第四十九話
日本史上最大の合戦と言われる「関ヶ原の合戦」は天下分けめの戦と言うが、日本中の大名全てが美濃の「関ヶ原」に集った訳ではない、そのころ関ヶ原合戦の地方版とも言うべき戦いが全国各地で繰り広げられていた、それゆえ関ヶ原に参集できなかった大名らも多く、例えば会津の上杉景勝もその一人だろう。
大坂で三成が挙兵したとの知らせを受け家康は下野国小山より元来た道を引き返した。
これを知った上杉家の家老・直江兼続は好機と勇み大坂の石田三成と呼応し家康を東西から挟撃すべく急ぎ家康の後を追撃したいと上杉景勝に進言した。
だがこのとき上杉領は北を最上勢と伊達勢、西は掘・溝口・村上勢、南は下野の結城勢により包囲の中にあり、追撃に動けばこの包囲勢は一気に会津に雪崩込むとの見解から直江兼続の主張は無謀と退けられた。
そして家康追撃などより今はこの包囲網を如何に崩すかに焦点は絞られ、まずは西の堀秀治を越後に釘付けすべく 掘の領地越後(旧上杉領)で一揆を起こすが妙案と決められた。
この画策は早々に実行され景勝は直江兼続の弟・大国実頼に一揆勢の指揮を執らせると、会津南山方面より堀の領内・魚沼郡に一揆勢を侵入させた、この戦いは九月中旬まで持続され掘勢を見事に越後に二ヶ月間も釘付けすることに成功した。
一揆勢の活躍により西面の抑えが効果を顕した九月九日、今度は北面の最上勢に対し二万四千の大軍を直江兼続に率いさせ庄内方面より最上領内へと進撃させた。
兼続は破竹の勢いで最上領の畑屋城・梁川・寒河江城・白岩城と続け様に陥落させ、遂には最上勢を山形城・長谷堂城・上山城の三城に押し込めていった。
追い詰められた最上義光は山形城に籠城し甥の伊達政宗に救援を要請し正宗もそれに応え出兵を決断した。
九月十六日、正宗は叔父の留守政景に三千の兵を率いさせ山形に向け救援に向かわせた、折しもこの日は関ヶ原合戦の翌日で、伊達政宗も上杉景勝も関ヶ原で西軍が惨敗し三成が敗走したことはまだ知らない。
こうして東北の勇、上杉景勝・伊達政宗・最上義光・堀秀次らは関ヶ原には参集できなかった、もしこの東北勢力十数万の兵が関ヶ原に参集していたなら…その勝敗はどんな結果になっていたかは興味あるところだ。
そのころ北陸でも前田利長が西軍の大聖寺城の山口宗永を攻撃するなど東西両軍は衝突し、四国の伊予では毛利の軍勢が東軍の加藤嘉明を攻撃し、讃岐や阿波でも東西両軍の睨み合いから熾烈な戦いへと発展しつつあった。
こうして東西に分かれ日本国中が動乱に揺れていたころ、九州でも豊前中津の黒田如水が「機は熟した」とばかりに九州制覇に向けいよいよ動きだした。
豊前中津の黒田正規軍一万と雇兵二千は陸軍第一から第四師団に編成され、九月九日の早朝 予てよりの各戦略拠点へ各軍は進軍していった。
このとき「第二師団」三千の将兵を率いるのはかつて二番老中であった母利太兵衛陸軍中将である、彼は豊後の速見郡(別府)へと進軍中にあり、従う将は母利正勝准将・久野次左衛門大佐・曽我部義弘大佐らで夕刻には中津より五里東の宇佐郡高森城へ進みここで野営した。
そして翌日には國東半島の沿岸沿いを南下し、豊後七党の居城である高田城と安岐城を陥落させ次に大友軍が籠もる豊後の速見郡へと進軍を開始した、このとき母利中将は兵五百を曽我部大佐に与え、歩兵小銃の他に機関砲五十門、短機関銃百丁を携行させ豊後・速見郡の付け城である「杵築城」に籠もる東軍の細川勢救援のため急ぎ先行させていた。
一方 大友義統は九月八日に豊後・速見郡浜脇に上陸した、この豊後上陸に先立ち義統は旧家臣らに豊後を奪還すべく浜脇に上陸することを喧伝していた。
この知らせを豊後或いは他領で聞いた旧家臣らは喜び勇み立ち、旧主君に使えんとして義統が脇浜の湊に上陸するや湊は兵糧などを下げ馳せ参じた旧臣らで埋め尽くされたという。
この中には大友家の旧家臣の田原親賢や吉弘統幸などの強者のほか、秀吉の九州征伐で滅ぼされた豪族など多くが集まり大友義統の軍勢は瞬く間に三千余に膨れあがった。
この大友義統は「文禄の役」のとき、平壌城が明軍の包囲を受けたと知るや黄海道の鳳山城より遁走、平壌城からからくも逃げ延びた小西行長がここを頼ったときはもぬけの殻で、行長はさらに南に遁走を続け黒田長政が籠もる白川城に命からがら逃げ込んだ話は有名だが、後に朝鮮奉行であった三成の讒言により秀吉が激怒し豊後一国を改易された九州の名門大名である。
改易された義統は僅か四人の従者に伴われ毛利輝元が元に預けらた、そののち山口の本国寺に幽閉され出家を命じられると宗厳と名乗った。
その翌年の九月、今度は東北の常陸国・佐竹氏の元へ送られ 厳しい監視下に置かれた。
そして五年もの幽閉ののち秀吉の死とともにその罪は許され、その後は毛利輝元の勧めで周防国・大畠に蟄居することになり、この時点で名門・大友氏は歴史の表舞台から姿を消した。
また秀吉に召し上げられた領国「豊後」は豊臣家の蔵入地に編入されたが やがて七つに分割され小大名らに与えられた、この七つの小大名を豊後七党と呼び高田城の竹中重隆、富来城の垣見一直、安岐城の熊谷直盛、府内城の早川長政、臼杵城の太田一吉、佐伯城の毛利高政、竹田城の中川秀成の七大名を指す。
一方大友氏に仕えていた旧家臣らは御家改易と共に各大名に組み込まれたり浪人となった、こうして鎌倉以来の由緒ある名門・大友氏は主従共々消滅した。
先代の大友宗麟の時代には九州統一を目前に力及ばず秀吉にその覇を譲り、子の義統の代になり秀吉により一度は隆盛をみたがその秀吉によりその幕を閉じることになる。
だが再びこの大友氏が歴史の表舞台に現れたのは奇しくも家康台頭を憂う「豊臣秀頼」の引きで豊後国・速見郡を賜った時からだろう、父秀吉が改易し その息子秀頼が再興させるとは何と数奇な運命と言えよう。
義統は豊後の速見郡六万石相当を秀頼より拝領すると馬百頭・長柄の槍百筋・火縄銃三百丁・銀子三千枚を与えられその恩情ある命に従い拝領地の豊後へ赴こうとした。
そのとき石田三成や毛利輝元らが義統に「豊後速見郡は既に家康より丹後の細川忠興殿に与えられし飛び領、このたび秀頼様よりこの地を拝領したとあればその御下賜は家康より重きはず、よって些かの躊躇いなく細川殿より奪還すべしと勧められた。
このときまで義統は秀頼の命に従い単に豊後国・速見郡に入部するだけのはずで他の意図はなかった、だが三成らの進言から家康の命により細川領となっている速見郡を押し入って奪えと言われ、そうなれば家康の信任厚い「豊前」の黒田氏と「肥後」の加藤氏がそれを黙って見ているわけも無く、入部の際は東軍黒田氏と加藤氏との激しい交戦を覚悟しなければならないとようやく理解した。
義統は豊後国速見郡浜脇に上陸すると本陣を布く拠点を求めた、そのとき参陣した旧家臣の田原親賢が「速見郡立石に良き要害が有り、その後ろは険しい谷と川、前は岩岸高く葛折りたる細道のみ、鎌倉のむかし御先祖・大友能直様が頼朝公より豊後を賜りしとき、まずはこの立石に上り立石台地にて九州鎮撫を祈願したと伝わりまする、また先代の宗麟様も立石にて勝利を得た吉例が有り、以てこの立石は大友家の吉地となりもうそう」と聞き義統は合点した。
田原親賢の勧めで義統は浜脇から浅見川沿いに一里東の立石へと向かった、立石周辺は台地状で本陣を布くには都合良き場所でもあった、義統が立石台地に着くころに旧家臣等はさらに集まり最終的にその陣容は六千余にまで膨れ上がり義統は感涙したという。
立石台地に本陣造営を急がせるなか、九月十日義統は旧家臣の田原親賢に兵一千を与えると六里北の細川家が領する杵築城を攻め落とせと命じ進軍させた、この杵築城は細川忠興が家康から拝領した豊後・速見郡の付け城で、当時は細川家重臣の松井康之がこの城を守っていた。
過ぐる七月、杵築城の松井康之を驚かせたのは豊後・速見郡が知らぬ間に秀頼の命で大友義統に下賜されているという事実であった、これを知った康之は憤慨し 城接収の軍勢が押し寄せようとも杵築城に籠もり徹底抗戦することを決意した、そして八月に入り宇喜多秀家・毛利輝元という二大老の連署で城・領地引き渡しの命令状が届いた。
その後さらに追討ちをかけるように、石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家ら奉行衆の連署で、丹後の細川本領は秀頼公の命により領地を没収し改易させるゆえ即刻杵築城も引き渡しに応じよと命じてきたのだ、ここにきて松井康之は絶体絶命の窮地に陥った。
だがこれを聞きつけた肥後の加藤清正は弾薬五千発を杵築城に送ると、大坂方は全てを秀頼公の命と言うがこれらは三成らの卑怯なる策謀に他ならない、家康殿が大坂に戻られるまで何とか堪え、もし城明け渡しを迫る軍勢が押し寄せるのであれば我は熊本を捨ててでも救援に駆けつけると約した。
また豊前の黒田如水は杵築城が西軍に囲まれた際は加藤軍の後巻として出陣し御味方するよって安心せよと書状を送ってきた、康之はこの二人の申文に感涙し以降怯むことはなかった言う。
八月の下旬、加藤清正から康之宛に大友義統が豊後の対岸・周防上関(山口県柳井)に到着し船で近々に豊後・速見郡に渡るだろうと知らせてきた。
この報告を聞き、松井康之は杵築城の防備をさらに固めると、来たるべく大友義統との全面衝突に備え兵の訓練にもいそしんでいった。
そして九月十一日未明、上陸した義統の旧家臣である田原親賢は杵築城を一千の兵で取り囲むと攻撃に打って出た、この攻城戦は苛烈を極め 城に籠もる細川勢は火縄銃で応戦するも数で圧倒差の大友勢の意気は上がり一刻も経たぬ内に城門と内郭そして二の丸までもが陥落し本丸がおちるのは時間の問題となっていた。
そのとき黒田軍およそ五百が杵築城の北十町手前まで迫っているとの伝令が攻め手の田原親賢に注進された、これを聞いた田原親賢は黒田軍の強さは文禄の役で熟知しているだけに驚き入り、黒田軍の得意手である「退路を断ち」を恐れ雪崩れるように退却へと転じた。
だがこのとき既に遅く 黒田軍は城門三町側方に布陣し退却してくる大友軍に機関砲の照準は絞られていた。
田原親賢は転げるように城門まで退却したとき黒田軍の布陣は城門から三町も離れた位置にとどまっていた、田原親賢はなぜ急襲してこないのか理解に苦しんだ、あの距離では火縄銃の射程外で且つ退路に布陣するならともかく逃げろとばかりに側面に布陣するとは…黒田軍はたったの五百 おそらく我が軍との正面衝突を避け我が退路を開けたものと勘違いした。
田原親賢は頷くと全兵に対し「黒田軍にかまけず全軍速やかに撤収!」と号令した。
その時である、雀蜂の羽音にも似た恐るべき断続音が杵築の丘に轟いた。
五十門の重機関銃と百丁の短機関銃が一斉に火を噴いたのだ、併せて三百丁もの歩兵小銃は連射モードで一斉射撃に移っていた、それらは一秒に一千発を超える猛烈な弾幕を形成すると、一千の大友軍の隊列めがけ音速を超える弾速で人肉に突き刺さり肉塊ごと引き千切っていった。
この天地を揺るがす大音響と弾幕に大友軍は為す術もなく、僅か十秒で全兵ことごとく粉砕されていった、それはまるで屠殺に等しきもので人間の形を成しているものは殆ど無く、手足は千切れ臓腑は破裂し、およそ一町もの範囲に血泡と人肉がバラ撒かれるといった惨状を現出した。
驚いたのは杵築城から追撃に打て出た守城側である、門前で瞬時に起こった屠殺場の惨状と残された血滴る人肉累々の光景を見るや、悲鳴を上げ我勝ちに門の奥へ逃げ込んでしまった。
黒田軍の救援隊五百は杵築城門三町手前の布陣位置は依然動かず銃は構えたままである。
暫くしてその中より数名が走り出ると城門前の広場まで走り敵兵の見聞に当たった。
見聞役が戻り状況報告を聞くと隊長の曽我部大佐は大きく頷き、ようやく布陣を解くよう号令を発し「これより本隊と合流するため立石方面に進軍する!」と叫び、杵築の丘に立つと南方の方向を見下ろした。
眼下には別府湾が大きく広がっていた、大佐は湾の右手に目を泳がすと浅見川手前の実相寺山を探し始める。
大佐は実相寺山を見つけると兵らを振り返り「これより眼下に見えるあの実相寺山を目指す!」と指を差し「全隊進め!」と号令をかけた。
この一部始終を松井康之は杵築城本丸天守で見ていた、康之はいま唖然とした顔で丘を下っていく黒田軍の後ろ姿を目で追っている。
落城寸前での救援は感謝感激の極み、早々に黒田救援隊に礼を尽くさねばと天守から降りかけたとき、救援隊はこちらに一瞥もなく黙って去って行くのだ、康之はそれを留めようと声を出しかけた…しかし喉の渇きと顎の震えで声にはならなかった。
喉の渇きは今しがた目の前で無造作に繰り広げられた屠殺惨劇が脳裏を掠めたからに他ならない、門前から三町もの先で蜂の羽音に似た轟音が発せられると同時に門前に集結した大友軍一千はまるで弾かれる…いや、破裂と形容したほうがよいのかもしれないが…。
文禄の役のとき明軍の大筒から打ち出された砲丸が隣を走る兵の肩を直撃し、一瞬で腕が破裂するように消えたのを目端に見たことがあったが…今あの砲弾が数千発の塊を成し大友軍に襲いかかり人肉破裂を引き起こした…そんなふうに見えたのだ。
またあの恐るべき断続音は数千丁の火縄銃を十段構えに連続段撃ちしたらあの「ブーン」という蜂の羽音になるのだろうかと思った、だが黒田の救援隊は僅か五百足らず、松井康之は刹那に(あれは火縄銃などと言う生易しい武器ではない)と確信した。
だが一体どんな武器を使ったというのか…三町もの有効射程を持ち、瞬く間に一千もの兵を即死させる武器などこの世に有ろうはずも無い、松井康之は黒田如水の貌を脳裏に描き思わず身震いし、いま丘を下る黒田軍を呼び止め礼を言う気力などもう微塵も残っていないと感じその場に崩れ落ちた。




