第三十八話
この年の秋 米の収穫高は昨年に比べ二割増となった、収穫増加は農薬と化学肥料によるものと考えられたが それ以外に灌漑の充実や正条植え草焼きなど米の育成増産に寄与する運動を農産部と農民が協力して推進した賜かもしれない、それゆえ農薬と化学肥料と断定するは早計で二~三年ほども観察し評価しなければと誠二郎は思っていた、だが三左衛門にとっては結果だけが真理で、来年はさらなる豊作が見込めるはずと早くも兵二千ほどを募りたいと強請ってきた、そんななか今度は朝鮮の黒田長政から金のかかる難題が持ち込まれた。
内容は「全州会議で釜山北三十里の梁山に築城を命ぜられた、ついては添付書の資材を至急送れ」との書状が誠二郎の元に届けられたのだ。
未だ機張城の莫大な借財さえ返し終わっていないのに なんでまた新たに築城など命ぜられるのか、誠二郎は書状を読み終わるやその場で破り捨てたい衝動に駆られた。
(はぁもうやってられるか、次から次へと金の無心ばかり言いやがって…奴らは黒田家に金のなる木でも生えてると思っているのか、もし俺がいなかったら黒田家なんぞとうに破産しておるわ!)と腐った。
しかし放っておくわけにもいかず、しかたなく主税部にそれら要求資材や兵粮の見積積算を行うよう命じると その日の夕刻にも誠二郎の元へ届けられた。
だが積算合計を見て誠二郎は眼を剥いた 何と当面の費用だけでも三万石を超えていたのだ、誠二郎はすぐさま二ノ丸に走り三左衛門を呼び出した。
三左衛門は退城前だったのか寛いだ感じに待合所に出てきた。
「誠二郎殿、遅くに用とは酒でも呑みに行こうかという相談ですかな」と微笑みながら座卓の正面に座った。
「何をのんきなことを、これを見て下され」言うと朝鮮より届いた長政の書状と添付書を座卓の上で広げ三左衛門の眼下に押しやった。
三左衛門は書状の文字を辿りながら長文の書状と添付書に目を通していった。
「ふむぅ殿は京畿道から安城に入り竹山付近を掃討中と聞いておったが…既に掃討は終えたようじゃなぁ、今は冬を控えて内陸から南の半島沿岸に拠点を移されたようじゃ」
その悠長なもの言いに誠二郎は苛立った。
「そんなところはどうでもよろしい、儂が言いたいのはここよ」と指で城郭建造を命ぜられた箇所を指差した。
「おおぅこの城郭建造のことか、たしか…どこぞに梁山の地と書いてあったが、どうせ一時凌ぎの砦程度じゃろうて」
「おぬしは何と悠長な、添付書も見たであろう」
「見たが儂は築城のことはよう分からんで、ざっと目を通しただけじゃが何か?」と三左衛門は誠二郎の目を見やった。
「その添付書が問題なのよ、これを見て下され」言うと積算書を座卓の上に置いた。
三左右衛門は見ると同時に眼を剥いた「さ…三万四千石!」
「そうよ取り敢えずは三万四千石じゃ…どうするよ、おぬしには悪いが兵二千なんぞ到底無理というもの、いや百でも無理じゃろうて」
三左衛門の肩が震えるのが見えた。
「思い出した、梁山と言えば機張城のすぐ南ではないか、機張城には湯水のように金を注ぎ苦労して造ったとおぬし言うとったな…こんな近場に又もや築城するのか、ほとほと宇喜多秀家殿は何を考えているのやら、また殿もどうして抗弁しないのか…もう阿呆らしゅうて言葉も出ぬわ」と苦渋に満ちた顔で積算書を呆然と見つめていた。
「宇喜多秀家殿ではなく どうせボケ老人(秀吉)の意向でござろうよ」
言ってから誠二郎は(ボケ老人は言い過ぎか…)と三左衞門の顔を見た、だが三左衛門は聞こえなかったのか積算書を見つめたまま上の空だ。
(はぁ殿に無理と言えるわけもなし、こうなったら殿の要求に従い資材と兵粮を送るしかないか…。
しかし城が出来たとしても秀吉死去は来年の八月…建造後すぐに放棄することを考えればドブに捨てるも同然、それにどうせ本格築城が始まれば五万石でも済まぬであろう…。
朝鮮の民から搾り取れるのは労役のみ、今や金や資材は疲弊しきった彼の地では無理だろう、結局資材全費は当家の懐から出すしかない…兵百どころか文禄当初に逆戻りよ、一体殿は当家の実情を知った上で要求しているのだろうか…)
誠二郎はその憤りを何処にぶつけることも出来ず頭を抱えた。
暫く苦渋に満ちた沈黙が続いた。
そのとき急に三左衛門が思いついたように顔を上げた。
「どうせ捨てる城なら外観だけ整えた張りぼて城でもええわけじゃ、であれば一万石もあれば釣りが来るというものよ」と目を輝かせて誠二郎を見た。
「それだ!なんという奇策、その昔 秀吉様が築城した長良川西岸洲股(墨俣)の一夜城のように急造りじゃなく念入りに張りぼて城を造ったとしても六千石もあれば充分じゃろう、さすがおぬしは戦略に長けておるのぅ」
「クククッそういう狡いことはそれがしに御任せあれ」と三左衛門は誠二郎の同意を得てか高らかに笑った。
「では早速に朝鮮の殿に書状をしたためもうす、おぬしは明朝朝鮮に発てる早舟を手配して下され」そう言うと誠二郎は席を蹴るように立ち上がり、いそいそと二ノ丸出口へと向かった。
それを見送る三左衛門は「誠二郎殿、書状を書き終えたなら いつもの飲み屋で待っておるからの」と背中に声を投げた。
すると誠二郎は右手を挙げ振り向きもせずそのまま待合所から出ていった。
朝鮮に早舟飛脚を発ててから半月後、長政から返信が送られてきた、それよれば「面白き案、すぐにも築城縄張りを検討したところ添付した資材で相済候、また懸案の兵粮については秀吉様の支給米と決着相成候」とあった。
三左衛門の思いつき案は却下のおそれ有りやと書状を出してはみたが…こうもすんなり受け入れられるとは正直誠二郎は思っていなかった、たぶん殿は黒田家の苦境を慮り苦渋の決断をされたのであろう。
誠二郎は新たな添付書に基づき全資材を見積積算させたところ何と総額五千石以下であった、誠二郎はいくら張りぼてとはいえこの額では出来上がりが余りにも見窄らしいと危うく感じたが、殿なりの考えも有ろうかと添付書通りの資材を調達し十一月の初め黒田家御用船で釜山浦へ送った。
その後 長政から便りも無く平穏な日々が過ぎ豊前中津は慶長三年の正月を迎えていた。
その正月も過ぎ二月の初め長政に同行する栗山善助から一通の書状が届いた、それによれば加藤清正が現在普請中の倭城である蔚山城に明・朝鮮連合軍が突如襲い掛かってきたという。
明・朝鮮連合軍の攻撃は十二月二十二日未明より始まり、第一波の攻撃で城外を守っていた毛利勢は総崩れし加藤清正が護る惣構えの内に引いたという。
二十三日払暁から始められた攻城戦はこの惣構えに集中し、二刻も支えられず遂に城内に引いたが敵はその夜も包囲を緩めず散発攻撃を仕掛け、翌二十四日にはさらなる突撃が数度敢行された、この激しい攻撃はその日の夕刻まで及んだという。
この蔚山城の普請は毛利勢の援助を受け進められており戦準備など全くしておらず、ために食料備蓄などあるはずもなく急な攻城戦を仕掛けられ毛利勢も加藤勢と共に守城側になったことから食料や水はすぐに尽き、飢餓に苦しむ将兵らの多くは夜陰に紛れ逃亡するように敵に投降したという。
誠二郎も経験したが三日も飲まず食わずが続けばその飢餓感は筆舌に尽くしがたく朝鮮側に投降する日本側将兵の心理は誠二郎にも理解は出来る、だが朝鮮側に投降したとて食にありつけるとは限らない、復讐に燃える朝鮮人はそんな甘いものではない、たぶん文禄の役での日本軍俘虜の扱いがいかに残虐を極めたかを知らない将兵らであろうと誠二郎は思った。
この攻撃から五日目、城内に籠もる将兵らは落城は間もなしと観念、敵への投降は後を絶たず城内の有様は地獄の様相を呈し、馬を殺し焼けた米を拾い紙を食み夜中に城外に出ては敵の屍から食料を奪いあった。
二十九日、敵から降伏勧告の申し入れが有り清正はこの降伏勧告に応じることを表明、それは援軍到着までの時間稼ぎであったと今に伝えられるが定かではない、それは城内の水・兵粮の枯渇はもとより銃器の弾薬も底をつき、将兵の士気も限界に達し いつ来るかしれない援軍を持つ余裕がこの清正にあったろうか。
ところが事態は急転する、それは降伏会談が迫った一月二日、城外遠方に日本軍の旗幟が翻っているのを見たからだ、これにより城内の志氣は一気に跳ね上がり加藤清正は降伏受諾を破却すると徹底抗戦の構えをとった。
明・朝鮮軍はこの事態を知るや日本の降伏は無きものと援軍到着前に蔚山城を陥落すべく一月四日、夜も明けぬうち城の三方より総突撃を敢行した、この攻撃戦は不退転の決意で臨んだ熾烈を極める戦闘となったが、その第一波を籠城側は死にものぐるいで抗戦し何とか後退させた、だが二波は耐えられない程に被害は甚大となっていた。
敵の第一波が引いた頃ようやく辺りは朝の光に満ちた、そのころには押し寄せる日本の援軍およそ四万が間近に迫っており、あと僅かで落とせる蔚山城を前に明・朝鮮軍は地団駄を踏んだ、しかし退路を断たれる事を怖れ明・朝鮮軍は遂に退却に転じたのだ。
これを察知した虫の息の加藤清正ら籠城軍は それでも最後の力を振り絞り何と追撃に打って出たのだ、これに驚いたのが明・朝鮮軍である まさか追撃に打って出る余力など有ろう筈もないとの余裕の退却であった、よって退路の備えなどなく明・朝鮮軍は大混乱に陥ったという。
酷寒のなか武具や甲冑さえ脱ぎ捨て裸で遁走する者もあったというからその驚きぶりは尋常に非ず、この退却は「手負い・死人その数を知らず」という壮絶なる撤退劇となり明・朝鮮軍の死者は二万余 で負傷者は数千を数えたという。
この援軍には黒田長政軍も参加していた、しかし今回は遁走する敵を追い回しただけで当方に損傷は無しとの栗山善助の知らせであった。
誠二郎にすれば朝鮮からの書状は戦々恐々ものである、すわ今度は何の要求かと読むまで「金送れ」でなければよいがと身の縮む想いなのだ。
しかし栗山善助の書状は朝鮮の戦況と財政難のところ無理なる資材調達の御礼、および釜山浦に無事資材が到着し築城が現在進みつつある事を知らせてきただけだった。
それから二ヶ月後の四月、今度は長政からの書状が届いた、誠二郎は殿からの書状は先回が先回だけにすぐには開封せず二ノ丸に赴き三左衛門の前で開いた。
まず二人は座卓に書状を置くと恐る恐る開き、二人同時に目を走らせ同時に声を発した、「亀浦に城替えじゃと!」
しかし読み進むうち どうやら新たな移動先である亀浦(釜山から北へ三里の地)には城が既に有りそこに移るだけらしい、そして最後まで読み終わったとき何処にも「金送れ」の文字は見られなかった、二人は揃って胸を撫で下ろし互いに顔を見合わせ含み笑いした。
それにしても張りぼて城とはいえ築城中の城を破却し他所に移るとは…何と勿体ない事よと思うも、この破却で張りぼてがバレずに済むと思えばそれはそれで良かったのかもしれない。
五月に入り又もや長政から書状が送られてきた、今度は三左衛門と揃って読むことはやめ主税部の奉行部屋で一人で読んだ。
読み進むうちに又もや城替えの件である、今度は亀浦から西生浦(釜山から北へ十七里の地、蔚山近隣)への移動だ、西生浦には現在 毛利吉成が入っているため 彼が釜山城に移動したらそこに入ると書かれてあった。
しかし今回も先回と同様に移動の趣旨や背景が全く書かれておらず「何で?」と思うばかりで、いま朝鮮半島南岸地域で何が起こっているのか全く掴めなかった。
しかし蔚山城の近郊と書かれてあることから昨年の暮 明・朝鮮軍の総攻撃があった地域への移動となろう、誠二郎はその最前線への移動に危ういものを感じた。
誠二郎は早速返信をしたためた、それには長政や善助も知っていようが あと三ヶ月で太閤殿下が死去し慶長の役が終息するゆえ今は何もせず、どうしても動かねばならないときは牛歩で当たるべし、それとくれぐれも将兵の損耗無きよう国元へ無事お連れ下さいとしたためた、但しこの書状が仮に他人に読まれても秀吉の死は解らないよう長政と誠二郎にしか解らない符丁でしたためたのであった。
そして六月、太閤殿下は史実の通り体調を崩し床についた、病状は重篤で快癒不能との情報がここ豊前の中津城にも伝えられ重臣らには様々な取り沙汰がなされた、また在朝鮮諸将のあいだにも動揺が広がっているという事が栗山善助からの書状でも明らかになった。
そのころ朝鮮半島では明・朝鮮軍が大挙し攻勢に転じようとしていた。
それは明の左都督・菫一元ら増援軍は二月に鴨緑江を越え朝鮮に入り、同じく明の水師都督・陳璘率いる広東・浙江・直隷の明水軍は忠清道南陽湾に集結していた。
こうなればもはや朝鮮との戦いではなく大帝国 明との戦いに他ならない、朝鮮はこうまで明の力を借りたら勝っても隷属に甘んじなくてはならないに…と侵略しておいてこんな詭弁は無かろうが、誠二郎はつくづく思う、日韓併合時の問題も然り、また朝鮮戦争も然り、己らが形勢不利となれば恥など顧みず他国に助けを求めるお国柄、それではとうてい「独立」とは呼べないだろう、面従腹背してもなお生き延びようとする風土、アジアの他の民族とこうも違う朝鮮民族とは一体どこから来たんだろうと誠二郎は思った。
明の総督・郉玠は、先の蔚山城攻城戦の失敗を踏まえ日本の諸軍勢が相互に救援出来ぬよう一点攻めでなく分散して日本側の各拠点を各個攻略する計画をたてた。
具体的な攻撃目標となったのは蔚山(西生浦)・泅川・順天の三箇所で黒田長政軍が護る西生浦倭城もその攻撃対象に入っていた、漢城に終結した明・朝鮮の陸戦部隊は東路・中路・西路の三軍に分かれ七月に南下を開始した。
三軍のうち黒田長政が護る西生浦城と加藤清正が護る蔚山城を目指しているのは東路軍を率いる名将・麻貴でその軍容は明兵二万四千・朝鮮兵五千五百の計三万という大軍で、三軍のうちで最も規模が大きい軍団でもあった。
そして八月、東路軍は西生浦と目と鼻の先の慶州へと入り、いよいよ長政軍との戦闘に突入していこうとしていた。




