第五十七話
慶長五年九月十五日辰刻朝五ツ(8時頃)霧が晴れはじめた関ヶ原の山間に、突如怒号が湧きあがり方々から法螺貝が鳴り響いた、いよいよ日本史上最大と言われる一大野戦の幕が切って落とされた。
まずは先鋒を任された東軍の福島正則と、西軍で一万七千の大軍を率いる豊臣五大老の宇喜多秀家軍が戦線の南翼で戦闘に入いった、福島正則は天満山(124m)麓に陣取る宇喜多隊に向かい火縄銃数百丁を射掛けた。
こうして関ヶ原合戦の火蓋は切られ谷間には轟音が轟いた、一方宇喜多隊からはこれに抗し数千丁の火縄が応酬する、これを初戦にして関ヶ原戦線南翼から苛烈なる戦闘が始められていった。
戦線南翼は硝煙と霧が相まって次第に視界は閉ざされていく、このときは東西両軍は未だ福島・宇喜多の二隊が戦っているのみで他の隊は東西対峙の緊張の中に有った。
この銃撃戦は暫く続けられるも両軍共に霧と硝煙が立ちこめ敵の損傷状況は掴めず無駄玉を惜しんだのか銃声は次第に散発的になっていった。
この悠長な戦いに痺れを切らしたのが戦線のほぼ中央に陣取っていた東軍の井伊直政(3600)である、井伊直正は先発隊に槍構えを命じると「掛かれぃ!」と号令し先頭を切って宇喜多隊の北側面を衝く白兵戦に打って出た。
この白兵の突出を見た福島隊は銃を射掛けることが出来なくなり仕方なく火縄銃隊を後方に下がらせた。
「井伊直正め…我が隊が先鋒のはず、それを功名を立てんと突出しおって…」
こうなれば致し方なし、放っておけば井伊直政隊三千六百など宇喜多隊一万七千にすぐにも呑み込まれよう、正則は槍組二千を先頭に立てると抜刀した白兵三千を応援に付け絶叫に近い鬨の声を上げさせながら宇喜多隊の正面に突撃させた。
これには宇喜多隊の前衛兵らは度胆を抜かれ天満山の中腹まで一旦後退した、だが宇喜多秀家は敵の白兵に恐れをなし後退するは何事ぞとばかりに「引くな!」と大号令をかけた、この怒声に奮起した宇喜多隊一万の兵が逆落としとなって迫り来る福島隊の真正面に突っ込んでいく。
この勢いは凄まじく次第に福島隊と井伊直正隊は崩れはじめ さらに山頂から宇喜多隊の残る七千も山崩れの如く如く駆け下り東軍両隊に突っ込んだ、こうなると多勢に無勢 とても抗えぬと福島隊と井伊直正隊は後退へと転じた。
この両隊の後退を見るや宇喜多隊はこれに乗じ追い討ちへと移る、だがこのとき福島隊の両横に陣取っていた東軍の藤堂高虎隊(2400)・田中吉政隊(3000)が喚声を上げ宇喜多隊の両側面に殺到、さらに井伊直政隊も引き返し肉迫におよんだため宇喜多隊は追撃をあきらめ一旦天満山の山麓へと引いた。
こうして関ヶ原の戦いにおける最大の激戦と言われた東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の戦闘はその後一進一退の攻防が繰り広げられていった。
そのころ関ヶ原戦線の北翼では石田三成(7000)の本隊に東軍の黒田長政(5000)・細川忠興(5000)・加藤嘉明(3000)などの部隊が攻撃を開始していた、これら東軍の武将はみな石田三成暗殺未遂事件の実行者で石田三成には朝鮮の役で積年の恨みを持つものばかりである、ゆえにその勢いは凄まじく檻から放たれた虎の如く三成隊に襲い掛かっていった。
だが石田三成本陣の前衛には勇将「島左近」隊と蒲生備中隊が立ち塞がっていた、島左近は関ヶ原の前哨戦となった大垣の「杭瀬川の戦い」で家康軍を翻弄した勇将である。
この左近は巷では勇将・名将として誉れ高く石田三成から「それがしの知行地半分を与えるよって是非にも家臣になってほしい」と破格の申し出を受け、感動して石田三成のために尽くすと約した武将だ。
島左近隊は木柵・空堀からなる野戦陣地で黒田軍の猛攻を防ぎつつ、隙を見て島左近と三十人の兵らは槍を構え黒田隊前衛に突っ込んで行った、そのとき黒田隊の菅六之介政利の火縄銃隊五十が突っ込んでくる島左近隊の側面に火縄銃を射かけた。
その銃弾が敵将・島左近に当たり負傷させると島左近隊はただちに崩れ左近を担ぎ後方の三成本隊へ撤退した、勇将島左近は三成が最も頼りにしていた武将で彼が開戦直後にあえなく戦闘不能に陥ったは石田三成にとっては大誤算であったろう。
その後、石田三成は自身の部隊七千八百でなんとか本陣を維持すべく猛攻を加える黒田・細川隊に大筒・火縄をもって応戦していくことになる。
一方戦線南翼の福島隊と宇喜多隊の激しい戦闘の最中、南側に陣取る西軍の大谷隊(600)・平塚隊(660)に東軍の藤堂隊(2400)・京極隊(3000)が襲い掛かっていた、兵力的には東軍側が圧倒していたが大谷吉継は兵力四倍を越える藤堂隊・京極隊を引き受け何度もその猛攻を押し返していた。
また宇喜多隊北隣の小西隊(6000)には黒田隊の後詰めである古田隊(1000)・織田隊(600)がそれぞれ攻めかかっていた、そのころ後方の家康本隊3万は未だ戦闘には参加していないが桃配山を降りると最前線近くの金森・生駒隊後方に陣を移した。
三成は開戦から一刻を過ぎたころ、まだ参戦していない武将らに戦いに加わるように促すべく狼煙を上げ、さらに島津隊に応援要請の使者を出した。
そのころ西軍では総兵力のうち実際に戦闘を行っているのは僅か三万三千ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に進めていた、しかしながら西軍は宇喜多・石田・小西・大谷とその傘下の部隊がそれぞれの己の持ち場のみを守り各個に戦っているだけで各部隊間の連携は殆ど取れてはいなかった。
それに対し部隊数や実際兵力で上回る東軍は西軍の一部隊に対し複数の部隊が連携し同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てていた。
さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢(2400)・金森勢(1100)が増援として加わったため、時間が経つにつれ次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は一時は黒田隊を三町も先に押し返したが黒田隊の猛攻は再び勢いを盛り返し石田隊は元の防御柵へと退却せざるを得なかった。
とは言え未だ西軍主力部隊の士気は高くその抵抗力は頑強で、東軍優位と言えど戦局を覆すほどの決定打には成り得ず。
ここで松尾山の小早川秀秋隊一万五千と南宮山の毛利秀元隊一万五千、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊六千六百らが東軍の側面と背後を攻撃すれば西軍の勝利は決定的になるはずだった。
しかし小西行長隊の北隣に陣取った島津は「応援要請の使者が下馬しないとは無礼極まる」という理由だけ…ではないが応援要請を拒否してしまう、また南宮山東麓に布陣する毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは徳川家と内応済みの吉川広家が南宮山の前縁で道を塞いでいるため、形ばかりに味方同士で小競り合いを演じていた。
そしてこの直後にあの有名な小早川秀秋の裏切りが起こるのだ、これを知るや南宮山・栗原山の西軍四万七千は厭戦化し傍観軍と化していく、これが西軍敗因の決め手であろう。
小早川秀秋は松尾山(290m)の山麓に布陣し、正午過ぎに東軍に寝返る予定だった、しかしいつまで経っても小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やした家康は松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じた。
小早川秀秋はこの家康の銃撃督促にようやく腹は決まり、一万五千の軍勢を率いると松尾山を駆け下り東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼に突っ込んだ。
大谷吉継(通称:大谷刑部)はかねてから秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた六百の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した、ところがそれまで小早川隊の前縁で傍観していた脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら計四千二百の西軍諸隊も小早川隊に呼応し東軍に寝返り大谷隊の側面を突いてきた。
この予測しなかった四隊の裏切りで戦局は一変、大谷吉継の配下 戸田勝成・平塚為広は壊滅し敗北を悟った吉継も御輿の上で自刃して果てた。
西軍側の軍勢は小早川秀秋に続く四隊の裏切りによって戦線南翼の陣列は混乱を極め、関ヶ原から南方へと逃亡する兵が相次いだという。
こうして大谷隊を壊滅させた小早川・脇坂ら寝返り部隊や、藤堂・京極などの東軍部隊は関ヶ原随一と言われる死闘を繰り広げていた宇喜多隊に狙いをつけると、福島隊を応援すべく両者の戦闘真っ只中に分け入った、これにより関ヶ原の戦いの勝敗はほぼ決定したのである。
小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、東軍はいよいよ西軍に対し総攻撃をかけた。
宇喜多隊は小早川隊などからの集中攻撃を防いでいたがやがて三倍以上の東軍勢の前に壊滅、宇喜多秀家は裏切り者の小早川秀秋と刺し違えようとするが家臣に説得され苦渋の思いで西に敗走したという。
宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊は早々に壊滅し小西行長も敗走した、石田隊も黒田隊の総攻撃を受けながら粘り続けたが島・蒲生・舞などの重臣らが相次いで討たれ壊滅状態に追い込まれると三成自身も側近らに護られ伊吹山方面に脱出した。
黒田隊五千はこの三成を追って伊吹方面に走り出した、これを細川・加藤隊が押し止めようと一時は小競り合いにまで及んだが黒田長政の意志は強く留めることは出来なかった。
北の伊吹山を目指し逃亡する石田三成に付き従う兵の多くは負傷しており、途中で落伍する者や三成に見切りを付け東西に四散する逃亡者が相次いだ、そして三成を護る兵が僅か三十名足らずとなったとき、遂に黒田の先鋒隊に追いつかれ三成の進退は極まった。
黒田軍は五千、端っから勝負にもならず三成は自刃し果てようと供の者に介錯を頼んだ、そのとき黒田隊は目と鼻の先で逃亡する石田軍などまるで眼中無いといった体で急に道を西に転じた、そして石田軍には目もくれず山道を米原方面に向け道無き道に分け入り消え去ったという。
過ぐる九月六日、豊前中津の黒田如水は所有の安宅船十二隻に将兵三千と歩兵小銃三千丁・短機関銃三千丁・重機関銃(機関砲)百門・迫撃砲と無反動砲各五十門、それに狙撃銃(強力歩兵銃)百丁、各実包・砲弾と兵粮を大量に積み込ませ中津の湊を出航させていた。
この三千の軍を指揮するのは特別遠征軍の黒田三左衛門中将と吉田長利少将である、彼らは瀬戸内航路で大坂に着くと、淀川を遡上し摂津湊に着岸し 摂津や京に出張っていた西軍数千と戦闘を交え、これらをことごとく殲滅し大坂・京を走り抜け九月十六日未刻昼八ツ(14時)ごろ琵琶湖西端の「瀬田」に到着した。
予期せぬ西軍の進出に手間取り予定より一日遅い到着となったため黒田三左右衛門は焦っていた、もし関ヶ原の戦いが予想以上に早く決着が付き、家康の追捕に喘ぎ瀬田へ走る長政に遅れをとったとなれば腹切りものだ、だがここ瀬田から望む琵琶湖の湖畔は昼凪に揺れ僅か二十里東北の大戦など想像もつかないほどの静けさに満ちていた。
三左右衛門は胸を撫で下ろし隣りに控える一回りも年上の吉田長利少将に「親父殿!何とか間に合いもうしたな、未だ殿も来ておらぬ様子、早々に陣を布き殿を御迎えする用意を調えましょうぞ」と少々慇懃な態度で吉田長利に微笑んだ。
この吉田長利は通称は六郎太夫と称し、十三歳になった三左右衛門の初陣である天正十二年の岸和田の戦いのころより六郎太夫はまるで父親のように初陣に怯える三左衛門に何くれとなく世話を焼いてくれ、また子の重明が三左衛門と同い年であったため兄弟のように育ち、その後 四国征伐や九州征伐にも出陣し耳川の戦いでは首を2つも討ち取り重明とともに知名度をあげていった。
この度の瀬田への出陣も、突出癖のある三左衛門を気遣った如水が抑え役として六郎太夫とその子・重明を付き従わせたことが分かっているだけに三左衛門は窮屈でもあった。
三左衛門は子供の頃よりこの六郎太夫を「親父殿」と呼び、子の重明を「シゲ」と呼び今もそう呼んでいた、ゆえに公的な場では吉田長利少将・吉田重明大佐とは呼んでいたが、誰もいないところでは未だ以て「親父殿」「シゲ」である。
申刻夕七ツ(16:17)瀬田の唐橋を北に望む瀬田川畔に建つ石山寺に三左衛門の本隊五百が入った、この寺は承暦二年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建された寺で東大門多宝塔は鎌倉時代初期に源頼朝の寄進により建てられたものと伝わっていた。
石山寺はこの鎌倉初期に現在見るような寺観が整ったと言われる、またこの寺は戦略上の要衝にもかかわらず不思議にこれまで兵火に一度として遭わなかったとされ建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財は多数伝存しているため三左衛門は兵等に建造物・仏像・経典には一切触れるなとの厳命を発していた。
また五百の兵は石山寺後方の伽藍山に配し、残る二千は瀬田川を西に渡った堂山の北山麓に在る瀬田神領に一千と中山道・草津宿背後の雑木林に一千を潜ませ大方の展開を終えた。
この配置で関ヶ原から中山道を西に進む家康軍を迎え撃つべく戦略上の要衝は押さえたことになり、後は殿・黒田長政の来着を待つばかりであった。
その翌日の巳刻朝四ツ、中山道を疲れ切った体で関ヶ原から脱出した黒田軍五千が瀬田の唐橋を渡り特別遠征軍が本陣とする石山寺に入ってきた、彼らは関ヶ原を脱出すると追捕を逃れ中山道を迂回し岩倉山から伊吹山南麓を伝い長浜に入った、そして長浜から進路を南に取り彦根の鳥居本宿を通り過ぎ中山道と平行に山道を丸一日進みようやく草津宿の裏山に至ったとき三左衛門の兵らと遭遇したのだ。
普通に中山道を辿れば関ヶ原から草津宿までおよそ十八里、関ヶ原合戦の当日夜には草津宿に到着するところ、その倍の時間を要しフラフラの体で辿り着いたのである。
彼らは戦線離脱を怪しまれないため馬や兵粮荷駄などはわざと戦場に残してきた、ゆえに二日間も飲まず食わずで昼夜踏破したのだ、よって兵らを見るにその憔悴は尋常でなく三左衛門等は家康来着前までに何とか兵らを復調させるべく食料・水を大量に与え日陰で睡眠を取らせた。
そして黒田長政を石山寺に迎え三左衛門は大いに喜んだ、昨日この地に到着と同時に斥候数十名を関ヶ原に向け放ったが中山道沿いにはその陰は見えずとの報告が相次ぎ、心配していた最中の来着であったためその喜びは一入であった。




