第三十九話
漢城府(現在のソウル)を発った明・朝鮮連合 東路軍は一路南東七十里にある慶州へと向かい南下を開始した。
軍を率いるは明軍の名将・麻貴である、東路軍の軍容は明兵二万四千・朝鮮兵五千五百の計三万という大軍で、蔚山攻城戦時に生き延びた将兵が多く含まれているため報復に込めた想いは強く東路軍全体の士気を高め全軍破竹の勢いで慶州へ進軍していた。
慶長三年八月、東路軍は黒田長政と加藤清正が護る生浦郡に一日行軍の距離にある慶州に到着すると一時兵を休めた、そして麻貴はここより斥候・間諜の多くを発し生浦東岸に布陣する日本軍の現況を徹底的に探らせた。
生浦東岸にある日本軍の倭城は蔚山城と西生浦城である、蔚山城は西生浦倭城の防衛と朝鮮半島東部の前線基地として西生浦倭城の北四里に築城され今この倭城には加藤清正の精鋭一万が布陣していた。
この倭城は加藤清正みずからが縄張りを行い昨年十一月中旬より約四十日の突貫工事で造り上げた城だ、毛利秀元、浅野幸長らの軍勢が支援し朝鮮住民らも使役され築かれた代表的倭城である。
蔚山倭城は蔚山郡東南に位置し十四町歩ほどの広大な低山に築城された平山城で、山の形状が釜に似ていることから別名瓶城とも呼ばれていた。
その城郭は内城と外城に分かれ、内城は本丸(城門二つ)と二の丸(城門二つ)そして三の丸(城門一つ)が設置された三段構えの構造を成す堅固な平山城である。
斥候・間諜からの報告によれば蔚山倭城は明国の城の如く城壁上に凸凹型の女垣はなく長屋塀や築地塀で周囲を囲んだ日本式城郭を成した堅固この上ない造りにて、北面と西面を基軸に外側には空堀と防護柵が三重にも張り巡らされており城内の様子は全く見渡せず無人のようにも見えると報告された。
しかし昨年暮れの蔚山倭城攻城戦時、無人のように見えるこの城に近づくと雨の様に銃弾が降り注がれた経験から明・朝鮮軍の戦い方が全く通じない暗中模索の城であるとも報告された。
また攻城戦時、明軍の常套手段である大砲攻撃はこの蔚山城には威力は発揮できないであろうとの報告ももたらされた、それは平原に孤立して立つ島山に造営された城郭のためその高低差は百七十余尺もあり城周辺の低地からの射撃では威力は期待できないということだ。
次ぎに蔚山城の七里南に位置する倭城は黒田長政が籠もる西生浦城である、この倭城も海に面した小高い山の上に築かれ、海側は入り江を成し城の北側には川が流れ形態は山城である、山頂には本丸、山腹に二の丸、麓に三の丸という配置で 今この倭城には黒田長政軍の精鋭五千が布陣していた。
この倭城は東に回夜江の河口に小さな浦を抱え、標高四百五十尺の山頂に内城が築かれ東側の傾斜面を利用して複雑な構造の二段三段の副郭を成し、山の下まで長広なる外城が築かれていた。
また城壁の外には二重三重もの壕が掘られ、城郭の全体面積は壕を含め十五町歩に至り、壕を除く城外郭部の総延長は二里半におよぶ、この倭城は朝鮮半島に築城された城の中では最大級を誇る、また城の東側は回夜江が防御線となりその南岸には名仙島がある、この小さな島は城壁が張り巡らされ高台を活かした海側防衛拠点として構築されていた、ために陸からも海からも攻めにくい難攻不落城であろうとの報告がもたらされた。
そのころ これら斥候から「攻めるに困難」という報告を受けながらも明・朝鮮軍の諸将は先回の蔚山城攻防戦で手痛い遁走を余儀なくされ、多くの将兵を失ったことに憤りを感じていたためか すぐにも蔚山城攻略に向かおうと東路軍大将の麻貴に詰め寄っていた。
しかし麻貴はこの二城の造りから難攻不落の城であることは紛れもなきことと覚え、前回の勢いに任せた軽挙攻撃は今回も同様な被害をもたらすだろうと読んでいた、また難攻不落の城に加え敵は日本軍の中でも最強と謳われた加藤・黒田の精鋭一万五千の軍容である、例え自軍が倍するとはいえ下手をすれば前回の二の舞となろう。
また敵もこちらと同様に多くの斥候を出しているのは当然のこと、我が軍の発動と同時に西生浦城の黒田軍五千が蔚山城の応援に駆けつけるは必至、さすれば前回の手痛い挟撃と同様に総崩れの可能性は否定できない。
麻貴はこの挟撃を避ける意味で東路軍を二手に分け、蔚山城に二万 西生浦城に一万の兵を配備し同時に攻めかかる作戦を検討した、しかし間諜の報告によればこの二城の兵粮備蓄は優に二ヶ月分を超えていると報告され、逆に東路軍が携えた兵粮は一ヶ月にも満たなかった。
もし日本軍が東路軍の挑発に乗らず貝のように倭城に籠もったなら、難攻不落と言われるこの二城が干上がる前にこちらが疲弊してしまう、麻貴は「下手には動けぬ」と思った、だがこのとき 日本軍総大将の太閤秀吉が既にこの世を去っていた事などは知るよしも無いが…。
慶長三年(1598年)八月十八日、秀吉は波乱の生涯を閉じ しかし外征の途上でもありその死は秘匿された、この秀吉の死により数十万という大軍勢を朝鮮半島に投入し一気に朝鮮半島を占領する計画は消滅した。
しかし不思議なものである、秀吉一人の死を以て諸大名は一致して朝鮮からの即時撤兵に同意し終戦処理へと繋がっていくのだ、いかにこの朝鮮出兵が秀吉個人の我欲から発し衆人を無視した戦役であったかが読み取れよう、また当時の秀吉の権力の大きさを如実に顕していると言えようか。
こうして豊臣政権は秀吉の死を隠したまま朝鮮との和議交渉を模索していく、それは朝鮮半島に残る将兵を無事日本に帰還させる上で和平成立は必須だからだ、このことから秀吉の死と和議締結の命を携えた徳永寿昌・宮木豊守の両名が朝鮮の各陣営に赴くことになる。
この二人が携えた朱印状には敵方への情報流出を恐れ、まことしやかに秀吉の快復が書かれ安心するようにとさえ書かれてあったという、それゆえ詳細なる真実は両使の口上に委ねられることになる、また在朝鮮将兵にいたずらに混乱を与えぬよう軍令書には徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・前田利家ら大老の連署状も添えられてあった。
日本側が要求する和議締結の条件は依然 朝鮮王子の来日に固執していた、秀吉が没してなお豊臣政権は戦争の名分立てを通さねばならなかったのか、しかし九月に入ると王子来日の代わりとして多少の貢ぎ物に代えてもよいとさえゆるめられた、ここに至れば日本側は外聞がたつことだけに配慮が働いていたのだろう。
しかし朝鮮側は和平案など端っから受け入れる素地などなく、日本側の外聞ばかりに固執した和平の実現は絶望的となっていく、だが日本側としては半島が本格的な冬を迎える前に全将兵の撤兵を完了させねばならなかった。
秀吉の死去は「朝鮮王朝実録」に宣祖三十一年八月の段階で秀吉の死が取り沙汰された記述が残っており両使の渡海前に秀吉の死は既に朝鮮側に洩れていた可能性は充分にある、それはこの時期の朝鮮側の態度が急に変化したことからも窺い知れよう。
日本側が秀吉の死を隠したまま和平工作を模索するこの重要な時期に明の総督・郉玠は日本側の各拠点を攻略する命を下し、明・朝鮮連合軍は日本軍が布陣する蔚山(西生浦)・泅川・順天の三箇所に破竹の勢いで殺到していった。
だが先述の如く蔚山城、西生浦城攻略の東路軍は倭城を前に攻める事も出来ず未だ慶州で足踏み状態にある、
また泅川に拠る島津義弘・中恒父子を攻略する西路軍の菫一元は数度攻撃を仕掛けるも泅川は落ちず、逆に鬼島津の反攻を受け総崩れに退却。
そして順天に拠る小西行長を攻略する中路軍の大将 劉挺も順天城を攻めあぐね結局は兵を引いた、これを受け劉挺を海側より支援する水軍の将・陳隣も古今島に引き上げる始末だ。
こうして明・朝鮮軍による慶長の役最大の同時三拠点攻城作戦は全ての局面において失敗し、日本勢を朝鮮半島から駆逐する攻略作戦は十月の中頃 何の成果もないまま無残にも破綻していった。
徳永寿昌・宮木豊守の両名は十月に釜山に入ると 敵の撤退を機に泅川の島津義弘、順天の小西行長、蔚山の加藤清正や西生浦の黒田長政らを訪れ秀吉の死を知らせると十一月十日まで釜山まで撤退するよう伝えた、こうして明・朝鮮軍の反攻を退けたという有利な戦況の中で日本軍撤兵の準備は粛々と進められ、また各所で和議交渉も平行して進められていった。
慶長三年十一月末日、朝鮮の長政から書状が届いた、それには蔚山・西生浦両城の城郭を破却し釜山へ引き上げてきた旨がしたためられ、遅くとも十二月の末までには豊前に帰還出来ると記されてあった。
この報に接し中津城内は俄に色めきたち城外市中も喜びに沸き立った、中でも一番に喜んだのは三左衛門(黒田一成)であろうか、彼は誠二郎が見せた長政の書状を読むや喜びの表現なのか誠二郎を抱き締めると俄に踊り出したほどである。
「誠二郎殿が言われた通り十二月帰国は間違い無きことであった何と嬉しや、これで殿が帰国あそばさればいよいよ天下取りじゃ、腕が鳴るのぅ誠二郎殿!」と叫び、それ以降は書院の中をぶつぶつ独り言を言いながら熱に浮かされたようにいつまでも歩きまわっていた。
この三左衛門、今秋の収穫高を見届けるや兵を募るため密かに部下十人を引き連れ日本海航路で越前へと向かった、彼らは越前・美濃・尾張・三河と廻り兵募集の可能性を探りながら帰途 京に寄り大殿如水(この年の四月に朝鮮より帰国)を京都屋敷に訪ね五日間ほど滞在した後、先日中津に帰着したばかりであった。
京の如水と三左衛門はこのとき「長政帰国後の黒田家天下取りの方策」が話しあわれたらしく、京から帰った三左衛門は得意げにその時の内容を喋ったのだ、しかし内容は文禄二年 誠二郎が釜山の東莱邑城で官兵衛・長政・善助らの前で語った「天下取り構想」の域は出ていなかった。
この「天下取り構想」は釜山東莱邑城で誠二郎が酔った勢いで語った夢物語とは言え 官兵衛・長政・善助らのショックは如何ばかりか、彼らは眼から鱗ほどの感慨で聞きその実現の可能性を掴んだはず、その証拠に誠二郎を国元へ急遽帰国させ銃火器工廠を建造させると数万丁に及ぶ先進銃器を製造させた。
三左衛門は「詳細は長政様帰国に合わせ大殿がここ中津に赴いて諸将と練る段取りになっておる」と語っていたが…そんな重要な話しならば三左衛門より先に誠二郎に何らかの指示が有ってもいいはず、三左衛門がもしこのことを誠二郎に喋らなかったら誠二郎は聾桟敷に置かれたことになるだろう。
天下取りの可能性を官兵衛・長政父子の心根に惹起せしめたは誠二郎が企画した百頁にもおよぶ上申書によるもの、その上申書を裏打ちしたのはこの時代には無い夢のような新鋭兵器の製造技術…あのとき軽機関銃を見せ拳銃を見せて彼らはその実現を合点したはず それなのに…。
天下取りの切っ掛けは誠二郎の存在と持てる先進技術にあったればこそ、その誠二郎を差し置き脳天気な武辺者に先に相談するとは…大殿の為されようは合点が行かぬと誠二郎は正直面白くは無かった。
人間とは了見の狭い生き物だ、ほんの些細な齟齬から生じた針穴の疑心暗鬼は ときとしてどうにも塞ぎきれぬ大穴へと変貌していくものなのか。
三左衛門は「大殿から天下取りの相談を受けた」と得意げに言っていた、しかし大方は如水が酔った勢いで天下取り計画の触り程度を喋ったに過ぎないことぐらい誠二郎にも解る、しかし嫉妬心だけではない底知れぬ不安を綯い交ぜに心は次第に暗雲に暮れていった。
その原因は今春四月、朝鮮より帰国した如水は中津に寄ることなく真っ直ぐ京に向かったのだ、まずはその行動が誠二郎には奇異に映った、これまで数度朝鮮に渡った如水は帰還後は必ず中津に寄り誠二郎を呼んで慰労の言葉をかけてくれた。
しかし今回はそれが無かった、ゆえに京で余程の事態が出来したのかと探らせたが如水は京につくなり毎日のように秀吉の枕元に侍ったり、公家の日野輝資や高倉永孝らと連歌に興じているという。
その後 如水からは何の便りも無く、誠二郎は訝しく思い秀吉死後の黒田家の処し方など御伺密書を何度もたてたが返信は無かった、また朝鮮の長政も一老の善助も便りは届くが近況報告程度で豊前中津に帰還後の行動については一切触れられてはいない。
秀吉が死に慶長の役が終り朝鮮の黒田家重臣らがここ中津に帰ってくるのは十二月、夏が去り秋が過ぎた頃…誠二郎は重臣らの帰着を思うたび心は不安に嘖まれていった。
この世界に転生すると同時に戦場に放り出された誠二郎、恐怖と怯えのなか唯一の寄る辺は如水・長政・善助であった、それはこの三人が誠二郎を必要な存在と認めてくれたからだ。
なのにその三人は最近では誠二郎に全く感心を示していない、これまで中津黒田家で怨嗟を浴びながら多くの改革が断行できたのは寄る辺である三人の後ろ盾が有ったからに他ならない、しかしその三人はいまそっぽを向いている様な気がしてならない。
誠二郎が豊前に来て六年、その六年で驚異的なる「黒田家の躍進」は米の収穫高だけをとってみても文禄当初より二倍以上に増大させ、殖産振興の税収効果は六倍近くに跳ね上げた、これにより黒田家の総収入は彼らが戦に出かけた六年前に比較すれば三倍は超えていよう。
「豊前の綿織物」「豊前海の天日塩」「豊前海乾物」そして城下町の整備・交通網の整備・漁業と海運の振興、それと割符システムの浸透など国の営利・経営に関し普通であれば百年は係ろうかという改革をたった六年で達成させたのだ、これほどの驚異的躍進を遂げることができたのは当然誠二郎の能力にあろう。
しかしながらそれを補強したのはこの六年間 誠二郎に政敵がいなかった…つまりその政敵を都合良く排除してくれたのはこの三人でもあろう。
この都合良い政敵排除は外征という特異性が手伝ったからで、朝鮮より誠二郎の上役とも言うべき多くの諸将が帰って来たならそう簡単には行かなくなる。
そうなれば政敵排除どころか…どこから涌いて出たか分からぬ蛆のような誠二郎など黒田家中枢からは簡単に外され、得体の知れぬ奇っ怪なる者、又は御家を勝手に我が物にした奸物と下手をすれば誅殺される可能性さえ出てくるのだ。
(考えてもみれば現在工廠に眠る武器の数…それらの一部を使用するだけで九州全土を黒田家は手中にすることが出来よう、また全武器を使用するというなら関ヶ原から南下する徳川軍(東軍)を数度も殲滅するに足る量だろう…そう考えたら今日以降の俺は何なのだ、もう役目は終わってお払い箱ということか…あの三人の野望とは端から俺抜きっていうこと?)




