬか鎧の重さで溺れ死ぬかのどちらかしかない、それこそ全滅であろう、これを戦と呼べるのか、この黒田軍の戦いぶりはこれまでの兵法軍略など根底から覆した全く新しい戦い方であろう、業火を見詰める正則はつい先日の天下分けての関ヶ原の戦いなど稚戯に等しいとさえ思えた。


福島隊の横を素通りし家康軍を追尾する黒田の兵を見送ったとき、彼らが手にする銃器を見て目を見張った、その見かけの軽量さはともかく精緻に工作されたその外観を見るや火縄銃など玩具に思えたのだ、また走りながら連射し弾込めもせず走り去る兵等は誰一人として鎧などは装備してはいなかった、彼らは端っから敵の反撃など想定していないのだ。


(一体いつの間に黒田家はあのような新鋭兵器を手に入れたのだ…ましてや九州片田舎の弱小大名にそんな財力があるわけはないのに…)


そのとき長政の底知れぬ目の色を思い出し、正則はゾクッと背筋を凍らせた。

(知らぬ間に長政は…儂らの手の届かぬ遠い彼方に行ってしもうたな…約束通り儂は奴の軍門に降ることになろう)と前方に広がる湖水の白波を寂しく見詰める正則であった。



 そのころ安田誠二郎は戦艦の甲板上から海を見詰めていた、七日前 筑後の城島城と海津城を陥落させ、その翌日には柳川城を攻略し開城させた。


沖端川の矢留に停泊した戦艦上で柳川城陥落の知らせを聞いた誠二郎は戦艦より下艦し柳川城へと赴いた、荷駄隊を率いて柳川城に到着した誠二郎は未だ煙の燻る城内に案内されると黒田利則少将の出迎えを受けた。


「黒田少将ご苦労であった、僅か二日で城島城・海津城・柳川城の三城を落とすとは大したものでござる、さぞ疲れたことでござろう 兵共々暫し休まれよ、兵粮もたんと持参したゆえ まずはゆるりと腹ごしらえなどするがよい」

そう言うと誠二郎は城内を暫し見て回り、次いで城内で捕らえし俘虜の検分に当たった。


柳川城・家老の小野鎮幸は砲弾の欠片を胸に被弾し半刻前に息を引き取ったと聞き、誠二郎は城内二の丸に安置されたその遺骸の前に進むと手を合わせ冥福を祈った。


「黒田少将、今日と明日はここでゆっくり休み明後日には佐賀城を攻める、銃・砲弾は潤沢に持参したゆえ各部隊に配られよ、それと作戦は予てよりの計画通り貴殿はここより北西の筑後川を渡り明後日の巳刻四ツ半(10:30)に佐賀城より十町南の八田に陣を布け、儂は筑後川の向島から佐賀城に向け艦砲射撃の準備を整えるよっての」


「中将殿、佐賀の鍋島殿は子息・勝茂殿が西軍に属し今は関ヶ原に在ると聞き及びまするが…当主・鍋島直茂殿は東軍に与すると噂されておりまする…ゆえに攻撃するのは暫し待たれては如何で御座ろう」


「なぁに鍋島殿は既に東軍勝利を看破しておるであろうよ、関ヶ原で子息の勝茂殿を西軍に与させたは姑息な保険に過ぎぬ、よって黒田軍が佐賀城下に陣を布けばすぐにも開城するであろう、どうせ明日にも城島城・海津城・柳川城の三城が黒田軍の手で陥落した事を知るであろうからのぅ、ただ黒田の底力だけは見せておかぬと再び姑息な手段に出るよって その思い上がりを叩いておきたいだけよ」


「分かりもうした、では作戦通り八田に進駐し陣を布きもうそう」そう言うと敬礼し、兵等に向き直ると「飯を炊け!」と嬉しそうに怒鳴った。



 二日後の九月十六日、黒田利則少将は作戦通り佐賀城下の八田に陣を布いた、その後方の筑後川・向島に誠二郎は艦載砲を佐賀城天守に照準を合わせ攻撃の準備を整えた。


巳刻四ツ半、誠二郎は甲板上に久野大佐を呼び出し「これより佐賀城に赴き、大殿が差し出された降伏勧告状の返事を聞いて参れ、受諾するのであれば開城を命じ信号弾を天に向け一発撃て、もし拒否するのであれば信号弾は二発じゃ、くれぐれも用心し危険と感じたらすぐにも戻れ」そう命じると騎馬兵二十騎を艦より下ろした。


そして待つこと半刻、佐賀城の天守上空に信号弾が一発打ち上がったのが認められ、その後固唾を呑んで二発目が打ち上がるのを見詰めるも信号弾は一発で終わった。


「さすが鍋島直茂、黒田の力が分かったとみえるのぅ」そう呟くと誠二郎は満足そうに「久野大佐を収容次第つぎは日野江城をおとす、皆の者 出航の準備を整えよ!」そう命じると再び佐賀城の天守を見上げた。


その後、誠二郎が率いる黒田海軍の五号艦と六号艦は筑後川から有明海に出た、速度は十二ノット(22km/h)の速度で雲仙南の島原湾を目指した。


戌刻宵五ツ(19:30)戦艦二艦は薄闇の中 島原湾から有間川に侵入し、三町ほど進んだところで投錨した、日野江城は城主・有馬晴信の居城である、有馬晴信は天正8年に洗礼を受けドン・プロタジオの洗礼名を持つ熱心なキリシタン大名である。


有馬晴信は文禄・慶長の役のおり、同じキリシタン大名の小西行長の一番隊に従軍し朝鮮各地を転戦した強者だ、そして帰国後も小西行長とは親交を深め今春 行長の勧めに応じ戸惑いつつも西軍に与した小大名であった。


日野江城の兵数は慶長役の陣立書から見るに、兵二千で出兵したことから現在城に籠もる兵は三千そこそこと誠二郎は読んでいた、それに対し黒田軍の艦隊攻城側は三百と常識では考えられぬ少数であり十倍もの敵が籠もる城を攻め落とすなど有り得ぬ話であろう。


だが筑後の城島城・海津城・柳川城の三城を僅か三千そこそこの黒田軍が陥落させた快挙は既に日野江城にも届いていようし、戦艦から撃ち出された砲弾が半里以上離れた柳川城の天守を一発で粉砕した恐るべき威力と命中精度も知られていよう、さて有馬晴信はどう出てくるかである。


翌十七日辰刻五ツ半(8:30)誠二郎は再び久野大佐を呼び出し、これより日野江城に赴き有馬晴信より降伏勧告状の返事を聞いて参れと命じた、受諾・拒否の合図は佐賀城と同様であるとし騎馬兵二十騎を再び艦より下ろした。


有間川の両川岸には溢れかえらんばかりに人垣が犇めき、それを押しのけるようにして久野大佐ら一行は六町西の連郭式平山城である日野江城へと馬を飛ばした。


久野大佐ら一行が視界から消えたとき、誠二郎は艦載砲に模擬曳光弾を込めさせると、日野江城天守左右を掠めるよう二発撃ち出せと命じた。


すぐに五号艦甲板の司令室前後に装備された二基の80mm艦載砲は日野江城に向け転回を始めた、砲兵らは天守の左右五間外側に照準を定めたが…いざ射撃となると躊躇った、いくら無風状態とはいえ ほんの僅かでも軌道が逸れれば天守に当たる公算は大であるからだ。


それを見て誠二郎は「なぁに当たっても構わぬから早う撃ち出せ!」と砲兵等を叱咤した、誠二郎は模擬弾など もし当たったところで炸薬は入っておらず天守の壁を貫通する程度とよんでいたからだ。


砲兵等は唇を噛み締めると再度照準を確かめ、目を瞑るとハンマリングの引綱を引いた、と同時に五号艦は震えるように振動し 恐るべき雷鳴を轟かせて火を噴いた。


この衝撃波に有間川の両川岸に溢れかえる人垣は一瞬で弾かれたように地に伏した、中には驚いて川に落ちる者も数十人おり発射音が殷々と響く中、人垣は蜘蛛の子を散らすように方々の田畑へと逃げていった。


曳光弾二発は真っ赤な尾を引きマッハ2の猛烈なる速度で北に消えた、僅か一秒足らずで六町先の日野城天守の左右ギリギリを掠めた曳光弾は天守の瓦 数十枚を吹き飛ばし北へ飛び去った、その時の衝撃波は如何ばかりであろうと誠二郎は思った、これで有馬晴信の腹は決まるであろうと思わずほくそ笑んだ誠二郎である。


やがて半刻もせぬうち信号弾が一発天に打ち上がった、誠二郎はそれを認めると一刻後、兵百を日野江城の接収駐屯兵として久野大佐に預け、錨を上げ有間川より再び島原湾に出た、今度は対岸の赤瀬を目指し、そこから陸沿いに北上し宇土へ向かう予定である。


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